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章子の結婚
3 祖父の回想
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「大殿様、大殿様」
おきよの声で目を覚ました。
「御加減はいかがですか」
「今日はよい」
おきよの手を借りて内川桐吾は床から出て着替えた。嫁に行った孫の章子が今日挨拶に来ると知らせがあったので、きちんとした姿で出迎えねばならなかった。
「おひいさまはアメロバニアに行ってしまわれるのですね」
おきよは昨日から何度もこの言葉を繰り返していた。
結婚してから四年、帝大を卒業した春樹は外務省に入り、このたび在アメロバニア大使館に書記官として赴任することになったのだ。女子英文塾を卒業した章子もともにアメロバニアに渡り当地の女子大の聴講生となることになった。
ミャーロッパの戦争はアメロバニアのフロラン・インガレス側への参戦によってナストリア・シンガリア帝国とゲマルン王国の敗北という形で終結した。アメロバニアは今や国際関係において大きな影響力を発揮していた。そのような情勢の中でのアメロバニア大使館勤務が重要な役割を担うということは、老人にも十分理解できた。
袴を着けると、老人はおきよの用意した朝食をとった。ほぼ全部食べ終え、おきよが膳を持って行った後、縁側に出て庭を眺めた。
春浅き早朝の庭の中央にある二本の梅の花は散り始めていた。やがてこの梅は実を成し、それを摘んだものを塩漬けすれば梅干しになり、酒に漬け込めば梅酒となる。花の散るのは寂しいが、実りを思えば悲しくはなかった。
すべての物は滅びることで次を育む力となるのだろう。それは人も同じ。
「石田、なぜ、おぬしは」
石田幾三郎の死の数日前のことを、桐吾は思い出していた。
あの日緑明館で外国人を招待してのダンスパーティが行なわれた。
幕末に諸外国と結ばれた国際条約はミャーロッパやアメロバニア有利のもので、不平等なものであった。条約改正を進めるために、新政府は海外の大使らを歓待する施設として緑明館を建設した。
海外の大使や名士らを招待して様々なパーティが行なわれた。海外の新聞記者らは猿真似のようなことをしてとせせら笑ったが、新政府の要人たちは夫人や令嬢とともにパーティに出て、国の近代化をひたすらアピールしていた。
内川桐吾もまた内務省の役人として、パーティの手伝いに駆り出されることがあった。なぜ、こんなことまでと思うこともあったが、国のためならと耐えた。
その日のパーティは海外の教育関係者や商人を招いたものだった。教育関係ということで文部省の石田幾三郎も大臣のお供として控えていた。
役人になってからもたびたび会っていた桐吾と控室で二人きりになった時、石田は言った。
「こんなことをして、条約は改正できるのか」
桐吾も同じ思いを抱いていた。パーティだけで条約が改正できるわけがない。
「これだけでは駄目だ。だが、できることはなんでもしなければ。我が国はまだまだ東洋の小国に過ぎぬのだ」
「だが、似合わぬ外国のドレスを妻や娘に着せて踊らせるような真似は」
それは桐吾も思っていることだった。けれど、手段を選んではいられない。
そこへ給仕が来て大臣のお召しですと言うので、二人はホールへ向かった。
きらびやかな灯りの下、楽団の演奏が流れる中、大勢の貴顕がホールで踊っていた。
大臣の元へ行くと、ちょうど来客の外国人との談笑中であった。
「石田君、ここへ。内川君も」
呼ばれた石田は大臣の傍にはせ参じた。その後ろから桐吾もついて行った。
来客はフロランの商人だった。年は自分達とさほど変わらぬように見えた。挨拶をすると、商人は振り返り背後で大臣夫人と話している夫人を呼んだ。
振り返った顔に桐吾は血の気が引いた。ありえない。
石田の後ろ姿に衝撃が一瞬走ったのを桐吾は見逃さなかった。
結い方こそ違うが豊かな黄金色の髪、ほっそりとした胴回り、白い肌、青く透き通るような瞳、高過ぎず低過ぎぬ鼻、赤く艶やかな唇、白くきれいに並んだ歯、薔薇色の頬、それらが理想的に配置された顔、商人の夫人はヴァッケンローダー伯爵夫人とうり二つだった。
商人は石田に、君はダンスの名手と聞いている、妻と踊ってくれないかと言った。石田は畏まりましたと言って、夫人に挨拶をして踊っていただけますかと話しかけた。夫人はにっこりと笑った。
そのまま二人は手を取り合って踊りの輪の中に入っていった。
それは見事な踊りだった。明らかに他の踊り手とは違い、息がぴったり合っていた。
桐吾は恐ろしかった。ヴァッケンローダー夫人はあの頃三十前後に見えた。とすれば今は四十半ばを過ぎているはず、ことによると五十になっているかもしれぬ。それなのに、この女性は瓜二つで年も取っていないように見えた。
同じ人物とは思えぬが、あまりに似過ぎていた。娘かとも思ったが、そのような年齢にも見えぬ。
大臣や高官、商人らと会話を交わしながら、桐吾の頭の中は踊る二人のことでいっぱいだった。
やがてパーティはお開きになった。
後片付けを指示する石田の顔は紅潮していた。酒など一滴も口にしていないのに。
すべてが終わり、緑明館を辞した時にはすでに冬の満月は真上からやや西に傾いていた。
ともに同じ方向に住まいがあったので二人は冬の夜道を並んで歩いた。
しばらく二人とも黙っていたが、桐吾が切り出した。
「似ていたな、あの婦人」
しばらく石田は黙っていたが、ややあって、ああとだけ答えた。
「血縁の者だろうか」
「わからぬ」
「あの頃は、こんな仕事までするとは思わなかった。パーティの片付けまでするとは」
そう言って桐吾は話を切り換え、高官たちの噂を語った。無論、差し障りのない範囲での話である。
石田は黙って聞いていた。
やがて道が二手に分かれるところまで来た。石田の家は左手、坂を上った先にある。桐吾は右である。桐吾は右手を上げて言った。
「それでは、また」
「どうもありがとう、さようなら」
石田は立ち止まり、桐吾に頭を深々と下げた。こんな丁寧なお辞儀は初めてで、桐吾は驚いたが、きっとあの婦人のことで頭がいっぱいで調子がいつもと違うのだろうと思い、手を振って右手の道を進んだ。
それが生きている石田との最後のやりとりだった。
三日後の朝、役所に出勤した桐吾は石田の近所に住む同僚から訃報を知らされた。
葬儀は石田家の旧領にある菩提寺で行われた。
桐吾は東興近郊に住む留学生仲間の三人とともに参列した。その中には川島魁山もいた。
石田家の三人の息子のうち長男と次男は父の死を理解しているようだったが、三男はわかっていないようで、本堂に多くの人々が集まっているのを興味深げにきょろきょろ見ていた。
未亡人となった妻は突然のことでまだ気持ちの整理もつかないようで呆然としていた。
さすがに出棺の際、棺の蓋に釘を打つ時は泣き崩れていた。そばで三男が母上、泣かないでと言っているありさまは参列者の涙を誘った。
「若過ぎる」
魁山の言葉に皆同意した。
菩提寺近くの墓所に石田幾三郎の棺は埋められた。こうして石田幾三郎は享年三十九で生涯を終えた。
四十九日が過ぎた頃、桐吾はふと緑明館のパーティに来た商人夫婦のことが気になって、所在を調べた。すると石田の葬儀の五日後に夫婦はフロランに帰国するため日本を出たことがわかった。夫人の名まえはフロランの女性によくあるものであった。偶然に似ていただけなのだろうと桐吾は結論づけた。
だが、五年前、桐吾が肺炎で危篤に陥った時に夢で見た石田はあちら側ではなくこちら側にいた。
あれは己の生きていて欲しかったという願望だと孫の章子には言った。けれど、あの夢よりも前に、桐吾は石田がまだ生きているのではないかと思うことが幾度かあった。
亡くなった翌年の初盆の前に、桐吾は石田家を訪れた。一家は夫人の実家の所有していた借家に住んでいた。兄の経営する会社が傾いたために支援をほとんど受けられず、夫人は仕立物や近くの農家の手伝いをしながら三人の男子を育てていた。苦労のためか白かった顔も手も日焼けしていた。
仏壇に燈明を上げ、三人の子どもらに母上を助けてしっかり勉強するように言い、仏前に備えるにしては少々多めに包んだ金封を渡すと、夫人は驚きいただけませんと言った。
桐吾は石田君には世話になったからと言って無理矢理受け取らせ、時間がないので帰りますと辞した。
するとお送りしますと長男が立ち上がり、幼い三男もともに駅までついてきた。
すでに夕方近い刻限であった。ふと見上げると、雀よりも一回り大きな黒い影がすっと頭上をかすめるように飛んでいった。
「蝙蝠だ」
長男の言うように蝙蝠らしかった。すると三男が言った。
「あのコウモリ、よく家の近くにいるよ。きっと父上だよ」
桐吾はセルマイユの港でのことを思い出した。
「父上が蝙蝠なものか」
「だって、父上みたいにぼくをじっと見てるもの」
すでに中学生になっている長男にとっては末っ子の言葉は理屈に合わないものだった。桐吾もふだんなら一笑に付すことであった。だが、セルマイユで蝙蝠が岸に向かって飛び、その岸にヴァッケンローダー夫人が立っていたのを思い出すと、蝙蝠が人に、人が蝙蝠に姿を変えることがなぜか不自然には思われなかった。
駅に着くと、長男と三男はありがとうございましたと改めて礼を言った。桐吾はホームに立って改札口の向こうの少年二人を振り返った。長男は母親に似ているが、三男はどことなく石田に似ていた。
駅舎の上にまた黒い影が見えた。今度は蝙蝠は二羽いた。
蝙蝠はぱたぱたと羽根を翻し駅舎の屋根の向こうに消えた。
数年後、桐吾は公用でシソハイに行った。そこでも、自分を見つめるように建物の屋根にとまる蝙蝠を見た。霧がやがて立ち込め晴れた時には蝙蝠の姿はなかった。
その夜、桐吾は宿舎になっているホテルで夢を見た。
ベッドに眠る自分を見下ろしている人間がいる気配がした。これは物盗りの類ではないかと思ったが、夢かもしれぬと思い、目をしっかり開けて見上げると、見覚えのある顔だった。
黒ずくめの三つ揃えの背広に黒いマントを身に付けた石田が立っていた。
やはり夢だと思った。石田は死んでいるのだ。
石田は何も言わず、じっと桐吾を見下ろしていた。
「心残りでもあるのか」
尋ねると、石田は首を横に振った。ああよかったと桐吾は思った。長男は帝大を卒業し、次男は帝大生、頑是なかった三男も中学生になった。夫人も元気だと聞いている。心残りのあろうはずはなかった。
いつの間にか、横にヴァッケンローダー夫人が立っていた。
一緒にいるのかと思っているうちに桐吾の意識は遠のいた。夢はそこで終わったらしかった。
そんなことがあったせいか、桐吾は石田は死んでいるはずなのに、どこかで生きているように思えてくることがあった。
生きているはずなどないのだが。孫娘に話したように、棺桶から出てくることは愚か、死者が生き返ることなどありえぬのだ。
それにヴァッケンローダーという伯爵家は存在しない。名まえを偽る等の彼女の行動はどう考えても間諜の振舞としか思えなかった。だから章子に間諜だと言ったのだ。
ただ一つの可能性を除いては。
おきよの声で目を覚ました。
「御加減はいかがですか」
「今日はよい」
おきよの手を借りて内川桐吾は床から出て着替えた。嫁に行った孫の章子が今日挨拶に来ると知らせがあったので、きちんとした姿で出迎えねばならなかった。
「おひいさまはアメロバニアに行ってしまわれるのですね」
おきよは昨日から何度もこの言葉を繰り返していた。
結婚してから四年、帝大を卒業した春樹は外務省に入り、このたび在アメロバニア大使館に書記官として赴任することになったのだ。女子英文塾を卒業した章子もともにアメロバニアに渡り当地の女子大の聴講生となることになった。
ミャーロッパの戦争はアメロバニアのフロラン・インガレス側への参戦によってナストリア・シンガリア帝国とゲマルン王国の敗北という形で終結した。アメロバニアは今や国際関係において大きな影響力を発揮していた。そのような情勢の中でのアメロバニア大使館勤務が重要な役割を担うということは、老人にも十分理解できた。
袴を着けると、老人はおきよの用意した朝食をとった。ほぼ全部食べ終え、おきよが膳を持って行った後、縁側に出て庭を眺めた。
春浅き早朝の庭の中央にある二本の梅の花は散り始めていた。やがてこの梅は実を成し、それを摘んだものを塩漬けすれば梅干しになり、酒に漬け込めば梅酒となる。花の散るのは寂しいが、実りを思えば悲しくはなかった。
すべての物は滅びることで次を育む力となるのだろう。それは人も同じ。
「石田、なぜ、おぬしは」
石田幾三郎の死の数日前のことを、桐吾は思い出していた。
あの日緑明館で外国人を招待してのダンスパーティが行なわれた。
幕末に諸外国と結ばれた国際条約はミャーロッパやアメロバニア有利のもので、不平等なものであった。条約改正を進めるために、新政府は海外の大使らを歓待する施設として緑明館を建設した。
海外の大使や名士らを招待して様々なパーティが行なわれた。海外の新聞記者らは猿真似のようなことをしてとせせら笑ったが、新政府の要人たちは夫人や令嬢とともにパーティに出て、国の近代化をひたすらアピールしていた。
内川桐吾もまた内務省の役人として、パーティの手伝いに駆り出されることがあった。なぜ、こんなことまでと思うこともあったが、国のためならと耐えた。
その日のパーティは海外の教育関係者や商人を招いたものだった。教育関係ということで文部省の石田幾三郎も大臣のお供として控えていた。
役人になってからもたびたび会っていた桐吾と控室で二人きりになった時、石田は言った。
「こんなことをして、条約は改正できるのか」
桐吾も同じ思いを抱いていた。パーティだけで条約が改正できるわけがない。
「これだけでは駄目だ。だが、できることはなんでもしなければ。我が国はまだまだ東洋の小国に過ぎぬのだ」
「だが、似合わぬ外国のドレスを妻や娘に着せて踊らせるような真似は」
それは桐吾も思っていることだった。けれど、手段を選んではいられない。
そこへ給仕が来て大臣のお召しですと言うので、二人はホールへ向かった。
きらびやかな灯りの下、楽団の演奏が流れる中、大勢の貴顕がホールで踊っていた。
大臣の元へ行くと、ちょうど来客の外国人との談笑中であった。
「石田君、ここへ。内川君も」
呼ばれた石田は大臣の傍にはせ参じた。その後ろから桐吾もついて行った。
来客はフロランの商人だった。年は自分達とさほど変わらぬように見えた。挨拶をすると、商人は振り返り背後で大臣夫人と話している夫人を呼んだ。
振り返った顔に桐吾は血の気が引いた。ありえない。
石田の後ろ姿に衝撃が一瞬走ったのを桐吾は見逃さなかった。
結い方こそ違うが豊かな黄金色の髪、ほっそりとした胴回り、白い肌、青く透き通るような瞳、高過ぎず低過ぎぬ鼻、赤く艶やかな唇、白くきれいに並んだ歯、薔薇色の頬、それらが理想的に配置された顔、商人の夫人はヴァッケンローダー伯爵夫人とうり二つだった。
商人は石田に、君はダンスの名手と聞いている、妻と踊ってくれないかと言った。石田は畏まりましたと言って、夫人に挨拶をして踊っていただけますかと話しかけた。夫人はにっこりと笑った。
そのまま二人は手を取り合って踊りの輪の中に入っていった。
それは見事な踊りだった。明らかに他の踊り手とは違い、息がぴったり合っていた。
桐吾は恐ろしかった。ヴァッケンローダー夫人はあの頃三十前後に見えた。とすれば今は四十半ばを過ぎているはず、ことによると五十になっているかもしれぬ。それなのに、この女性は瓜二つで年も取っていないように見えた。
同じ人物とは思えぬが、あまりに似過ぎていた。娘かとも思ったが、そのような年齢にも見えぬ。
大臣や高官、商人らと会話を交わしながら、桐吾の頭の中は踊る二人のことでいっぱいだった。
やがてパーティはお開きになった。
後片付けを指示する石田の顔は紅潮していた。酒など一滴も口にしていないのに。
すべてが終わり、緑明館を辞した時にはすでに冬の満月は真上からやや西に傾いていた。
ともに同じ方向に住まいがあったので二人は冬の夜道を並んで歩いた。
しばらく二人とも黙っていたが、桐吾が切り出した。
「似ていたな、あの婦人」
しばらく石田は黙っていたが、ややあって、ああとだけ答えた。
「血縁の者だろうか」
「わからぬ」
「あの頃は、こんな仕事までするとは思わなかった。パーティの片付けまでするとは」
そう言って桐吾は話を切り換え、高官たちの噂を語った。無論、差し障りのない範囲での話である。
石田は黙って聞いていた。
やがて道が二手に分かれるところまで来た。石田の家は左手、坂を上った先にある。桐吾は右である。桐吾は右手を上げて言った。
「それでは、また」
「どうもありがとう、さようなら」
石田は立ち止まり、桐吾に頭を深々と下げた。こんな丁寧なお辞儀は初めてで、桐吾は驚いたが、きっとあの婦人のことで頭がいっぱいで調子がいつもと違うのだろうと思い、手を振って右手の道を進んだ。
それが生きている石田との最後のやりとりだった。
三日後の朝、役所に出勤した桐吾は石田の近所に住む同僚から訃報を知らされた。
葬儀は石田家の旧領にある菩提寺で行われた。
桐吾は東興近郊に住む留学生仲間の三人とともに参列した。その中には川島魁山もいた。
石田家の三人の息子のうち長男と次男は父の死を理解しているようだったが、三男はわかっていないようで、本堂に多くの人々が集まっているのを興味深げにきょろきょろ見ていた。
未亡人となった妻は突然のことでまだ気持ちの整理もつかないようで呆然としていた。
さすがに出棺の際、棺の蓋に釘を打つ時は泣き崩れていた。そばで三男が母上、泣かないでと言っているありさまは参列者の涙を誘った。
「若過ぎる」
魁山の言葉に皆同意した。
菩提寺近くの墓所に石田幾三郎の棺は埋められた。こうして石田幾三郎は享年三十九で生涯を終えた。
四十九日が過ぎた頃、桐吾はふと緑明館のパーティに来た商人夫婦のことが気になって、所在を調べた。すると石田の葬儀の五日後に夫婦はフロランに帰国するため日本を出たことがわかった。夫人の名まえはフロランの女性によくあるものであった。偶然に似ていただけなのだろうと桐吾は結論づけた。
だが、五年前、桐吾が肺炎で危篤に陥った時に夢で見た石田はあちら側ではなくこちら側にいた。
あれは己の生きていて欲しかったという願望だと孫の章子には言った。けれど、あの夢よりも前に、桐吾は石田がまだ生きているのではないかと思うことが幾度かあった。
亡くなった翌年の初盆の前に、桐吾は石田家を訪れた。一家は夫人の実家の所有していた借家に住んでいた。兄の経営する会社が傾いたために支援をほとんど受けられず、夫人は仕立物や近くの農家の手伝いをしながら三人の男子を育てていた。苦労のためか白かった顔も手も日焼けしていた。
仏壇に燈明を上げ、三人の子どもらに母上を助けてしっかり勉強するように言い、仏前に備えるにしては少々多めに包んだ金封を渡すと、夫人は驚きいただけませんと言った。
桐吾は石田君には世話になったからと言って無理矢理受け取らせ、時間がないので帰りますと辞した。
するとお送りしますと長男が立ち上がり、幼い三男もともに駅までついてきた。
すでに夕方近い刻限であった。ふと見上げると、雀よりも一回り大きな黒い影がすっと頭上をかすめるように飛んでいった。
「蝙蝠だ」
長男の言うように蝙蝠らしかった。すると三男が言った。
「あのコウモリ、よく家の近くにいるよ。きっと父上だよ」
桐吾はセルマイユの港でのことを思い出した。
「父上が蝙蝠なものか」
「だって、父上みたいにぼくをじっと見てるもの」
すでに中学生になっている長男にとっては末っ子の言葉は理屈に合わないものだった。桐吾もふだんなら一笑に付すことであった。だが、セルマイユで蝙蝠が岸に向かって飛び、その岸にヴァッケンローダー夫人が立っていたのを思い出すと、蝙蝠が人に、人が蝙蝠に姿を変えることがなぜか不自然には思われなかった。
駅に着くと、長男と三男はありがとうございましたと改めて礼を言った。桐吾はホームに立って改札口の向こうの少年二人を振り返った。長男は母親に似ているが、三男はどことなく石田に似ていた。
駅舎の上にまた黒い影が見えた。今度は蝙蝠は二羽いた。
蝙蝠はぱたぱたと羽根を翻し駅舎の屋根の向こうに消えた。
数年後、桐吾は公用でシソハイに行った。そこでも、自分を見つめるように建物の屋根にとまる蝙蝠を見た。霧がやがて立ち込め晴れた時には蝙蝠の姿はなかった。
その夜、桐吾は宿舎になっているホテルで夢を見た。
ベッドに眠る自分を見下ろしている人間がいる気配がした。これは物盗りの類ではないかと思ったが、夢かもしれぬと思い、目をしっかり開けて見上げると、見覚えのある顔だった。
黒ずくめの三つ揃えの背広に黒いマントを身に付けた石田が立っていた。
やはり夢だと思った。石田は死んでいるのだ。
石田は何も言わず、じっと桐吾を見下ろしていた。
「心残りでもあるのか」
尋ねると、石田は首を横に振った。ああよかったと桐吾は思った。長男は帝大を卒業し、次男は帝大生、頑是なかった三男も中学生になった。夫人も元気だと聞いている。心残りのあろうはずはなかった。
いつの間にか、横にヴァッケンローダー夫人が立っていた。
一緒にいるのかと思っているうちに桐吾の意識は遠のいた。夢はそこで終わったらしかった。
そんなことがあったせいか、桐吾は石田は死んでいるはずなのに、どこかで生きているように思えてくることがあった。
生きているはずなどないのだが。孫娘に話したように、棺桶から出てくることは愚か、死者が生き返ることなどありえぬのだ。
それにヴァッケンローダーという伯爵家は存在しない。名まえを偽る等の彼女の行動はどう考えても間諜の振舞としか思えなかった。だから章子に間諜だと言ったのだ。
ただ一つの可能性を除いては。
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