生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

文字の大きさ
上 下
22 / 128
第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

04 指南書(R15)

しおりを挟む
 部屋に戻ると、瓦灯がとうのそばで惣左衛門が例の本を開いていた。
 現代人からすれば、魚油を燃やした匂いが鼻を突くが、当時は菜種油よりも安価ということで香田角の城下では照明の灯油としてよく使われていた。それでもふんだんに使えるものではない。
 ちなみに蝋燭はさらに高価なので、お城では節約して使っているし、家中の重役の家でも夜来客があった時にしか使われない。
 魚油とはいえ油を使うのだから勉強しなければならないのに、色道指南書を読んでいるというのは申し訳ないのだが、好奇心の前にはその申し訳なさも吹き飛んでしまうのだった。

「おお、この図は」

 微細に描かれた女性の外性器の挿絵は二人の瞳孔を大きくした。
 薄暗い瓦灯の光でも、二人にはそれが鮮明に見えた。

「これが上開か」
「どこがどう違うのだ、下開と」
「位置が違うんだ。ほら、こっちの絵。上開は上付きで陰毛は濃すぎず薄すぎず猟皮らっこの皮のようなものなのだとある。らっことは何だろうな」
「皮があるということはけだものではないか」

 二人は夢中になって挿絵を見ていた。
 ふと、新右衛門は思った。これが女にあるということは、母やきよ、そして於三にもあるということなのかと。
 そう思うと、身体がぽっと熱くなってきたように感じられた。
 百足に咬まれた時に、於三が小水をかけた時の記憶は今もある。あの時は無毛ですべすべした白い肌に刻まれた溝一本だけしか見えなかった。
 あれが今はもうこの挿絵のようになっているかもしれないのだ。
 挿絵には陰毛も描かれていた。新右衛門も自分の身体のあちこちに子どもの頃にはなかった毛が生えてきていた。が、於三にも同じように生えているかもしれないとは思ったこともなかった。
 だが、挿絵のものには縮れた毛が描かれていた。こんなふうに於三の身体がなっているのかもしれないと思うと、於三の顔をまともに見られなくなりそうだった。

「上開とは蒸したての饅頭のごとしか」

 惣左衛門が説明文を読んだ。新右衛門は幼かった於三のものを思い出した。あの時、饅頭のようだと思ったのはもしかすると。
 これが陰陽石なら見てみたいと思えば見ることもできる。だが、於三のものを今は見るわけにはいかない。そんなことをしたらきっと嫌われる。それでなくとも、最近なんだか避けられているような気がする。さっきも台所で手伝いを拒まれた。
 そういえば、平太が来て白湯を出した時、於三は平太ににこにこと笑いかけていなかったか。次はどこに行くのかと聞いてもいた。於三は平太のことが気になるのだろうか。自分よりもずっと。
 そう思った時、なんだか無性に腹が立ってきた。旅先で見つけた面白いものやこういう本をくれるから平太には感謝しているが、なんだって於三が平太に好意を持ったりするのかと。

「卯之助、どうした」

 黙っている新右衛門に惣左衛門は不審を覚えたようだった。

「別に」
「そうか。それにしても、平太はよくこんなものを見つけてくるな」

 まったくだった。腹が立つほど平太は面白いものを持ってくる。
 恐らく平太は持ってきた面白い本を読んでいるだろう。その知識があれば、於三など簡単に自分のものにできるのではないか。想像するだけで新右衛門の胸はむかついてきた。

「平太は、こういうことを知っておるのだろうな」
「そうだろうな」
「では、女に好かれるだろうな」
「それはどうかな。わしらも知ってはいるが、実行はできぬし。金がないから柳町に行くわけにはゆかぬ。それに元服しても職に就いていないと門番に入れてもらえぬそうだ。もっと大きくなってから来いと卯之吉は言われたそうだ」

 惣左衛門は笑った。卯之吉の話は新右衛門も聞いていた。柳町の廓街の門番が卯之吉の家の下男の遠縁の者で顔を見知っていたので入れてくれなかったと本人がぼやいていた。

「平太は幼く見えるから、元服したと思われぬであろうな」

 惣左衛門の言う通り、平太は同い年だが、年下に見えた。髷を結わねば、子どもにしか見えない。それなのに、こんな色道指南書を手に入れてくるのだ。

「平太は見てくれと中身が違う」

 新右衛門は言った。自分で言ったくせに、それがひどく心を迷わせる。子どもにしか見えないが、中身は男。それなら、於三を油断させてたやすく自分のものにできるかもしれないと。

「そうだよな。だが、卯之助もそうだぞ」
「わしがか」

 新右衛門は惣左衛門の言葉の意味がわからなかった。

「そうじゃ。近頃わしは道場で、女のきょうだいのいる者達におまえのことを訊かれるのだ。誰か好いた女子がいるのかとか」

 わけがわからなかった。

「おらぬぞ、そういう女子は」

 そう答えた後で、於三の顔が浮かんだ。自分でも不思議だと思う新右衛門だった。この気持ちが何なのか、新右衛門にはわからないのだ。

「そうか。おまえのことを気にする女子は城下に何人もおるらしいぞ」
「なんだ、それは」
「要するにおまえに懸想しておるのじゃ」
「懸想」

 信じられなかった。
 数年前、沢井信之助が江戸に出るということを聞いた女子たちが盛んに付け文をしたという話を聞いたことがあった。女子に懸想されるのは信之助のような姿形のよい、頭のよい男なのだと新右衛門は思っている。

「わしに懸想、何かの間違いではないか」
「わしもそう思った。だが、おまえを馬場や弓場で見かけた女子の間では、ずいぶんと評判がよいようじゃぞ。それに歌塾や謡や茶には女子も来るであろ」

 確かにそれらの塾には城下の武家の女性も来る。だが、そこで直接女子と話す機会などなかった。第一、自分と同じ年頃の女子は少ない。たいていは武家の奥方たちである。

「まことか」
「ああ。おまえを婿にという話もそのうち来るやもな」

 惣左衛門の言葉は驚き以外の何者でもなかった。
 小糠一合あれば婿に行くなという言葉があるように、入り婿はつらいものだという話もある。
 けれど、新右衛門はこの家の子どもではない。確かに婿にならねばならないかもしれない。
 ただ、自分でも忘れそうになるが、新右衛門は殿様や竹之助様の弟でもあった。
 となると、将来はどうなるのだろうか。婿入りするにしても簡単な話ではないような気がした。





 岡部惣右衛門が帰宅したのは四つ(午後九時頃)を過ぎた頃だった。

「土橋様のお話は何だったのですか」

 夫の着替えを手伝いながら勢以は尋ねた。土橋様は普請作事掛の長である奉行だった。恐らく次の仕事の話題であろうと勢以は思っていた。

「先だっての麓村の件だ」

 惣右衛門はそれ以上のことは話さなかった。
 勢以はそういうことならそれ以上は聞くまいと思った。
 惣右衛門は言えなかった。土橋奉行が十歳になる娘の婿に新右衛門を望んだことなど。無論、惣右衛門は辞退した。「未熟者の上、粗忽者でとてもお奉行様の婿が務まるとは思えません」と言って。
 新右衛門の婿の口を断ったのは今年に入ってこれで三人目だった。




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

誰一人帰らない『奈落』に落とされたおっさん、うっかり暗号を解読したら、未知の遺物の使い手になりました!

ミポリオン
ファンタジー
旧題:巻き込まれ召喚されたおっさん、無能で誰一人帰らない場所に追放されるも、超古代文明の暗号を解いて力を手にいれ、楽しく生きていく  高校生達が勇者として召喚される中、1人のただのサラリーマンのおっさんである福菅健吾が巻き込まれて異世界に召喚された。  高校生達は強力なステータスとスキルを獲得したが、おっさんは一般人未満のステータスしかない上に、異世界人の誰もが持っている言語理解しかなかったため、転移装置で誰一人帰ってこない『奈落』に追放されてしまう。  しかし、そこに刻まれた見たこともない文字を、健吾には全て理解する事ができ、強大な超古代文明のアイテムを手に入れる。  召喚者達は気づかなかった。健吾以外の高校生達の通常スキル欄に言語スキルがあり、健吾だけは固有スキルの欄に言語スキルがあった事を。そしてそのスキルが恐るべき力を秘めていることを。 ※カクヨムでも連載しています

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

江戸の櫛

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

処理中です...