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章子の結婚
1 家庭教師
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泰尚三年(一九一四年)の六月、ナストリア=シンガリア帝国の皇太子夫妻がマルカン半島のスボニア国訪問中に暗殺された。
元々ミャーロッパ東部地域のマルカン半島は「マルカンの火薬庫」と言われるほど、民族問題が大国を巻き込んで複雑化しており、この事件がきっかけとなり周辺諸国に緊張状態が発生した。
暗殺者がサビリア人であるということで、ゲマルン帝国の支持を得たナストリア=シンガリア帝国は七月サビリアに宣戦布告、ゲマルン帝国もラマノア帝国とフロラン共和国に宣戦布告し、ここにミャーロッパ全土を巻き込む戦争が始まった。
ミャーロッパから遠く離れた国にいる章子にとって最初は遠い戦争であった。
だが、戦争はたちまちのうちに章子の未来に影を落とした。
ミャーロッパから離れたアメロバニアは中立を表明していた。だが、いつ参戦するかわからぬということで、父だけでなく祖父までも留学に反対した。
夏休みが終わって登校すると、ミャーロッパに留学している親族が帰国したと同級生が話していた。
「戦争が終わるまで、私、女子英文塾で勉強しようと思いますの」
章子の友人で留学先の大学も決めていたクラス一の才媛出門薫子の言葉に、章子はこれは方針を変更せねばならぬかもしれぬと思った。国内の進学なら誰も異議は唱えないはずだった。
さて、祖父は父の持って来た號外を読んで以後、寝てはいられぬと床上げをしてしまった。往診した医者は奇跡的な回復だと驚きあきれていた。
戦争が始まると帰宅した父と戦況をあれこれ分析していた。ふだん物静かな父も祖父と戦争の話をする時は少し興奮気味に見えた。
男というのは戦争となると頭に血がのぼってしまうものなのだろうかと、章子は思う。それとも、戦国の世を武器を手に戦うことで生き抜いてきた直参旗本の血ゆえなのか。
それはともかく留学ができなくとも今はできるだけのことをしなければならないと、章子は受験に備えて勉強に励んだ。石田の話の続きを聞きたいと思ったものの、今は勉強が最優先だった。
国内の女子専門学校を受験するならと、父は帝大生の肱岡春樹を家庭教師として雇った。
背筋の伸びた美しい所作をする若者が週に二度やって来るのが、章子にとって楽しみになっていた。
肱岡はそんな章子の気持ちなどまるで気付かぬようで、数学の計算間違いや英作文の綴りの誤りを厳しく指摘した。章子はそのたびに落ち込んだが、次は褒められるようにとますます勉学に励んだ。
おかげで十二月初めの期末試験ではこれまでで一番いい成績がとれた。教師もこれなら女子英文塾に合格できると言った。
終業式の日、章子は成績表を持って祖父の部屋に入った。学期が終わる度に両親だけでなく祖父にも成績の報告をすることになっていたのである。
座敷の上座に座った祖父は成績表を見てうなずいた。
「甲が増えたな。体操はずっと甲だな、よいことだ。身体がすべての元手だからな」
「甲が増えたのは肱岡先生のおかげです」
「肱岡? ああ、帝大生の家庭教師だな。では、今度馳走せねばな。クリスマスに招くことにしよう」
祖父や父母が公用で海外に行ったことがあるためなのか、内川家ではクリスマスに家族で馳走を食べることになっていた。直参旗本のどうのと祖父は言うが、そういうところは開明的であった。
そういえばと章子は祖父に尋ねた。
「インガレスではクリスマスはいかにして過ごされたのですか」
「当時はクリスマスというのは異教の行事ということで我らは特に何もしなかった。インガレス人から招かれたことはあった。クリスマスプディングというのを食べたな。まことインガレスの者はプディングが好きであった。だが、エイムズ夫人のプディングが一番であったな」
「あの、石田様のことですが、まことに生きておいでなのですか」
その名を口にしたのは、なんとなくこの機を逃すと尋ねることができぬような気がしたからだった。
祖父は章子を見つめた。その目は病床にあった頃に比べ生気を取り戻していた。章子は少し怖かった。
「知りたいか」
「はい。亡くなったと川島様は仰せでした。でも、おじい様は生きていると」
「確かに私はそう言った。だが、そなたに見せられる証拠はない。私だけが見たものゆえな」
一体、祖父は何を見たのであろうか。章子は自分でも気づかぬうちに身を乗り出していた。
「この五月から六月にかけて、肺炎で臥せっておった時であった。医者が遠方の親戚を呼べと言った頃であったと思う。私は息苦しさにもうこのまま死ぬのであろうと思った。看病しているおきよの声は聞こえるが返事もできず、身体も動かせなかった。その時にな、ふっと体が楽になった。息苦しかったはずなのに、胸の痛みも喉のつかえもなくなった。気が付くと、目の前に川が流れておった。隅田川のような川なのだが、向こう岸がはっきりと見えた」
章子は三途の川という言葉を思い出した。
「あたりには花が咲いておった。インガレスの王立植物園に咲いていたような花や百花園のような趣ある草草もあり、まことに不思議な風景であった。向こう岸には大勢の者達が立っていてこちらを見ていた。ずいぶんと離れているようだが、顔立ちははっきりとわかった。
両親、祖父母、亡くなった弟、妹、叔父叔母、それに一緒に留学した者達。我らは江戸に戻ってから、皆ばらばらになってしまった。幕府軍として恵添へ行った者、公方様に従い志寿岡に行った者、愛戸に残った者……。
その中の亡くなった者達が向こう岸で待っていたのだ。
ああ、私もそこへ行くのかと思った。一人一人の顔を見ると懐かしさが込み上げて来た。
だが、その中に石田幾三郎はいなかった。死んだはずなのに。
おかしいと思った。その時、私は袖を引かれたのだ。振り返ると、石田だった。
石田はこちら側にいた。そして言ったのだ。まだ行くなと」
章子は息を呑んだ。
臨死体験という言葉のない時代であったが、あの世から戻って来た人の話を書物で読んだことがあった。花畑があって、川があってという記述があったことを思い出した。
「気が付くと、息が苦しくてな。だが、少し呼吸が楽になっていた。ああ、苦しいというのは生きている証であるなと思ったよ。あのまま石田が袖を引いてくれなんだら、私は向こう岸へ渡っていたかもしれぬ」
確かに証拠の無い話である。科学的には三途の川の存在は立証されていない。祖父の脳が見せた幻かもしれないのだ。
「おじい様、石田様はどうしてお亡くなりになられたのですか」
「急病ということであった。眠っている間に心臓が止まってしまったのだ。知らせを聞いて駆け付けたが、まるで眠っているかのような死に顔であった」
「何か持病がおありだったのでしょうか」
「若い頃労咳を病んだが、帰国してからはそういう話は聞いておらん。結婚して男子三人を儲けているから身体が虚弱ということもなかろう。何より、文部省で仕事に励んでいた。病気で休んだこともないと通夜で部下が話していた」
「御遺体は荼毘にふされたのでしょう」
「それが、石田の家は火葬はせぬということで元の領地の墓所に土葬されたのだ。だが、たとえ生き返っても棺桶の蓋を取り埋められた墓から出ることなど無理な話。あれは私の願望であったのかもしれぬな。石田には生きていて欲しかったという。あまりに惜しい男であったからな。
あの話をした時は私も病が癒えたばかりで、正気に完全に戻っていなかったのかもしれぬ。死んだ者が甦るなどありえぬ。生きていると言ったことなど忘れておくれ」
本当にそうなのだろうか。章子は女吸血鬼のことが書かれた書物の内容を思い返していた。
たとえ死んでも甦り、夜になると柩から出て来ると書いてあった。銀の銃弾で撃たれるか、銀の剣で心臓を刺されると灰になってしまうともあった。
「おじい様、つかぬことをお伺いしますが」
「なんだ」
「ヴァッケンローダー伯爵夫人は、まことにナストリアの伯爵夫人だったのですか」
祖父の顔色がわずかに変わった。章子はそのような祖父を見たことがなかった。役人として明慈の激動の世で働いてきた祖父は章子をはじめ孫たちの言動を叱るにしても褒めるにしても、顔色を変えることなどなかった。
「かようなことを申すのは気が引けるのですが、戦争が始まって、ヴァッケンローダー伯爵家がどうなっているのか気になったのでナストリアの貴族の名を調べました。級友の薫子さんのお兄様がナストリア大使館の駐在武官でしたから、薫子さんに尋ねたのです。そうしたら、そのような伯爵家は現在にも過去にも存在しないと判明しました。一体、伯爵夫人は何者なのですか。おじいさまは内務省で働いておいででしたから、気づいておいでだったのではありませんか」
一気に言ってしまってから、祖父がきちんと聞き取ることができたか心配になった。祖父はこの頃少しだけ耳が遠くなっていた。
が、祖父には聞こえていたらしかった。
「ヴァッケンローダー伯爵夫人……。私も国に戻って新政府が落ち着き始めた頃に調べた。そう、実在しない伯爵だ」
やはりそうだったのだ。では、一体何者だったのか。やはり女吸血鬼なのか。
「あれはゲマルン帝国、いや当時はロプセン王国といったな、そこの間諜だ」
間諜、すなわちスパイのことである。
「当時、ロプセンは他の諸国同様に我が国と外交関係を結んでいたものの、恵添を植民地にしようと画策していた。そのために留学生に接触し幕府側の情報を得ようとしたのだろう。石田は利用されそうになったのだ」
「間諜だったのですか」
「エイムズ夫人の隣人の商人は利用されたのだ。あの女の色香に迷い家を貸してしまったのだ。帰国後、エイムズ氏に礼の手紙を送った後届いた返事では、伯爵夫人は我らが下宿を引き払った数日後に、領地で問題があったので帰国すると荷物をまとめて出て行ってしまったそうだ」
夫人が間諜であったというのは衝撃的な話ではある。だが、女吸血鬼ではなかったということに落胆した章子にとって、間諜だったという結論はあまり愉快なものではなかった。
「ロプセンとフロランは幾度も戦争をしている国ゆえ、その後はフロランで間諜をしていたようだ。港に現れたのは、少しは心残りがあったからであろうな。石田は我らの中では顔立ちが優し気であった。間諜であっても情の深い女子であったのであろう。だからこそ、石田も心惹かれたのだろう」
女吸血鬼ならぬ女スパイ。
永遠に死ぬことのできぬ吸血鬼に少々浪漫の香りを感じていた章子に無味乾燥な現実を突きつけた祖父であった。
元々ミャーロッパ東部地域のマルカン半島は「マルカンの火薬庫」と言われるほど、民族問題が大国を巻き込んで複雑化しており、この事件がきっかけとなり周辺諸国に緊張状態が発生した。
暗殺者がサビリア人であるということで、ゲマルン帝国の支持を得たナストリア=シンガリア帝国は七月サビリアに宣戦布告、ゲマルン帝国もラマノア帝国とフロラン共和国に宣戦布告し、ここにミャーロッパ全土を巻き込む戦争が始まった。
ミャーロッパから遠く離れた国にいる章子にとって最初は遠い戦争であった。
だが、戦争はたちまちのうちに章子の未来に影を落とした。
ミャーロッパから離れたアメロバニアは中立を表明していた。だが、いつ参戦するかわからぬということで、父だけでなく祖父までも留学に反対した。
夏休みが終わって登校すると、ミャーロッパに留学している親族が帰国したと同級生が話していた。
「戦争が終わるまで、私、女子英文塾で勉強しようと思いますの」
章子の友人で留学先の大学も決めていたクラス一の才媛出門薫子の言葉に、章子はこれは方針を変更せねばならぬかもしれぬと思った。国内の進学なら誰も異議は唱えないはずだった。
さて、祖父は父の持って来た號外を読んで以後、寝てはいられぬと床上げをしてしまった。往診した医者は奇跡的な回復だと驚きあきれていた。
戦争が始まると帰宅した父と戦況をあれこれ分析していた。ふだん物静かな父も祖父と戦争の話をする時は少し興奮気味に見えた。
男というのは戦争となると頭に血がのぼってしまうものなのだろうかと、章子は思う。それとも、戦国の世を武器を手に戦うことで生き抜いてきた直参旗本の血ゆえなのか。
それはともかく留学ができなくとも今はできるだけのことをしなければならないと、章子は受験に備えて勉強に励んだ。石田の話の続きを聞きたいと思ったものの、今は勉強が最優先だった。
国内の女子専門学校を受験するならと、父は帝大生の肱岡春樹を家庭教師として雇った。
背筋の伸びた美しい所作をする若者が週に二度やって来るのが、章子にとって楽しみになっていた。
肱岡はそんな章子の気持ちなどまるで気付かぬようで、数学の計算間違いや英作文の綴りの誤りを厳しく指摘した。章子はそのたびに落ち込んだが、次は褒められるようにとますます勉学に励んだ。
おかげで十二月初めの期末試験ではこれまでで一番いい成績がとれた。教師もこれなら女子英文塾に合格できると言った。
終業式の日、章子は成績表を持って祖父の部屋に入った。学期が終わる度に両親だけでなく祖父にも成績の報告をすることになっていたのである。
座敷の上座に座った祖父は成績表を見てうなずいた。
「甲が増えたな。体操はずっと甲だな、よいことだ。身体がすべての元手だからな」
「甲が増えたのは肱岡先生のおかげです」
「肱岡? ああ、帝大生の家庭教師だな。では、今度馳走せねばな。クリスマスに招くことにしよう」
祖父や父母が公用で海外に行ったことがあるためなのか、内川家ではクリスマスに家族で馳走を食べることになっていた。直参旗本のどうのと祖父は言うが、そういうところは開明的であった。
そういえばと章子は祖父に尋ねた。
「インガレスではクリスマスはいかにして過ごされたのですか」
「当時はクリスマスというのは異教の行事ということで我らは特に何もしなかった。インガレス人から招かれたことはあった。クリスマスプディングというのを食べたな。まことインガレスの者はプディングが好きであった。だが、エイムズ夫人のプディングが一番であったな」
「あの、石田様のことですが、まことに生きておいでなのですか」
その名を口にしたのは、なんとなくこの機を逃すと尋ねることができぬような気がしたからだった。
祖父は章子を見つめた。その目は病床にあった頃に比べ生気を取り戻していた。章子は少し怖かった。
「知りたいか」
「はい。亡くなったと川島様は仰せでした。でも、おじい様は生きていると」
「確かに私はそう言った。だが、そなたに見せられる証拠はない。私だけが見たものゆえな」
一体、祖父は何を見たのであろうか。章子は自分でも気づかぬうちに身を乗り出していた。
「この五月から六月にかけて、肺炎で臥せっておった時であった。医者が遠方の親戚を呼べと言った頃であったと思う。私は息苦しさにもうこのまま死ぬのであろうと思った。看病しているおきよの声は聞こえるが返事もできず、身体も動かせなかった。その時にな、ふっと体が楽になった。息苦しかったはずなのに、胸の痛みも喉のつかえもなくなった。気が付くと、目の前に川が流れておった。隅田川のような川なのだが、向こう岸がはっきりと見えた」
章子は三途の川という言葉を思い出した。
「あたりには花が咲いておった。インガレスの王立植物園に咲いていたような花や百花園のような趣ある草草もあり、まことに不思議な風景であった。向こう岸には大勢の者達が立っていてこちらを見ていた。ずいぶんと離れているようだが、顔立ちははっきりとわかった。
両親、祖父母、亡くなった弟、妹、叔父叔母、それに一緒に留学した者達。我らは江戸に戻ってから、皆ばらばらになってしまった。幕府軍として恵添へ行った者、公方様に従い志寿岡に行った者、愛戸に残った者……。
その中の亡くなった者達が向こう岸で待っていたのだ。
ああ、私もそこへ行くのかと思った。一人一人の顔を見ると懐かしさが込み上げて来た。
だが、その中に石田幾三郎はいなかった。死んだはずなのに。
おかしいと思った。その時、私は袖を引かれたのだ。振り返ると、石田だった。
石田はこちら側にいた。そして言ったのだ。まだ行くなと」
章子は息を呑んだ。
臨死体験という言葉のない時代であったが、あの世から戻って来た人の話を書物で読んだことがあった。花畑があって、川があってという記述があったことを思い出した。
「気が付くと、息が苦しくてな。だが、少し呼吸が楽になっていた。ああ、苦しいというのは生きている証であるなと思ったよ。あのまま石田が袖を引いてくれなんだら、私は向こう岸へ渡っていたかもしれぬ」
確かに証拠の無い話である。科学的には三途の川の存在は立証されていない。祖父の脳が見せた幻かもしれないのだ。
「おじい様、石田様はどうしてお亡くなりになられたのですか」
「急病ということであった。眠っている間に心臓が止まってしまったのだ。知らせを聞いて駆け付けたが、まるで眠っているかのような死に顔であった」
「何か持病がおありだったのでしょうか」
「若い頃労咳を病んだが、帰国してからはそういう話は聞いておらん。結婚して男子三人を儲けているから身体が虚弱ということもなかろう。何より、文部省で仕事に励んでいた。病気で休んだこともないと通夜で部下が話していた」
「御遺体は荼毘にふされたのでしょう」
「それが、石田の家は火葬はせぬということで元の領地の墓所に土葬されたのだ。だが、たとえ生き返っても棺桶の蓋を取り埋められた墓から出ることなど無理な話。あれは私の願望であったのかもしれぬな。石田には生きていて欲しかったという。あまりに惜しい男であったからな。
あの話をした時は私も病が癒えたばかりで、正気に完全に戻っていなかったのかもしれぬ。死んだ者が甦るなどありえぬ。生きていると言ったことなど忘れておくれ」
本当にそうなのだろうか。章子は女吸血鬼のことが書かれた書物の内容を思い返していた。
たとえ死んでも甦り、夜になると柩から出て来ると書いてあった。銀の銃弾で撃たれるか、銀の剣で心臓を刺されると灰になってしまうともあった。
「おじい様、つかぬことをお伺いしますが」
「なんだ」
「ヴァッケンローダー伯爵夫人は、まことにナストリアの伯爵夫人だったのですか」
祖父の顔色がわずかに変わった。章子はそのような祖父を見たことがなかった。役人として明慈の激動の世で働いてきた祖父は章子をはじめ孫たちの言動を叱るにしても褒めるにしても、顔色を変えることなどなかった。
「かようなことを申すのは気が引けるのですが、戦争が始まって、ヴァッケンローダー伯爵家がどうなっているのか気になったのでナストリアの貴族の名を調べました。級友の薫子さんのお兄様がナストリア大使館の駐在武官でしたから、薫子さんに尋ねたのです。そうしたら、そのような伯爵家は現在にも過去にも存在しないと判明しました。一体、伯爵夫人は何者なのですか。おじいさまは内務省で働いておいででしたから、気づいておいでだったのではありませんか」
一気に言ってしまってから、祖父がきちんと聞き取ることができたか心配になった。祖父はこの頃少しだけ耳が遠くなっていた。
が、祖父には聞こえていたらしかった。
「ヴァッケンローダー伯爵夫人……。私も国に戻って新政府が落ち着き始めた頃に調べた。そう、実在しない伯爵だ」
やはりそうだったのだ。では、一体何者だったのか。やはり女吸血鬼なのか。
「あれはゲマルン帝国、いや当時はロプセン王国といったな、そこの間諜だ」
間諜、すなわちスパイのことである。
「当時、ロプセンは他の諸国同様に我が国と外交関係を結んでいたものの、恵添を植民地にしようと画策していた。そのために留学生に接触し幕府側の情報を得ようとしたのだろう。石田は利用されそうになったのだ」
「間諜だったのですか」
「エイムズ夫人の隣人の商人は利用されたのだ。あの女の色香に迷い家を貸してしまったのだ。帰国後、エイムズ氏に礼の手紙を送った後届いた返事では、伯爵夫人は我らが下宿を引き払った数日後に、領地で問題があったので帰国すると荷物をまとめて出て行ってしまったそうだ」
夫人が間諜であったというのは衝撃的な話ではある。だが、女吸血鬼ではなかったということに落胆した章子にとって、間諜だったという結論はあまり愉快なものではなかった。
「ロプセンとフロランは幾度も戦争をしている国ゆえ、その後はフロランで間諜をしていたようだ。港に現れたのは、少しは心残りがあったからであろうな。石田は我らの中では顔立ちが優し気であった。間諜であっても情の深い女子であったのであろう。だからこそ、石田も心惹かれたのだろう」
女吸血鬼ならぬ女スパイ。
永遠に死ぬことのできぬ吸血鬼に少々浪漫の香りを感じていた章子に無味乾燥な現実を突きつけた祖父であった。
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