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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)
09 惣左衛門の助言
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八朔の御前試合で、岡部惣左衛門は堀内権蔵に勝った。
その場で殿様から、惣左衛門には褒美として銀一枚(後書き参照)が与えられ、さらには近習見習いとして出仕するようにとの仰せがあった。
惣左衛門は有り難き幸せと受け取ったのであった。
家に戻る前に、その知らせは道場の仲間からもたらされ、岡部家には父惣右衛門の上司の土橋奉行からの祝いの酒も届いたのだった。
新右衛門は惣左衛門の勝利を喜んだものの、一足先に仕官が決まったことを知り自分一人置いていかれたような心持ちになった。
この上、平太に於三を奪われたらと思うと、いてもたってもいられなかった。
その夜はささやかな祝いの宴となった。
あまり大袈裟に祝うのも畏れ多いと惣右衛門は言い、祝儀の返しは後日と言って訪れた人々を帰したのだった。
家族だけの祝いだが、小治郎は兄上が殿様の近習になるということで大はしゃぎだった。
父も普請作事掛の与力の子が見習いとはいえ近習にと殿から仰せがあったことにひどく感激していた。
母などは出仕の装束はどうしましょうかと着るものや履くものの心配をしている。
一番冷静なのは渦中の惣左衛門で、まあ落ち着きましょうと夕餉の前に言った時には、新右衛門は笑ってしまった。
夕餉はいつもと変わらぬ麦入りの飯と冬瓜の味噌汁と干した鮎の焼き物と菜っ葉の漬物だけだが、それでも満ち足りていた。
食後は酒を一献ずつ飲み、頂き物の蒸し菓子を一切れずつ食べたのだけがいつもと違っていた。
明日は挨拶回りをせねばならぬということで、その日はそれだけで終わった。
部屋に戻ればいつもと同じで、二人の兄にまとわりつく弟小治郎だった。
「兄上、おとの様はどのようなお方ですか。せいは高いのですか」
「背は高い。上品なお方だ」
「兄上よりも高いのですか」
「そうだ」
そんな兄弟二人の会話を聞きながら、新右衛門が考えているのは別のことだった。
於三をどうすれば自分のものにできるか。平太と縁組させぬためにはどうすればよいか。一人縁側に出て月のない空を見上げ考えていた。
「おひめ様はいましたか」
「御分家の姫様方や御家老様の奥方様達がおいでだった」
「おきれいでしたか」
「きれいなどと言うのも畏れ多いことじゃ」
そう言った後、惣左衛門は新右衛門の背中に話し掛けた。
「御分家の壱姫様からもねぎらいのお言葉を賜った」
また御分家だった。しかも壱姫というのは、例の一番上の姫だった。
新右衛門は振り返った。
「壱姫の乳母がわしのことを作田の奥方に尋ねたらしい」
昼間のことを新右衛門は話した。惣左衛門は目を丸くした。
「まことか」
「母上は関心を見せるなと言った。おかしな噂が姫君に立つといけないと」
「噂を立てようとしているのは、姫君の側だと思う」
惣左衛門は言った。
小治郎は兄二人の話の意味がわからずつまらなくなったのか、うつらうつら舟を漕ぎ始めた。
「姫君の側とは。姫君が考えるということか」
新右衛門は声を低めて言った。
「姫君というよりは仕える女達じゃ。十の姫君がおまえのことを知っていると思うか。たぶん傍に仕える女らであろう。女子というのはしたたかじゃ。知っとるか。わしらが小治郎の年頃に七夕の笹流しで石合戦になったではないか」
「ああ、あったな。おまえは腕を怪我した」
「あの時な、女子は事前にかちあわぬように、流す時をずらすように話し合っていたそうじゃ。女子はまこと言葉を使って決め事をするのがうまいものだ。男だと言い合いになったり、石投げになるのにな」
「そういえば、母上といい、きよといい、父上よりしゃべっているな」
「そうだ。女子というのは恐ろしいものだ。だから、わしら男は言葉に気を付けねばならぬと、この前も川合様がおっしゃっていた」
惣左衛門のいう川合様は勘定方に勤める息子の孝之進のほうである。一つ年上の妻に頭が上がらぬという噂であった。
普通結婚すると道場から遠ざかるものだが、仕事を終えた後、家に帰りたくないこともあるらしく、男ばかりの小ヶ田道場にはよく顔を出すらしい。
「それなら仕える女どもは同じ女子だから、気を付けねばならぬということか」
「そういうことじゃ。噂を立てて、おまえの関心を引きたいのではないか。とにかく近づかぬこと、関心を示さぬことだな」
小治郎の寝息に気付いた二人は布団を敷き寝かせた。
惣左衛門はところでと話を変えた。
「卯之助、何かあったのか」
惣左衛門の目はごまかせないと思う新右衛門だった。
二人は縁側に出て、障子を立てた。いつになくゆっくりと新右衛門が口を開いた。
「その、平太だが、あやつと於三の縁談がある」
惣左衛門はほおと言ったきりだった。
「母上は乗り気だが」
「おまえは気に入らぬというわけか」
惣左衛門は御見通しという顔だった。
「平太は旅が多い。於三が寂しい思いをする」
「それだけか」
それだけではない。だが、惣左衛門に話すことなどできない。
沈黙を破ったのは惣左衛門だった。
「於三を平太に取られたくないのだな」
図星だった。だが、新右衛門はそうだとは言えなかった。惣左衛門には言いたくなかった。
「おい、卯之助、黙っているということは、そういうことなのだな」
「それは」
認めたくない。けれど、他の言い訳が思いつかない。認めざるを得なかった。
「そうじゃ。平太はいい奴だが、於三を渡すわけにはいかない」
口に出してしまうと、もういけなかった。
「平太が於三を嫁にすると思うだけで、わしは腹が立って仕方ないのだ。別に於三はわしのものでもないのに、腹立たしうてたまらぬ。どうすれば、於三をあやつにやらずに済むのか。今日はそればかり考えておった」
惣左衛門はうんうんとうなずいた。
「わしのことを愚かだと思わぬのか。こんなことを考えるわしは阿呆ではないか。軟弱者ではないか」
新右衛門は横に胡坐をかく惣左衛門の横顔を見た。
「阿呆ではないと思う。それなら、女子にうつつを抜かす者はすべて阿呆ということになる。光源氏も業平も阿呆ということになる。それに軟弱ではないことはわしが一番知っておる」
「源氏も業平も阿呆じゃぞ。女のために一度は都を離れておるのだから」
「だが、二人とも素晴らしい歌詠みじゃろう。光源氏は人臣として位を極めておるし」
「それはそうだが、わしは光源氏ではないぞ」
「要するに、人は誰でも女にうつつを抜かせば阿呆のようになるということだ。だから、自分を愚かだと思うことはないと思うのだ」
惣左衛門の慰めの気持ちだけは受け取っておくことにした。
「わしは愚かではないのだな」
「わしとて同じ男。他人事ではないからな。で、どうするのだ」
「どうするとは何をだ」
「於三じゃ。平太に渡したくないのなら、奪うしかあるまい」
惣左衛門は大胆なことを言うと、新右衛門は思った。自分でもそう思っているが、口には出せない。
「奪うにしても、どうすればいいのだ。指南書にも口吸いやら交合の仕方は書いてあるが、そこに至るまでにどうすればよいかは書いておらぬ。口吸いは女の舌を男の口に入れさせねばならぬが、入れてくれと言って入れてくれるものでもあるまい」
「卯之助、少し先走り過ぎじゃ」
惣左衛門の言葉に新右衛門は驚いた。
「先走り過ぎなのか」
「先に、自分の気持ちを言葉で伝えねばならんだろう。女子は言葉をうまく操るのだ。何も言わずに口吸いなどしたら、大変なことになるぞ。なんで口吸いをしたいのか、きちんと言葉にせねばならぬのではないか」
新右衛門は感動していた。そうだった。さっきも女子は言葉を使うのが巧みだという話をしたばかりだ。ならば言葉を尽くさねばならぬのは当然のことだった。惣左衛門が教えてくれなければ、大変な過ちを犯すところであった。
「そうか、言わねばならぬのだな」
「そうだ。おまえは歌などを作るから知っておろう。いにしえの人は恋の歌のやりとりをしたとか前にも言っておったではないか」
「そうか、歌か」
「別に歌でもなくともいいと思う。於三は歌を知らぬかもしれぬ」
そうだった。母に手習いを教わったとはいえ、和歌を理解するにはそれなりに勉強が必要だった。
「ならば、恋文か」
「母上やきよに見られたりすると、まずいな」
「では、じかに言ったほうがいいな」
「そうだな。その上で、於三が嫌じゃと言うたら、そこで終わりじゃ」
「おい、それは」
それはあんまりだと新右衛門は言いたかった。こんなに一生懸命考えているというのに。
だが、惣左衛門は冷静だった。
「嫌がる女子に口吸いなどできぬだろう。指南書に書いてあることは、好き合った者どうしのことじゃ。もし於三が平太のほうがよいと思っておったらどうするのだ。おまえが無理矢理、口吸いなどしたら、於三は舌を噛んで自害するかもしれぬぞ。操を守れなかったと」
そんなことは考えてもいなかった。
だが、思い当たる節はある。台所で抱きしめた時、離さなければ舌を噛むと言ったのだ。もしかすると、於三は自分のことを嫌いなのかもしれない。いや、嫌いに違いない。嫌いだから、あれ以来自分を避けるのかもしれなかった。
「嫌じゃと言われたら、潔く諦める覚悟も肝要だと思う。でないと、於三が不幸せになる」
「諦めるのか」
新右衛門はうつむいた。
「無論、そうでないこともある。その時は、口吸いをして、その先はまた二人で考えればよいのではないか」
惣左衛門の希望的予測にすがりたかったが、台所でのことを思い出すと簡単にすがれなかった。
「卯之助、駄目でもいいではないか。このまま、ずっとその気持ちを何年もかかえていられるか。もし於三がおまえを嫌いであったら、それは仕方ない。それよりか、そこで諦めて、新たな女子を探せばよい。女子は於三だけではないのだ」
惣左衛門は言った。
もし、彼が新右衛門の出生を知っていたら、恐らく別の言葉をかけ、別の方策を考えていただろう。だが、彼は何も知らなかった。
新右衛門もまた、己の未来は香田角にしかないと思っていた。小田切家で育った竹之助様と違い品劣る自分はここで生きていくのだと。
もし殿や城代家老たちの思惑を知れば、また別の行動をとっていたかもしれなかった。
けれど、二人とも周囲の環境が大きく変わっていることをまったく知らなかった。
「諦めたくはないが、嫌われているのに追いかけるのは見苦しいであろうな」
新右衛門は覚悟を決めた。まずは於三の気持ちを知りたい。それから行動しても遅くはなかった。
もし於三が自分のことを嫌っていなければ、口吸いをしよう。もし平太のことを好きなら、諦めて祝福しよう。兄のような気持ちで。
「さて、いつがよいかな」
惣左衛門は考えた。二人が気持ちを伝え合える時と場所を。
※銀一枚…贈答用の物で四十三匁。1712年頃は金一両が銀六十匁というのが幕府の定めた相場。実際の市場では、銀の価値には変動がある。江戸時代の平均的価値に換算すると47300円くらい。
その場で殿様から、惣左衛門には褒美として銀一枚(後書き参照)が与えられ、さらには近習見習いとして出仕するようにとの仰せがあった。
惣左衛門は有り難き幸せと受け取ったのであった。
家に戻る前に、その知らせは道場の仲間からもたらされ、岡部家には父惣右衛門の上司の土橋奉行からの祝いの酒も届いたのだった。
新右衛門は惣左衛門の勝利を喜んだものの、一足先に仕官が決まったことを知り自分一人置いていかれたような心持ちになった。
この上、平太に於三を奪われたらと思うと、いてもたってもいられなかった。
その夜はささやかな祝いの宴となった。
あまり大袈裟に祝うのも畏れ多いと惣右衛門は言い、祝儀の返しは後日と言って訪れた人々を帰したのだった。
家族だけの祝いだが、小治郎は兄上が殿様の近習になるということで大はしゃぎだった。
父も普請作事掛の与力の子が見習いとはいえ近習にと殿から仰せがあったことにひどく感激していた。
母などは出仕の装束はどうしましょうかと着るものや履くものの心配をしている。
一番冷静なのは渦中の惣左衛門で、まあ落ち着きましょうと夕餉の前に言った時には、新右衛門は笑ってしまった。
夕餉はいつもと変わらぬ麦入りの飯と冬瓜の味噌汁と干した鮎の焼き物と菜っ葉の漬物だけだが、それでも満ち足りていた。
食後は酒を一献ずつ飲み、頂き物の蒸し菓子を一切れずつ食べたのだけがいつもと違っていた。
明日は挨拶回りをせねばならぬということで、その日はそれだけで終わった。
部屋に戻ればいつもと同じで、二人の兄にまとわりつく弟小治郎だった。
「兄上、おとの様はどのようなお方ですか。せいは高いのですか」
「背は高い。上品なお方だ」
「兄上よりも高いのですか」
「そうだ」
そんな兄弟二人の会話を聞きながら、新右衛門が考えているのは別のことだった。
於三をどうすれば自分のものにできるか。平太と縁組させぬためにはどうすればよいか。一人縁側に出て月のない空を見上げ考えていた。
「おひめ様はいましたか」
「御分家の姫様方や御家老様の奥方様達がおいでだった」
「おきれいでしたか」
「きれいなどと言うのも畏れ多いことじゃ」
そう言った後、惣左衛門は新右衛門の背中に話し掛けた。
「御分家の壱姫様からもねぎらいのお言葉を賜った」
また御分家だった。しかも壱姫というのは、例の一番上の姫だった。
新右衛門は振り返った。
「壱姫の乳母がわしのことを作田の奥方に尋ねたらしい」
昼間のことを新右衛門は話した。惣左衛門は目を丸くした。
「まことか」
「母上は関心を見せるなと言った。おかしな噂が姫君に立つといけないと」
「噂を立てようとしているのは、姫君の側だと思う」
惣左衛門は言った。
小治郎は兄二人の話の意味がわからずつまらなくなったのか、うつらうつら舟を漕ぎ始めた。
「姫君の側とは。姫君が考えるということか」
新右衛門は声を低めて言った。
「姫君というよりは仕える女達じゃ。十の姫君がおまえのことを知っていると思うか。たぶん傍に仕える女らであろう。女子というのはしたたかじゃ。知っとるか。わしらが小治郎の年頃に七夕の笹流しで石合戦になったではないか」
「ああ、あったな。おまえは腕を怪我した」
「あの時な、女子は事前にかちあわぬように、流す時をずらすように話し合っていたそうじゃ。女子はまこと言葉を使って決め事をするのがうまいものだ。男だと言い合いになったり、石投げになるのにな」
「そういえば、母上といい、きよといい、父上よりしゃべっているな」
「そうだ。女子というのは恐ろしいものだ。だから、わしら男は言葉に気を付けねばならぬと、この前も川合様がおっしゃっていた」
惣左衛門のいう川合様は勘定方に勤める息子の孝之進のほうである。一つ年上の妻に頭が上がらぬという噂であった。
普通結婚すると道場から遠ざかるものだが、仕事を終えた後、家に帰りたくないこともあるらしく、男ばかりの小ヶ田道場にはよく顔を出すらしい。
「それなら仕える女どもは同じ女子だから、気を付けねばならぬということか」
「そういうことじゃ。噂を立てて、おまえの関心を引きたいのではないか。とにかく近づかぬこと、関心を示さぬことだな」
小治郎の寝息に気付いた二人は布団を敷き寝かせた。
惣左衛門はところでと話を変えた。
「卯之助、何かあったのか」
惣左衛門の目はごまかせないと思う新右衛門だった。
二人は縁側に出て、障子を立てた。いつになくゆっくりと新右衛門が口を開いた。
「その、平太だが、あやつと於三の縁談がある」
惣左衛門はほおと言ったきりだった。
「母上は乗り気だが」
「おまえは気に入らぬというわけか」
惣左衛門は御見通しという顔だった。
「平太は旅が多い。於三が寂しい思いをする」
「それだけか」
それだけではない。だが、惣左衛門に話すことなどできない。
沈黙を破ったのは惣左衛門だった。
「於三を平太に取られたくないのだな」
図星だった。だが、新右衛門はそうだとは言えなかった。惣左衛門には言いたくなかった。
「おい、卯之助、黙っているということは、そういうことなのだな」
「それは」
認めたくない。けれど、他の言い訳が思いつかない。認めざるを得なかった。
「そうじゃ。平太はいい奴だが、於三を渡すわけにはいかない」
口に出してしまうと、もういけなかった。
「平太が於三を嫁にすると思うだけで、わしは腹が立って仕方ないのだ。別に於三はわしのものでもないのに、腹立たしうてたまらぬ。どうすれば、於三をあやつにやらずに済むのか。今日はそればかり考えておった」
惣左衛門はうんうんとうなずいた。
「わしのことを愚かだと思わぬのか。こんなことを考えるわしは阿呆ではないか。軟弱者ではないか」
新右衛門は横に胡坐をかく惣左衛門の横顔を見た。
「阿呆ではないと思う。それなら、女子にうつつを抜かす者はすべて阿呆ということになる。光源氏も業平も阿呆ということになる。それに軟弱ではないことはわしが一番知っておる」
「源氏も業平も阿呆じゃぞ。女のために一度は都を離れておるのだから」
「だが、二人とも素晴らしい歌詠みじゃろう。光源氏は人臣として位を極めておるし」
「それはそうだが、わしは光源氏ではないぞ」
「要するに、人は誰でも女にうつつを抜かせば阿呆のようになるということだ。だから、自分を愚かだと思うことはないと思うのだ」
惣左衛門の慰めの気持ちだけは受け取っておくことにした。
「わしは愚かではないのだな」
「わしとて同じ男。他人事ではないからな。で、どうするのだ」
「どうするとは何をだ」
「於三じゃ。平太に渡したくないのなら、奪うしかあるまい」
惣左衛門は大胆なことを言うと、新右衛門は思った。自分でもそう思っているが、口には出せない。
「奪うにしても、どうすればいいのだ。指南書にも口吸いやら交合の仕方は書いてあるが、そこに至るまでにどうすればよいかは書いておらぬ。口吸いは女の舌を男の口に入れさせねばならぬが、入れてくれと言って入れてくれるものでもあるまい」
「卯之助、少し先走り過ぎじゃ」
惣左衛門の言葉に新右衛門は驚いた。
「先走り過ぎなのか」
「先に、自分の気持ちを言葉で伝えねばならんだろう。女子は言葉をうまく操るのだ。何も言わずに口吸いなどしたら、大変なことになるぞ。なんで口吸いをしたいのか、きちんと言葉にせねばならぬのではないか」
新右衛門は感動していた。そうだった。さっきも女子は言葉を使うのが巧みだという話をしたばかりだ。ならば言葉を尽くさねばならぬのは当然のことだった。惣左衛門が教えてくれなければ、大変な過ちを犯すところであった。
「そうか、言わねばならぬのだな」
「そうだ。おまえは歌などを作るから知っておろう。いにしえの人は恋の歌のやりとりをしたとか前にも言っておったではないか」
「そうか、歌か」
「別に歌でもなくともいいと思う。於三は歌を知らぬかもしれぬ」
そうだった。母に手習いを教わったとはいえ、和歌を理解するにはそれなりに勉強が必要だった。
「ならば、恋文か」
「母上やきよに見られたりすると、まずいな」
「では、じかに言ったほうがいいな」
「そうだな。その上で、於三が嫌じゃと言うたら、そこで終わりじゃ」
「おい、それは」
それはあんまりだと新右衛門は言いたかった。こんなに一生懸命考えているというのに。
だが、惣左衛門は冷静だった。
「嫌がる女子に口吸いなどできぬだろう。指南書に書いてあることは、好き合った者どうしのことじゃ。もし於三が平太のほうがよいと思っておったらどうするのだ。おまえが無理矢理、口吸いなどしたら、於三は舌を噛んで自害するかもしれぬぞ。操を守れなかったと」
そんなことは考えてもいなかった。
だが、思い当たる節はある。台所で抱きしめた時、離さなければ舌を噛むと言ったのだ。もしかすると、於三は自分のことを嫌いなのかもしれない。いや、嫌いに違いない。嫌いだから、あれ以来自分を避けるのかもしれなかった。
「嫌じゃと言われたら、潔く諦める覚悟も肝要だと思う。でないと、於三が不幸せになる」
「諦めるのか」
新右衛門はうつむいた。
「無論、そうでないこともある。その時は、口吸いをして、その先はまた二人で考えればよいのではないか」
惣左衛門の希望的予測にすがりたかったが、台所でのことを思い出すと簡単にすがれなかった。
「卯之助、駄目でもいいではないか。このまま、ずっとその気持ちを何年もかかえていられるか。もし於三がおまえを嫌いであったら、それは仕方ない。それよりか、そこで諦めて、新たな女子を探せばよい。女子は於三だけではないのだ」
惣左衛門は言った。
もし、彼が新右衛門の出生を知っていたら、恐らく別の言葉をかけ、別の方策を考えていただろう。だが、彼は何も知らなかった。
新右衛門もまた、己の未来は香田角にしかないと思っていた。小田切家で育った竹之助様と違い品劣る自分はここで生きていくのだと。
もし殿や城代家老たちの思惑を知れば、また別の行動をとっていたかもしれなかった。
けれど、二人とも周囲の環境が大きく変わっていることをまったく知らなかった。
「諦めたくはないが、嫌われているのに追いかけるのは見苦しいであろうな」
新右衛門は覚悟を決めた。まずは於三の気持ちを知りたい。それから行動しても遅くはなかった。
もし於三が自分のことを嫌っていなければ、口吸いをしよう。もし平太のことを好きなら、諦めて祝福しよう。兄のような気持ちで。
「さて、いつがよいかな」
惣左衛門は考えた。二人が気持ちを伝え合える時と場所を。
※銀一枚…贈答用の物で四十三匁。1712年頃は金一両が銀六十匁というのが幕府の定めた相場。実際の市場では、銀の価値には変動がある。江戸時代の平均的価値に換算すると47300円くらい。
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