生まれて旅して恋して死ぬ、それが殿様の仕事です

三矢由巳

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第一章 悪童(元禄十一年~宝永二年)

15 尼寺

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 武士というものは平時は走らぬものである。
 武士が走るということは、何か一大事が起きたということであり、見た者が無用の動揺をするからということで、子どもの頃から戒められている。
 だから、沢井信之助ら武家の若者も、岡部惣右衛門も走らず、早足で歩くのだった。
 だが、そんな悠長なことをしてはいられない一般庶民の勘平はいつの間にか走っていた。
 気が付くと、勘平の前には誰もいない。少し先のほうに駕籠が見えるだけである。
 勘平は清願寺跡近くの道に立ち、周囲を見回した。
 子どもの姿を探すが、生い茂ったすすきに阻まれて見えない。

「ん、あれはなんだ」

 草の間に男が二人見えた。大人の男である。すすきの間から垣間見える髷を見ると、侍のようだった。
 走って尋ねようと思ったが、勘平は野井戸のことを思い出した。用心せねばならぬ。草をかきわけながら足元を見て用心深く近づいていった。
 近づきながら耳を澄ます。

「たぞ。覚悟せい」

 覚悟、なんだか穏やかじゃないぞと思い、急いだ。





「おい、何してやがる」

 その声と同時に石が背の高いほうの男の頭に当たった。男は頭の後ろを押さえた。低い方の男が振り返った。

「こやつ」
「子ども相手に刀を抜くとは穏やかじゃねえな」

 そう言った勘平の背後には追いついた惣右衛門や信之助の姿が見えた。

「まずい」

 背の低い男がつぶやいた。

「奴らが来る前にやってしまえばいい」

 そう言うと背の高い男はさっと卯之助の背後に立ったかと思うと、刀を首に当てた。
 卯之助も松之丞も咄嗟のことに動けなかった。

「恨むんなら親を恨め」

 男が刀を動かそうとした時だった。

「なんじゃああ」

 声と同時に刀が地面に落ちた。右腕を押さえて男はうずくまった。
 卯之助と松之丞は勘平に向かって駆けた。勘平は二人を抱き止めた。
 背の低い男はすでに惣右衛門と切り結んでいた。

「大丈夫か」

 信之助の声がした。卯之助も松之丞もその声に安堵した。

「くっそう」

 背後で背の高い男の声がした。
 信之助は勘平に二人を任せ、刀を抜いた。それに気づいた惣右衛門は叫んだ。

「そやつはできるぞ。逃げろ」

 信之助にもそれはわかった。だが、こいつは卯之助や松之丞に危害を加えようとしたのだ。年長者として守る必要がある。

「小僧、なめるな」

 男の右腕から血が流れていた。足元には投剣が落ちていた。男は左手で刀を持った。
 信之助は勘平らをかばうように、男の前で刀を構えた。





 勘平は子らが巻き込まれてはまずいと二人を連れて倒された草の跡をたどってすすきの原を抜けて道へ出た。

「こちらにおいでか」

 彼らを待ち構えていたように尼が目の前に現れた。

「八千代丸様、いえ、卯之助様、こちらへ早う」

 尼は松之丞の手を引いた。卯之助は驚いた。

「卯之助はわしじゃ」
「え、そちがか」

 尼は首をひねった。

「こちらの方が品がよいような」
「尼様、とにかく二人を寺へ。悪い奴らに殺されそうになったんだ」

 勘平は言った。尼寺には殿様の側室だった女性がいるから、警備もそれなりにされているはずだった。
 尼は顔色を変えた。
 小走りに尼は寺への坂道を駆け、卯之助と松之丞もそれに続いた。
 勘平はそれを見届けると、礫をその辺から拾い袂に入れ、男らの下へ戻った。





 勘平が先ほどの場所に戻ると、すでに背の低い侍はその場に倒されていた。

「誰がお前らに命じたのだ」

 その声にはっとして先を見ると、倒れた背の高い侍のそばに惣右衛門が膝をつき、首に脇差を突きつけていた。侍の袴はどす黒く濡れていた。

「言えるわけ、なかろ」
「言わねば斬る」

 男は口を開いた。

「ごぶん」

 勘平にはそれしか聞こえなかった。その続きは聞こえなかった。
 男はこと切れたようだった。
 惣右衛門が脇差を喉から引き抜くと同時に血が噴き出した。
 恐ろしさのあまり、勘平は腰を抜かしそうになった。

「勘平殿」

 振り返った惣右衛門は言った。その頬には鮮血がべっとりと付いていた。勘平は叫びたかったが堪えた。

「そちらに信之助殿がおる」

 勘平ははっとした。惣右衛門と自分の間の叢の中に信之助が倒れていた。右の袖が無残に切られていた。
 呻き声が聞こえた。

「沢井様」

 駆け寄った勘平を見上げる信之助は血の気のない顔で唇を噛みしめていた。
 騒ぎに気付いた他の仲間が走って来る足音が聞こえた。
 惣右衛門は立ち上がり、彼らにそれぞれ行くべき場所を伝えた。

「準之助様は安寧寺へ行き、怪我人がいると伝えてくれ。貞次郎様は沢井様、金之助様は父上に、すぐにここへ来るように伝えてくれ」

 金之助の父親は寺社奉行である。彼らはただならぬ気配を感じ、その場からすぐに動いた。

「信之助様はとりあえず、安寧寺へ。尼寺は男子禁制」

 勘平は持っていた手ぬぐいで信之助の右腕の傷を縛ったが、血がまだじわりじわりと出てくる。
 そこへ安寧寺の僧侶たちが戸板を持ってやってきた。

「生きている者が先じゃ」

 惣右衛門の声で、彼らは信之助の元へ走って来た。
 戸板に乗せられた信之助は、これは悪い夢を見ているのだと思った。





 尼の黒衣を追いかけるように照妙寺に入った卯之助と松之丞を確認すると、門のそばに立っていた若い尼僧は門を閉じ、閂をかけた。
 二人は本堂の横にある庫裏くりに案内された。
 尼は松之丞にそこで待つように言い、卯之助だけを奥へ連れて行った。
 長い黒光りする廊下を尼について行くうちに、卯之助はここは本当に人が住む場所なのかと思った。
 人の気配がしないのだ。声も物音もしないし、匂いは線香の匂い以外はない。

「お連れしました」

 襖の前で尼は言った。中から入れと声がすると、その場に膝を突き、襖を開けた。
 卯之助の目に最初に入ったのは白い尼頭巾に黒い法衣だった。

「失礼します」
「おお、よう来た」

 尼は微笑んだ。きれいな人だなと卯之助は思った。

「これ、座らぬか。梅芳院様の御前であるぞ」

 立ったままの卯之助に連れて来た尼の叱声が飛んだ。
 卯之助は弾かれるように、その場に座った。

「くめ、あまりきつう言うてはならん。富久ふくに聞こえる」
「これは、申し訳ありませぬ」

 尼は頭を下げ部屋を出て行った。

「近う」

 梅芳院という尼に言われて、卯之助は膝行して近づいた。近付いてもやはりきれいな人だった。

「八朔の日に会ったこと、覚えておるか」

 八朔といえば試合のあった日である。こんな人がいただろうか。あの日、卯之助は平太に負けたことで頭がいっぱいだった。

「いいえ」
「そうか。まあ、よい」

 梅芳院は少しがっかりした顔になったが、子どものことゆえ仕方あるまいと思った。

「わらわは梅芳院という。今日、そなたをここへ呼んだのは、そなたの母に会わせるためじゃ」

 母。卯之助は勢以の顔を思い浮かべることしかできない。

「そなたを生んだ母ぞ」

 言われて、はっとした。そうだった。自分には別に両親があったのだ。岡部の家にもらわれた子だと父は言っていた。
 岡部の両親が本当の両親でないというのは、卯之助にとっては納得がいかなかった。
 本当の両親が他にいるなら、今何をしているのか、卯之助は知りたいと思ったことは何度もある。
 けれど、父は決して答えないだろうというのもわかっていた。だから訊かなかった。
 言えないような親かもしれないのだから。
 そんな親に捨てられた自分は前世で何か悪いことをして、そのばちが当たったのかもしれないという思いが心の奥底にあった。
 だから、そんなことをするとばちが当たると言われても、もう当たっているとうそぶくことができた。
 母に会わせるとこの梅芳院という人は言う。
 ということは自分を生んだ母はここにいるのだろう。

「いろいろと事情があって、そなたの母はそなたを手元で育てるわけにはいかなかったので、岡部殿にそなたを預けたのじゃ」
「じじょうとはなんですか」

 卯之助は知りたかった。
 梅芳院は言った。

「詳しい話は今はできぬ。それより、富久に会うがよい」
「ふく」
「そなたの母の名じゃ」

 そう言うと、梅芳院はいざりより、隣の部屋との境の襖を開けた。








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