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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

13 惣左衛門の帰宅(R15)

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 新右衛門は幸せな時間の中にいた。
 ことを終えた後の始末は面倒だったが、於三と床を拭きながらこれもよいものと思った。
 雑巾を動かす時の於三の尻の動きがなんとも悩ましく見えて、何度背後から抱き締めようと思ったことか。





 夜が明けて山置からの使いがとりあえず祖父は卒中の発作から一命を取り留めたと知らせた。しばらく看病のため勢以は山置に残るが、明日惣左衛門が帰って来るということだった。
 午前中、小治郎が道場に行っている間、新右衛門はきよに気付かれぬように、於三を部屋に入れ、昨夜の続きをした。台所の板の間での行為で膝がすりむけてしまったので、床を延べ、声を立てぬように半刻ほど交わったが、それでも身体は満足できなかった。今宵もと約束した時、於三がため息をついたのが少し気になった。
 午後は川合平右衛門の屋敷で能の練習をした。山置の郡奉行が卒中で倒れたとの報はすでに入っており、一命を取り留めたと新右衛門から聞くと、安堵していた。
 新右衛門は身体の動きで昨夜から今朝までの行ないが露見するのではないかとひやひやしたが、城代家老はいつもと変わらぬ厳しい声で指導した。
 川合家には能舞台があり、城のものと広さが同じだった。無論、その木材は城のものより劣るとされた地元の杉材である。その舞台で本番同様に衣装を着けて演じた。衣装は重くこれに城に伝わる面を付けて動くというのはやはりある程度の慣れがないと難しかった。
 練習の後、茶と菓子を振る舞われた。運んで来たのは孝之進の妻だった。
 うりざね顔の丸みを帯びた愛嬌のある顔である。
 新右衛門はその顔を以前はやぼったいお多福のようだと感じていたが、今見ると、そうでもないと思えた。
 孝之進が病み上がりの身体でふらふらと迷ってしまったのも仕方ないように感じられた。

「いかがしましたか。嫁の顔に何かついておりましたか」

 孝之進の妻が席を去った後の城代家老の問いに、新右衛門はいいえと言った。

「孝之進様にはよい奥様がおいでだと思いまして」

 世辞のようなことを言ったのは自分でもらしくないと思った。

「有り難きお言葉なれど、まだ若くて気の利かぬところもありましてな。ところで新右衛門殿にはさような話はござらぬのか」
「若輩者でございますから」
「元服したとなれば、そろそろそういうことも考えたほうがよい。岡部殿のお考えもあるやもしれぬが」

 それが問題だった。於三にはなんとかなると言ったものの、父はそう簡単に許さない気がした。昨夜のことももし露見したらただでは済まないだろう。
 幸い、大久間の現場から戻るのは紅葉の宴の前日である。それまでに策を考えておかねばならない。
 残ったお菓子をいただいて帰宅すると、小治郎が帰っていた。

「菓子をもろうたぞ」

 そう言うとわあっと嬉しそうに駆けてきた。いつもは惣左衛門や母にも分けるのだが、今日はいない。
 新右衛門は小治郎にやる分以外を持って台所に行った。
 於三は鍋を見ていた。きよは菜っ葉を刻んでいた。

「菓子がある。後で食べろ」

 そう声をかけると、きよは振り返り、まあもったいないと言った。いつもなら嬉しそうな顔をする於三は鍋のほうを向いたままである。

「於三、お礼を」

 きよに言われて、於三は振り返った。

「かたじけのうございます」

 その顔がつやつやしているのを見ると、新右衛門の胸は熱くなってくる。昨夜、ここでしたことを思い出すと、今夜が待ち遠しかった。





 その夜、糠をかき混ぜてくると於三が祖母に言って台所に行くと、すでに新右衛門が待っていた。
 糠をかき混ぜている間、背後で自分を見つめる視線が熱く感じられ、於三は早くも身体の奥が火照るような心持ちになっていた。
 手を洗い拭いた後、新右衛門は於三の手を引き座敷に連れて行った。
 そこは新右衛門たちの両親の部屋だった。
 於三はすでに敷かれている蒲団を前に尻込みした。
 いくらなんでも、留守とはいえ主人夫妻の寝具の上であのようなことはできない。

「木の床の上では膝がすりむけてしまう」
「でも、ここは」
「小治郎の寝ている横ではできぬ」

 それはそうだが、これはまずいのではなかろうか。

「今日の夕焼けはきれいだったから、明日は天気がよい。布団は干せばよい」

 そう言われて、そのまま蒲団の上に押し倒された。
 ちょうど腰のあたりには幾枚か手ぬぐいが重ねられており、その上で交われば蒲団を汚すことはないと思われた。 
 口吸いをされれば、於三はもう抗えなかった。最初はわけがわからず怯えるだけだったのに、次第に慣れると、身体がそれを求めてしまう。
 その夜、於三は初めて天にも昇る心地を感じた。
 一度知ってしまえば、それを味わおうと身体は貪欲になっていく。於三もまたいつしか新右衛門の情熱を求めるようになっていた。
 もし別れる日が来てもこの記憶があれば、耐えられるかもしれない。
 真夜中に目を醒ました於三はそう思い新右衛門の寝顔を見つめたのだった。





 翌日は朝からお天道様が出て、蒲団を干すのには絶好の日よりだった。
 於三は家中の蒲団を干した。主人夫妻の蒲団だけを干すには勿体ない日の光だったのだ。
 手ぬぐいも洗って干し終わった頃、惣左衛門だけが山置から帰って来た。
 座敷を舞台に見立てて練習していた新右衛門はきよのお帰りなさいませの声を聞き動きを止めた。

「おじいさまは右手がかなわぬようになってしまった」

 部屋で白湯を飲みながら聞いた惣左衛門の話によれば、一昨日の早朝、祖父は厠で倒れたのだと言う。いびきをかいており、卒中だとわかったのは、祖父の母親も同じ症状で倒れたことを祖母が覚えていたからだった。
 昼過ぎに知らせを聞いてとるものもとりあえず、山置に行き着いた時は暮れ六つ(午後6時頃)になっていたということだった。
 幸いちょうどその頃に祖父は意識をとりもどし集まった親族皆胸をなでおろしたと言う。
 だが、右側の身体が動かぬので、使用人の都合がつくまで数日交代で看病する者が必要ということで母が残ったのだった。

「それにしても、わしの御前試合のことをあちらも皆御存知だったので、叔父上達が母のことを丁重にもてなしてくれての。試合に勝ってよかったと思った」

 息子が近習見習いになったとあれば、親族としては折り合いのよくない前妻の娘であっても、接し方が変わるものらしかった。

「そうか。人の態度はちょっとしたことで変わるものなんじゃな」

 数年前に母と惣右衛門とで山置の母の弟の婚礼に呼ばれた時は、新右衛門にも明らかにわかるほど、あちらの親族の態度はそっけなかった。

「こっちは変わりなかったか」

 惣左衛門の問いに、新右衛門は周囲にきよも於三もいないことを確認して答えた。

「変わった」

 惣左衛門は何がとは言わなかった。恐らく於三のことであろうと察しがついた。

「口吸いをしたのか」
「うん」
「よかったな。それでは、おまえのことを於三も」
「ああ。父上にお許しをもらわねばいけないと思う。わしは於三と所帯を持ちたい」
「おい、それはまだ早いぞ。せめて出仕がかなうまでは。わしもこの前見習いが取れるまでは嫁取りはできぬと父上に言われたのだ」

 父が惣左衛門にそう言ったのはもっともなことであった。

「だが、今度の宴でわしは殿の御前で舞台に立つのだ。もしかすると、おまえのように、出仕の声がかかるかもしれぬ」

 新右衛門は期待をしていた。他の演者は皆仕事をしている者達だった。一番若い新右衛門がまだ無役と知れば、出仕の話が出るかもしれなかった。

「どうかな。あまり期待せぬほうがよいぞ。いろいろと役向きについて教えを乞うておるが、どの方々も今の家中のやり繰りが苦しいということをおっしゃっている。そう簡単に事が運ぶかどうか」

 惣左衛門は挨拶回りの時にあれこれ家中の現状も聞いていたのだった。

「出る金を削るなら人を減らすのが一番よい。竹之助様が江戸に出るのが遅くなったのも、江戸では金が何かとかかるゆえのことらしい」

 そんな事情があるとは新右衛門は知らなかった。

「御身体が弱いからだけではなかったのか」
「考えてみれば、見習いも給金はあって無きがようなもの。ただでさえ少ない禄を四分の一減らされるのだからな」

 腕組みをする惣左衛門であった。その仕草といい頭が右に傾く具合といい父の惣右衛門にそっくりだった。
 
「あ、そうであった」

 惣左衛門は立ち上がった。

「母上から頼まれたのだ。糠漬けの糠床の世話を。慌てて家を出て指図をするのを忘れたからと」

 新右衛門は於三は命ぜられもせぬのにやっていたのかと驚いた。

「それなら大丈夫じゃ。於三がやっておった」
「ほお、さすが、於三じゃな」
「当たり前じゃ」

 新右衛門は嬉しかった。そういう心映えのある女子が自分のことを好いてくれているということが。
 そこへ於三がお昼が用意できましたと来たので、話は終わった。
 惣左衛門には於三の顔が少しつやつやしているように見えた。
 女子というのは口吸い一つでこうも変わるのかと思い、新右衛門を見ると、黙って於三の後ろ姿を見つめていた。その目に浮かぶのが単なる恋情だけではなく欲望も混じったものであることに惣左衛門は気付けなかった。





 惣左衛門が帰って来たので、於三との交合は家の内では簡単にできなくなった。
 出仕の準備があるからと母もその三日後には帰って来たので、いよいよ手が出せなかった。
 だが、いったんその味を知ってしまうと、知らぬ前に戻れぬのは恋の味である。
 ましてや、新右衛門はなんでも知りたい男である。指南書に載っている様々なことを試したくて仕方なかった。
 それなのにできない。
 空間的な問題もさることながら、時間的にもできかねる事態になっていた。紅葉の宴の準備のためである。
 師匠の家の能舞台で演目すべての通し稽古をすれば朝から夕方までかかるし、川合城代の稽古も日が近くなるにつれ次第に長くなった。
 さらに九月に入ると、惣左衛門の出仕が始まった。
 その前日に大久間から戻って来た父惣右衛門は息子の晴れ姿を見送って再び大久間の現場に戻った。
 家には祝儀の酒があちこちから贈られ、その返礼の手伝いに新右衛門も忙殺された。
 落ち着いたのは重陽の節句を過ぎた頃であった。




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