西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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霧の中へ

16 ある夫婦

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 昨夜より遅い夫の帰宅だった。子どもたちはすでに眠っていた。
 お常はすぐにおみおつけと芋の煮物を温めた。
 食べ終わると夫は膳の向こうに座る妻をまぶしげに見た。

「おいしかったよ。ありがとう」

 昨晩と同じ夫の言葉にお常はとまどった。

「どういたしまして」

 それだけ言って膳を片付けにかかった。茶碗を洗いながら、お常はそういえば祝言の翌朝に同じことを言われたと思い出した。あの時、自分は何と答えだろうか。思い出せなかった。けれど、その日以来昨夜まで礼を言わなかったことを思うと、もしかするとひどいことを言ってしまったのではないかと不安になった。



 床に先に入っていた夫の枕元に座り、お常は小さな声で尋ねた。夫は向こうを向いている。

「ずっと前にも、ご飯を食べた後にありがとうっておっしゃいましたね」
「ああ」

 夫も覚えていたらしい。

「私、その時なんて答えたか、覚えてらっしゃいますか」
「当たり前のことだから御礼はいらないと」

 そうだった。そんなふうに答えたような気がする。今思えば、なんだか可愛げのない答えである。その答えゆえに夫はこれまでありがとうと言わなかった。そのことがひどく悔やまれた。
 だが、一体何故、今になって言うのか。お常は尋ねようかと思ったが、先に夫が口を開いた。

「あの頃の私はおまえと同じように、食事が朝夕出てくるのを当たり前だと思っていた。でもね、当たり前と思っていることは本当は当たり前じゃないんだ。おまえが飯を炊いてくれる、服を支度してくれる、部屋を整えてくれる、どれも有難いことだ」

 これまで言われたことのない言葉だった。お常は胸が熱くなると同時に、なにかしら不吉な感じを覚えた。いつもの夫と違うような気がした。
 けれど、それを言葉に出すと、今の胸の高鳴りが消えてしまうように思われた。
 夫は身体の向きを変え、こちらを見た。いつもと変わらぬよく整った顔だった。結婚後、妹には勿体ない婿でと兄が親戚に言っていたのを思い出す。

「おいで」

 夫が掛け布団を少し上げた。お常は夫の横に身を滑らせた。
 一瞬触れた夫の手に冷たさを感じた。

「湯たんぽを」

 言いかけた言葉は夫の唇に遮られた。抱き締める腕の力に逆らえなかった。
 ふだんなら明日もお忙しいからと拒むのだが、拒めなかった。お常は冷たい夫の身体を受け入れた。
 いつものように夫は行為の最中、あまり話をしなかった。けれど、愛撫はいつもより丹念だった。いつもなら鬱陶しく面倒に思う愛撫だったが、お常は声を抑えながらも快感を覚えていた。
 交合は一度で終わった。いつもなら仕事を一つ終えたような気分なのだが、なぜか物足りないような心持ちになり、お常は自分でも不思議だった。
 
「ありがとう、お常」

 事が終わった後、お常は夫の声を聞いたような気がした。



 いつもならお茶のお湯が沸く頃に夫は起きてきて、お茶を自分で入れる。だが起きて来る気配がない。
 きっと昨夜の疲れだろうと思い、もう少しだけ寝かせてやろうとお常は起こしに行かなかった。
 朝食の支度を終えても夫は起きて来なかった。
 寝室に行くと、夫はまだ眠っていた。
 声をかけた。だが、返事はない。胸騒ぎがして、口に顔を近づけた。
 舅の時と同じだった。舅も朝起こしに行ったら事切れていた。
 お常はしばし呆然となった。
 末っ子がご飯まだあと台所で騒いでいる。
 お常は座ったまま夫に一礼した。



 呼ばれた医者は睡眠中に心臓の発作が起きたのが死因だろうと言った。
 仮通夜をその夜行ない、本通夜と葬儀は自宅ではなく、石田家本家の所領のあった東興郊外の屋敷で行われた。
 東興から離れた町まで本通夜に来た友人達は口々に眠っているようだと言った。
 出棺にあたり棺の蓋に釘を打った時、さすがにそれまで張り詰めていた気持ちがぷつりと切れた。お常は夫の死後初めて泣いた。
 初七日を終えたお常は住んでいた家を出て子を連れて兄の屋敷に身を寄せた。幾三郎の両親も兄弟もすでに皆鬼籍に入っていたからである。
 だが、ほどなく兄の事業が傾き、兄一家は屋敷を出た。お常は兄が借家として持っていた家の一つに移り住み仕立物や近在の農家の手伝いをして糊口をしのいだ。だが、さすがに男子三人を養うのは苦しかった。そんな時に亡き夫の友人の内川桐吾が養子の口を探してくれた。内務省に勤める肱岡という役人で娘の婿になることが条件だった。娘とちょうどいい年まわりであった次男は養子に入り大學を卒業後、外務省に入り肱岡の娘と結婚した。
 長男は大學卒業後、実業界に入りお常の兄の会社を再興させ社長となった。三男は物理専門学校を出て中学の教師となった。
 長男が自分の建てた屋敷に母を引き取り、安楽な生活をと思っていた矢先、お常は風邪をこじらせて二日ほど寝付いた後亡くなった。
 享年五十六。夫幾三郎の死の十七年後の霧深い晩秋のことである。



 生前の彼女を知る人々は口々に観音様のような人だったと語った。
 三人の子を抱え苦しい生活の中でも、困った人がいれば味噌醤油を貸すのは当然のこと、自分と同じような夫を亡くした境遇の女性がいれば子どもの食事の面倒を見ることもあった。また生地代だけで子どもの着物を仕立てたこともあった。後で聞けばその生地代も実際に買った値よりもずっと安かった。
 苦しい生活なのになぜそんなことをするのかと学生だった長男に尋ねられると、彼女はこう答えたという。

「この世で自分さえよければという生き方をしていたら、浄土に参った時に父上に顔向けができないではありませんか」

 長男はこの言葉を生涯忘れず、子孫たちにも伝えた。



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