生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

15 噂(R15)

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 やっと紅葉の宴の二日前の夕刻になって、時間があいた。
 母が新右衛門たちに近くの神社の祭りに行くようにと言った。
 すでに小治郎は犬飼の丙三らと連れ立って祭りに出かけていた。
 子どもでもあるまいしと惣左衛門が言うと、於三はいつも一生懸命働いているのだから、たまには連れて行っておやりと言うのであった。
 母から見れば於三はまだ子ども同様で、健気に働く姿を見ていれば、気晴らしの一つもさせたくなるのであった。
 それではと惣左衛門が重い腰を上げると、早くも新右衛門は於三を呼び、遅いと惣左衛門に言う始末であった。
 惣左衛門は気を利かしてやるかと、神社の石段を上る際、先にわしは行くと言って駆けあがって行った。元より於三にそれを追うことなどできないから新右衛門と二人並んで歩くことになった。
 手をつなぐことなどできなかったが、於三も新右衛門もしみじみとした気持ちで石段を登ったのだった。

「遅いぞ」

 惣左衛門は笑って二人を社殿の前で出迎えた。
 三人で一緒に参拝し、石段を降りようとした時、ちょうど丑松が上がってくるところだった。
 もうじき祝言という丑松は機嫌がよさそうであった。どうやら一杯ひっかけて出てきたらしい。

「おう、おぬしらも来たか」
「おい、酒臭いぞ」
「はは、前祝じゃ。新右衛門も後で一緒にどうだ。おぬし、御分家の婿になるのだろう」

 丑松の言葉に新右衛門も於三も惣左衛門も耳を疑った。
 
 「誰がそんな与太話をしているのだ」

 惣左衛門の問いに、丑松は笑った。

「誰とはまた異なことを。皆噂しておる。壱姫様の婿殿とな。なんでも明後日の紅葉の宴の後で殿様からじきじきにお話があるとかいう話ぞ」
「ばかな。さような話は知らぬ」

 新右衛門は叫んでいた。

「そうか。じゃが、先だって御分家の方がお城にその件で挨拶に伺ったという話だぞ。縁組には殿様の御裁可が必要じゃからな」

 あまりに真実めいた噂だった。知らない人間が聞いたらそのまま信じてしまいそうな。
 於三は真っ青になっていた。提灯の薄暗い灯りしかない場所だから、誰も気づきはしないが。
 一方、惣左衛門はそうかと納得した。この数日、出仕した時の同僚らの態度が微妙に以前と変わっていたのだ。
 以前は岡部家の方々はこのような仕来りは御存じないであろうからと遠回しな嫌味を言われたのに、この頃はそのような物言いをされなくなっていた。
 それがなんだか気味悪く思われたのだが、そういう噂があるとすれば合点がいった。新右衛門が御分家の婿になれば、惣左衛門も御分家の縁に連なる者となるのだから。
 惣左衛門は怒る新右衛門をなだめた。

「新右衛門、落ち着け。丑松、もしさような話があるのなら、わしらの親に話があるはずじゃ。だがそういう使いなど来ておらぬ。何かの間違いではないか。あまり妙な噂を流すと、おぬしらが恥をかくぞ」
「したが、新右衛門は岡部殿の子ではないであろう。新右衛門はどこぞの高貴なお方の血を引いていて、その縁だという話をわしは聞いたぞ」

 なんだかとんでもない話が広まっているようだった。

「とにかくありえぬ。わしは岡部の子じゃ」

 新右衛門は言った。岡部の両親こそ自分を育てた親だった。墓の下で眠る両親は血筋の上では親かもしれぬが、食べさせてくれたのも叱ってくれたのも抱き締めてくれたのも岡部の両親なのだ。

「だが、その岡部殿がおぬしには惣左衛門とは違うことを学ばせておるではないか。歌など、まるで御分家の方々のようなことを。岡部殿はおぬしを婿入りさせるために学ばせておったのではないかと皆言うておる」

 新右衛門は、それは違う、梅芳院様の御意向だと言いたかったが言えなかった。

「婿殿になったらよろしうな」

 丑松はそう言うと社殿に千鳥足とまではいかぬがふらつく足で歩んで行った。

「そんな馬鹿なことはないぞ、於三」

 新右衛門は於三の小さな背中に向けて言った。

「そうじゃ。わしらに何の話もないわけがない」

 惣左衛門はそう言うと、わしは先に帰るから二人でとくと話し合うがよかろうと階段を駆け下りて行った。

「おめでたい話ではありませんか」

 於三が顔を上げて言った。その顔は今にも泣きそうに見えた。





 人が増えて来たので、新右衛門は於三の手を引いた。この神社の裏山は人気がないはずだった。

「どこへ」
「きちんと話すゆえ」

 そう言って新右衛門は社殿の脇の藪を抜けて裏山に向かった。生い茂った草を踏んで行く。足元から虫が跳ねてゆく。あまり遠くに行くと社殿の灯りが見えなくなるので、大楠のそばで歩みを止めた。

「丑松の話は知らぬ。何か勘違いしておるのだ。壱姫様には歌塾で会ったことはあるが、婿入りなど聞いてもおらん。大体、わしが分家の婿になどなれるはずがないのだ。父上もさようなつもりで塾にやったわけではない」
「噂というのは、本当のことも少しは混じっているもの。所帯を持つなどやはり無理なのです」
「無理かどうかはやってみねばわかるまい」

 そうは言うものの、もし殿様の命令があれば拒めないとも新右衛門は思う。
 もしや、梅芳院のお考えではあるまいか。梅芳院は殿の御生母なのだ。殿への影響がないとは言えない。
 梅芳院が分家に婿入りさせよと殿に言ったらどうなるのか。
 そう思うといきおい、新右衛門の言葉も弱くなる。
 それに気づかぬ於三ではなかった。

「いいのです。わしには過ぎた幸せだったのです。若様にはふさわしいお方が」
「愚かなことをいうな」

 新右衛門は於三をひしと抱き締めた。

「わしには於三しかおらん」

 その言葉は嘘ではないだろう。けれど、殿様の一言ですべてがはかなくなるのは於三にもわかる。
 新右衛門の顔が近づく。於三は口吸いを受け入れた。
 今はもう自分から新右衛門の口の中に舌を入れるようになっていた。早朝の井戸端でおばば様が起きてこぬうちに二人は口吸いだけはしていた。
 それが互いの心を高ぶらせることを知ったから。
 唇を離すとすぐに於三は言った。

「お心を見せてください」
「わかった」

 御分家のことなど束の間忘れ、於三は新右衛門の抱擁に溺れた。
 このままずっとこうしていたかった。けもののようにただただ求め合っていたかった。
 けれど終わりはくるものだった。歓喜でその場に崩れそうになる於三を支えながら新右衛門は言った。

「於三、絶対にわしは御分家の婿などにはならぬ。信じてくれ」

 信じたかった。けれど、願っていてもままならぬこともあるのだと於三は知っていた。
 二人は家までの道すがら、話しもせずに、夜道を歩いた。
 口を開けば悲しい行く末のことしか出てこぬように於三には思えたのだ。
 新右衛門もまた言い知れぬ不安を拭い去ることができなかった。





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