生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第一章 悪童(元禄十一年~宝永二年)

17 悪童の涙

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 いつの間にか眠りについた二人はいつもの時間に目覚めた。
 井戸端で顔を洗い着替え仏間に行くと、父がいた。卯之助は父の姿を見てほっとした。

「父上、おはようございます」

 挨拶をいつものようにした。

「おはようございます」

 顔を上げて父の顔を見た。目が赤かった。
 祖先の位牌と仏像に手を合わせた後、父は言った。

「昨日のことだが」

 卯之助も松之丞も背筋を伸ばした。

「あの二人は成敗した。人さらいじゃ」

 人さらい。変だと卯之助は思った。彼らは卯之助と松之丞に刃を向けたのだ。人さらいとは違うように思われた。

「成敗とは」
「命をもって罪を償わせた」

 松之丞の問いに父は躊躇なく答えた。卯之助にも松之丞にも意味がわかった。けれど、二人とも父を恐ろしいとは思わなかった。そうしなければ、父が殺されていたはずである。

「二人はよそから流れ込んだ浪人者じゃ。それでな、沢井の信之助様が怪我をされた」

 卯之助も松之丞も息を呑んだ。

「命には別条はない。腕を怪我されたのだ」
「わしのせいではありませぬか」

 卯之助は父を見上げた。

「わしがゆうれい寺に行ったから」

 惣右衛門は息子を見つめた。

「信之助様はおまえを探すのを自分から手伝うと言った。だが、それとこれとは話が違う。信之助殿は自分が守るべきものを守るために、刀を抜いたのだ。その結果は自分が負うべきもの。相手を殺めても、己が死んでも、それはおまえのせいではない。信之助様が自分の考えで刀を抜き、怪我をした、それだけのことだ。たとえ、父がおまえを守るために刀を抜いて死んだとしても、それはおまえのせいではない。父が自分の守るべきもののために死んだ、それだけのことなのだ」
「それがわしのせいだということではありませんか」
「いや、違う。男は自分の信じる道を選んだなら、それで死ぬことがあっても、他の者のせいにしてはならぬのだ」

 卯之助にはわからなかった。
 松之丞が言った。

「それでは、もしあの場所できのう、わしらがあの男らにころされていたら、それは他のだれでもないわしらのせいなのですね」
「そうだ。だからこそ、人は己のふるまいをふだんから考えねばならぬのだ。己の軽率な行ないがどれほど人を困らせるか、考えねばならぬ。信之助様は恐らく、決しておまえたちを責めることはないだろう。だが、責められないからといって、許されるわけではない。忘れてはならぬ」

 許されるわけではない。卯之助にもそれはわかった。
 信之助様は自分の考えで刀を抜いた。だから卯之助たちを責めることはない。けれど、卯之助達の行動は許されることではないのだ。
 その日、卯之助も松之丞も道場には行かなかった。
 惣右衛門の麓村への御用は延期になった。





 夕刻、照妙寺からの使いが惣右衛門に手紙を持って来た。
 夕餉の後、惣右衛門は卯之助を部屋に呼んだ。

「母上がお亡くなりになったそうだ」

 卯之助は父に呼ばれた時、なんとなくそんな気がしていた。驚きはあったが、衝撃的というほどではない。二人が一緒にいられたのはあまりにも短い時間だったからである。
 ただ、もう会えないのだと思うと、鼻の奥がつんとしてくる。

「御遺言で、弔いは内輪でやるとのことじゃ」

 つまり、自分は行けないということなのだろうと卯之助は理解した。

「墓は尼寺の中に作るのですか」
「さよう。富久様は血のつながった身寄りがなかったのでな。元は山置郷のきこりの娘だったが、両親とも幼い頃に亡くなり、城下の近在の村の伯父の家で育ったそうじゃ」

 母もまた一人きりだったのだ。

「父上、わしの父上は、どなたなのでしょう」

 卯之助は殿にそっくりという言葉を思い出していた。

「梅芳院様が何かおっしゃっていたのか」
「母上がわしのことを殿にそっくりだと言っておりました」

 惣右衛門はふっとため息をついた。いずれは知れることだった。隠しだてをしても無駄だろう。

「誰にも言うてはならぬ。松之丞にも」
「はい」
「殿とは先の殿様。そなたの父上だ。今の殿様と竹之介様はそなたの兄だ」

 母の言う通りだった。兄がいたのだ。だが、先の殿様が父上で、今の殿様が兄というのは実感がなかった。お城の中に住む人々は雲の上に住んでいるようなものだった。
 竹之助様の名は知っていた。八朔の試合をご覧になっていたと、後で知った。どこにいたのか卯之助は覚えていないが。

「なぜ、梅芳院様は父上にわしをあずけたのですか」
「それはわしにもわからぬ。梅芳院様にもお考えあってのこと」
「昨日のこともわしが殿様の子だからだったのですか。うらむなら親をうらめと言うておりました。わしと松之丞の名をきいた後に」

 そんなことを言ったのかと惣右衛門は今さらながら驚いていた。
 昨日、あの浪人の口から出た言葉を聞いた時にはまさかと思っていたが。

「そのこと、誰にも言うてはならぬぞ」
「はい」

 卯之助を部屋に帰した後、惣右衛門は編み笠をかぶり、外へ出た。
 小田切家を訪れた後、家老の小田切仁右衛門とともに城代家老の川合平右衛門の屋敷の門を叩いた。





 その一か月後の霜月(旧暦十一月)、山置家御分家の啓幸たかゆき様の隠居が家中に公表された。
 まだ二十代の当主の急な隠居に様々な憶測が流れたが、表向きは御病気のためということであった。
 隠居後は玄龍寺で出家得度することとなった。
 後を継ぐのは弟の啓哲たかあき様二十歳。啓哲様は学問を好む温和な人柄であった。





 沢井信之助が小ヶ田道場に姿を現したのは師走も十日過ぎてからのことだった。
 卯之助たち初年者が練習を終え、道場を出ようとする頃、信之助は一人で師範の小ヶ田の元を訪ねた。

「信之助様じゃ」

 最初に頼母の住まいの玄関に立つ信之助に気付いた丑松の声に振り返った卯之助は胸がつぶれそうだった。
 遠目にもやつれて見えた。
 信之助様は人さらいに攫われそうになった子どもを助けるために腕を怪我したのだということになっていた。その子どもが卯之助や松之丞だとは誰も知らない。
 二人も父から決してあの日のことを口にするなと言われていた。
 沢井家に見舞いに行くことならぬとも言われていた。

「松之丞、先に家に戻ってろ。忘れ物を思い出した」

 卯之助はそう言うと、道場のほうへ走った。松之丞はわかったと、他の子どもらと門を出た。
 忘れ物というのは嘘ではなかった。
 卯之助にとっては、忘れ物だった。それは目に見えるものではないけれど。
 小ヶ田の住まいから道場へ続く渡り廊下を歩く信之助と頼母の足音が植込みに隠れている卯之助に聞こえた。
 卯之助は音をたてないように近づき、道場の床に近い格子戸の隙間から中を覗いた。
 裸足の足が見えた。
 それが動き、掛け声とともに竹刀のぶつかる音がしたがしたかと思うと、弾かれた竹刀が床に落ちた。
 それを拾った信之助が叫ぶ。

「お願いします」
「こい」

 気合の籠もった頼母の声だった。
 再びぶつかったかと思うと、また竹刀が弾かれた。信之助は拾い、またも打ち合いが始まった。
 けれど、何度しても、信之助の竹刀は弾かれて床に落ちた。
 それを幾度も拾っては立ち向かって行く。
 卯之助はやめてくれと言いたかった。

「まだまだ」

 信之助の声が道場に響く。
 四半時もした頃、ようやく打ち合いは終わった。

「わかった。また明日から来い」

 頼母の野太い声が聞こえた。

「ありがとうございます」

 信之助の声は嗄れていた。
 師の足音が道場から遠ざかっていく。卯之助は渡り廊下の先に頼母の姿が見えなくなると、廊下に上がり、道場に入った。

「信之助様」

 床の上に流れた汗を左手に持った雑巾で拭いていた信之助は顔を上げた。
 やせて頬が少し細くなったその顔は男の顔だった。

「申し訳ありません」

 許してくれなどとは言えない。だから申し訳ないとしか言えない。
 卯之助は床に正座し、頭を下げた。

「顔を上げろ」

 卯之助はゆっくりと顔を上げた。

「よかったな、お互い生きていて」

 信之助は微笑んだ。思いもかけない微笑みに卯之助は、何も言えなかった。
 どうして、笑っていられるのか。そんなことを尋ねてはいけない気がした。

「案ずるな。右手の筋が切れただけのこと。右手がなくなったわけではないのだ。しばらくは前のように動かぬが、少しずつ動かしていけば元のようになると医師も言っておった」

 右手が動かない。
 竹刀を両手で握ってもすぐ打ち落とされるほどになってしまったのかと卯之助は信之助の右腕を見つめた。左腕に比べて、肉がこそげ落ちたように見えた。酷い刀傷の色も生々しく残っていた。
 言葉も出なかった。
 ただ、気が付くと、目から涙があふれていた。
 母上が死んだと聞いた時にも涙が出なかったのに。

「これ、男が泣くでない。見苦しい」

 そう言いながら、笑いながら、信之助のまなこからも涙があふれ落ちた。

「また掃除をせねばならぬではないか」
「申し訳ありません」

 そう言うしか今の卯之助にはできなかった。
 生まれつき親のない自分は生まれた時からばちが当たってるようなものだと思い、これ以上ばちが当たるはずがないと思っていた。
 けれど、道場で幾度も竹刀を拾う信之助の姿を見た時、わかった。これは愚かな己の行いの結果なのだと。それをこの目で見なければならないことこそ、ばちなのだと。
 親がいないから何をしてもこれ以上ばちが当たることがないなどと思ったのは大間違いだった。
 自分の愚かな行いで他人を傷つけてはならない。幼心に卯之助は誓ったのだった。





 頼母には卯之助が道場を覗いているのがわかっていた。
 住まいに戻ると住み込みの門弟が白湯をお持ちしますと言ったが、後でよいと言い私室に入った。
 火鉢の火を入れることもせずに、頼母は掛け軸に描かれた山水を見つめた。先の殿から拝領したものである。

「罪作りな御方よ」

 今回の一件は亡くなられた先の飛騨守隆朝侯がすべての原因といってよかった。
 隆朝侯亡き後、梅芳院こと於絹の方の下働きの富久の産んだ若君を預ける際、秘密裡に腕が立ち子どもを預けるのに適当なものはないかとの小田切家老からの御下問があり、頼母は若い頃からともに剣を磨き合った岡部惣右衛門の名を挙げた。
 父亡き後に生まれた子は、その出自が怪しまれることも多い。ましてや、富久は最後に殿様と閨をともにした側室で、縁起の悪い女子と忌み嫌われていた。
 於絹の方の庇護がなければ、どうなっていたかわからない。その上、尼寺で女子ならともかく男子を育てるわけにはいかない。
 竹之助様のいる小田切家でという考えもあったが、竹之助の御生母は小田切家老の妻の親戚で、身寄りのない富久の赤子がそこで竹之助と同じように育てられるかどうか保証はなかった。
 結局、富久の産んだ男児は岡部の家で養われることになった。
 それを知るのは梅芳院と頼母、小田切家老のみのはずだった。
 晩年までさように女性関係の盛んだった隆朝侯は若い頃も血気盛んだった。
 山置家には分家があった。関ヶ原の合戦を戦った隆矩たかのり侯の片腕として戦乱の世をともに戦った弟君の家系である。
 御分家と呼ばれ、代々の藩主を支えていた。
 隆朝侯はあらぬことか、その家の主の奥方に手を出し、懐妊させてしまった。それが啓幸だった。
 さすがに外聞の悪い話で、啓幸は表向き、分家の主人の子として育った。現藩主隆迪侯よりも年上であるにもかかわらずである。
 ごく内輪の人間しか知らぬ話であり、啓幸本人も知らないはずだった。
 だが、どこで知ったのか、啓幸は自分が本来ならば藩主であったかもしれないと、次第に不平を募らせていった。仲間とともに、現藩主や家老たちへの不満を口にしていたと言う。
 さらには、とてつもない野望を抱いた。藩主の座を狙ったのである。
 隆迪侯は身体がさほど強くなく、子もいない。弟の隆成も病弱だと聞いている。となると、隆迪侯は竹之助を養子にするだろう。だが、竹之助がいなければ、分家の自分にと考えたのである。
 まずは竹之助を亡き者としようとした。だが、竹之助の警備は元より厳しく、とても近づけるものではない。梅芳院も小田切家もそのあたりはぬかりがなかった。
 そんな時に、隆朝侯最後の側室に子がいて、それが岡部の家にいることが啓幸の耳に入った。
 彼はそれを利用することにした。
 その子を害し、その罪を小田切家や梅芳院になすりつければ、竹之助が後を継げなくなると。
 竹之助を害することなく、自分に機会がめぐってくるならと、啓幸は岡部の子どもを狙ったのだ。
 幸い、岡部は普通の家。父親の惣右衛門は手練れの者だが、役目上、家を離れることもあった。
 手始めに岡部家に惣右衛門のいない日に忍び込み、百足を部屋に投げ込んだのだった。岡部家がどれほど手薄か調べるために。
 さらに卯之助が活発な子どもと知ると密かに浪人者を雇い入れ尾行させ、隙を狙ったのだった。
 そして、あの日の凶行となった。
 岡部惣右衛門は浪人の口から「御分家」という言葉を聞き、息子もまた「恨むなら親を」という言葉を聞いていたと証言し、小田切家老と川合城代家老は協議、江戸表に早飛脚を送り、殿の決断を仰いだ。
 その間、大手町の御分家に出入りしていた若者らを極秘のうちに目付が取り調べ、啓幸の野望の全容が判明したのだった。
 殿のご厚情により、啓幸は隠居を命じられた。表向きは玄龍寺で出家得度しとなっているが、実質的には座敷牢への押し込めである。
 他の若者らも、跡目のはく奪、所払い等の処分を受けた。
 沢井信之助の兄忠一郎も、跡目継ぐことまかりならぬと蟄居を命じられた。
 恐らく信之助が父甚太夫を継ぐことになろう。けれど、信之助は浪人者に右腕を切られ酷い傷を負ってしまった。
 先ほど道場で頼母と打ち合った時も右腕は竹刀に添えることしかできなかった。それでも負傷直後よりは腕が上がるようになったという。
 立ち上がり障子を開けると部屋に冷気が流れ込んだ。はるか遠く雲に隠れた雷土山から下ろす風であろうか。
 ふと道場の方を見ると、沢井信之助と岡部卯之助が連れ立って門の方へ歩いていた。
 まるで兄と弟のように見える二人がこの先、どういう人生を歩むのか。
 小ヶ田頼母にもそれはわからなかった。


  第一章おわり   

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