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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

03 平太の土産(R15)

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 於三は忙しい。
 お昼ご飯を食べた後は片付けをして、奥様の仕立物の手伝いをしたり、お使いに行ったり、洗濯物を片付けたりした後は祖母と裏の畑の草取りをする。それが終れば、かまどに火を入れ奥様と夕餉の支度をする。
 守倉平太が訪ねてきたのは夕餉の支度の前だった。三人に白湯を出しに行くと、笑い声が聞こえた。

「おぬしのはまことの腰折れじゃのう」

 平太の声だった。於三は障子を開けた。

「失礼します」

 白湯の入った湯呑を置くと、平太が言った。

「なんだか、於三は色が白うなったな。わしはなかなか白くならぬ」

 旅に出ることの多い平太はどうしても日に焼ける。黒い顔に白い歯だけが光っている。

「守倉様は次はどこにおいでになるのですか」

 旅に行く前になると平太はこうして岡部家を訪ねて来るのだ。

「次か。次はまだわからぬ。しばらくは城下におる。今年は八朔の御前試合に惣左衛門が出るからな」
「まこと、つまらんのう。井村先生は型ばかりじゃ。わしも出たかった」

 新右衛門は愚痴をこぼした。

「井村からは誰が出るのだ」
「金之助様じゃ」

 於三は話の邪魔になるとお盆を持って部屋を出た。
 暑いので障子を開けたままにしたが、すぐに立て切る音がした。
 どうやら聞かれては困る話をするらしいと於三にもわかった。
 奥様の夕餉の支度を手伝うべく、於三は台所に向かった。





 この日、平太は二人に土産を持って来たのだった。

「これがこの前言っておった例のもの」

 袂から出したのは小型の版本だった。
 新右衛門も惣左衛門も身を乗り出した。

「わしはもう読んだから、やる」
「いいのか」

 新右衛門は目を輝かせた。

「ああ。また旅先で面白いものがあったら手に入れて持ってくるから」
「すまぬ」
「いいさ。上方はこういう物がたくさん出回っておる」

 平太が渡したものは色道指南書、つまり男女の色の道について解説された書物である。

「これはすごいぞ、女子のべべの形について詳しく述べてあってな。なんと女子には三つの玉があるそうじゃ」
「玉があるのか、女子にも」

 新右衛門だけでなく惣左衛門も興味津々という顔である。

「男の物とは違って身体の中、べべの奥にあるのじゃ」
「不思議じゃのう、女子とは」

 現代ではいえば中学生の年齢である。こういうことに男子としては興味が出てくるのは当然であろう。
 それに、彼らにとっては、切実な問題だった。そろそろ早い者は縁談話が持ち込まれてくるのだった。
 現にあの川合孝之進は元服後、すぐに結納を行ない、一か月後に祝言を挙げた。
 数えで十四、満年齢で十三という年である。相手の白石村の庄屋の娘は数えで十五だから満年齢は十四。現代で言えば中学生同士の結婚だが、当時女のほうはその年で縁組をするのは普通だった。孝之進がやや早過ぎるかという感じである。
 もっともこの二人の場合は祝言の一か月後に子どもが生まれたのだが。この子は今年の水無月祓えに参加している。
 ここまで極端な話はめったにないが、数年のうちには話が決まり、結婚し、十代で父親になることも少なくない。
 よって女性について知識を得るのは必要不可欠だった。
 だが、岡部家は父の惣右衛門の結婚が遅かったこともあり、あまりそういう教育がされていなかった。
 それに家中の重役以外の家の結婚は総じて遅い傾向にあった。ある程度仕事に慣れ収入が安定しないと、結婚に踏み切れないのだ。
 重役の家は扶持米の他にある程度の知行する土地も多少はあり収入が安定しているから、経済的問題で結婚に迷うことはない。
 だがそうでない場合、ひどい時は親が死なないと結婚できないという経済状態の家も少なくはなかった。
 それぞれの事情はあるが、縁組というのはいずれせねばならぬものだから、知りたいと若者が思うのは当然だった。
 それに縁組の他にも柳町の遊郭に行くこともこの先ないとは言えない。そんな時に女を前にして恥をかきたくなかった。
 好奇心と将来への備えが二人を女体の神秘探究に突き動かしていた。





 平太が帰った後、二人は夕食まで熱心に指南書をめくった。
 四書五経よりもすらすらと内容が頭に入ってくるのは不思議なことであった。
 障子の外から於三に呼ばれて、初めて二人は夕餉の時間が来たことに気付いた。腹時計も働かなかったらしい。

「わかった、今参る」

 本を丁寧に閉じて、書棚の漢籍の間に隠すように入れると、二人は何食わぬ顔で部屋を出たのだった。

「なんだか真面目に勉強しておいでのようでしたけれど」

 母に言われて惣左衛門ははあとしか言えなかった。新右衛門は真面目くさった顔で答えた。

「源氏物語の写本を借りたので、それを読んでおりました」

 源氏物語の写本を借りたのは本当の話だった。和歌の師匠が面白いからと「若紫」の巻を貸してくれたのだった。

「まあ、何の巻ですか」
「若紫です」

 これ以上内容を聞いてくれるなと新右衛門は念じた。それが通じたのか、母はそれ以上何も訊いてこなかった。
 父は帰りが遅くなるという伝言が同僚からあったので、母と三人だけの夕餉だった。

「小治郎はちゃんと白石村まで歩けたでしょうか」
「何の知らせもないから、大丈夫でしょう」

 母はいつもと変わらず動じない。新右衛門も惣左衛門も、幼い頃は母親とは皆そういうものだと思っていたが、他の家の母親のことを聞くとそうでもないらしい。
 ちょっとしたことで怒ったり、わめいたりという母親も世間にはいるらしかった。
 勢以はいつも変わらぬ顔で家を守っていた。卯之助が百足に咬まれた時も、二人の子が浪人に襲われた時も、いつもと同じ顔だった。
 いつも変わらぬというのは、もしかしたら母は鈍いのかもしれないと思ったこともあった。だが、肝が据わっているということかもしれぬと最近は思えるようになった。
 食事を終え膳を台所に持って行くと、於三しかいなかった。

「きよはどうしたんだ」
「腰が痛くて休んでおります」

 七年前はくるくるとよく働いていたきよも年を取った。畑の草取りの後、急に足が痺れて動けなくなったという。腰からくるものだということで、じっと休んでいるしかないのだった。

「そうか、手伝おう」

 新右衛門は茶碗を水のはった桶に入れた。

「大丈夫です。新右衛門様はお勉強をなさってください。惣左衛門様もお部屋にお戻りになりましたし」
「きよがいなくては一人では大変じゃ」
「これくらい平気です。新右衛門様に手伝わせては旦那様に怒られます」

 父がこれくらいのことで怒るわけはないと新右衛門は思う。

「では膳だけでも片付けさせてくれ」

 そう言って、新右衛門は膳を台所の隅に片付けた。
 そこへ母が来た。

「新右衛門、後はしますから、あなたは『若紫』をお読みなさい。お借りしたのなら、早く返さねばなりませんよ」

 そう言われたら従わざるを得ない。若紫を借りたなどと言わねばよかったと新右衛門は思った。




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