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霧の中へ
12 刺客
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昼前になって、足音が近づくのに気付いた。一人だけではなく続いて数人の足音がした。恐らくホテルのボーイにドアを開けさせて、その後から攻撃するつもりなのではないかと思われた。
カールは寝室のドアを叩いた。
「奥様、来ました」
「わかったわ」
間髪おかずに声がしたところを見ると、カロリーネは目覚めていたらしい。
ノックの音がした。
カールは背広に隠したピストルに手を掛けてドアに近づいた。ドアの向こうから声が聞こえた。
「ムシュー・ヴィダル、石田幾三郎です」
一番来て欲しくない人間だった。
「石田様ですか」
寝室に聞こえるような声量で答えた。
「はい」
「お一人ですか」
「……ええ」
やはり他にもいるらしい。やや間を置いた返事でカールは察した。嘘のつけない御人なのだ。恐らくそれゆえに彼は生きづらさを感じているのかもしれない。だが、人は辛くても死ぬまでは生きねばならない。
カールはカロリーネが部屋を出てテーブルのバリケードの陰に入ったことを確認すると、ドアを開けた。
「どうぞ、石田様」
予想に反し、入って来たのは幾三郎一人だった。幾三郎は中に入るとドアを閉めた。手には何やら細長い風呂敷包を持っている。
カールはドアが開いた瞬間匂いで近くにあと二人いると判断した。独特の匂いで一人は西洋人の教会関係者だとわかった。恐らくある程度時間がたっても幾三郎が出て来ない場合は、彼らが押し入って来るに違いない。
石田幾三郎はテーブルやソファ、棚が通常の形で置かれていない部屋を見回した。テーブルは四本の足が見えない形で横に倒され、棚は本来の位置からずらされて部屋の真ん中に置かれている。ソファはその斜め後方に置かれていた。
「これは」
「お客様をお迎えする準備です」
カールはカロリーネの隠れるテーブルが見えない位置に立ち、幾三郎を見下ろした。
「今日はお話があって参りました」
幾三郎がそう言った時、カールはまた別の人間の匂いに気付いた。どうやら天井裏にいるらしい。撒いておいたカルトロップをうまくよけたらしい。よもや幕府の時代にいたとかいう忍びというものではあるまいか。
忍びだとすると、彼らは幾三郎とカールの会話を聞いて不審を感じたら何らかの動きをする恐れがあった。それにカロリーネがテーブルの向こうにいることにも気づいているかもしれない。
カールが返事に戸惑っていると、背後でシュッと音がした。
振り返ると、テーブルの陰からカロリーネが姿を現し天井を見つめていた。視線をたどると天井にダガーが半分ほど突き刺さっていた。と、ダガーを伝って天井からポタリと液体が垂れて床の絨毯を濡らした。緋色の絨毯なので色はわからない。天井板には赤黒い小さな染みがついていた。
「邪魔者はおとなしくなった。石田さん、お話を聞かせて」
カロリーネは濡れた絨毯を踏み越えて、カールの隣に立った。
「何のおもてなしも出来なくて申し訳ないけれど」
鎧戸を閉め切って薄暗い部屋の中、カロリーネは微笑んだ。幾三郎は天井裏の出来事を想像したのか、しばし口をつぐんでいたが、ゆっくりと口を開いた。
「マダム・ヴィダル。いえ、カロリーネ、私はあなたを殺しに来ました」
幾三郎は風呂敷包を解いた。
カールは息を呑んだ。薄暗がりの中でもそれが何かはっきりとわかった。
銀のナイフ。吸血鬼を殺すことのできるナイフ。
「これが……」
アラン、ジャック、ジャン、クロードは銀の銃弾で撃たれたが、カロリーネの知る者の中でナイフで殺された者はいない。それだけ銃が普及してきたということなのだろう。ナイフはすでに過去の武器であった。
初めて見る銀のナイフは使用目的を知らねば、美しい芸術作品であった。柄には獅子をモチーフにした紋章が描かれ薔薇の花がそれを飾っていた。刃渡り三十センチほどあり、短剣と言ってもいい。
「これであなたを殺せと。恐らく、私がしくじったら、天井にいた者があなたを」
幾三郎の言葉に、カロリーネはクスリと笑った。
「これ見て。これで私が死ぬと思ったのかしら」
カロリーネは自分の首筋から光る針を抜いた。カールも幾三郎も唖然とした。
「毒らしいものが先に塗ってある。でも、効くわけないのにね。かえって自分の位置を私に教えただけ」
天井から滴り落ちて来る血は止まっていた。
カロリーネは天井に向かって叫んだ。
「そっちから狙うのは無理ってわかったならさっさと引き上げなさい。ボス、いえ首領に正々堂々と来るように伝えて」
カールはもう一人天井裏にいることに気付いた。負傷した仲間を助けに来たらしい。二人分の匂いが遠ざかっていった。
「刺客はあなただけじゃなく、他にもいるみたいね。あなたで油断させてっていう腹積もりかしら」
「こっちの考えはお見通しか」
幾三郎は呟いた。
「要するに、あなたは囮にされたのですね」
カールはそう言うと、風呂敷の上に載せられたナイフを風呂敷ごと両手で掴み取った。
あっと叫んだ幾三郎にカロリーネは告げた。
「あなたは私の殺害に失敗した。失敗の責めを負って銀のナイフで自害する、というのがあなたの作った筋書きかしら。その混乱に乗じて私たちを逃がすつもりだった、とか?」
幾三郎は俯いた。
「人はそう簡単に死んではいけない。この国の未来のために過去には多くの人々が血を流している。その人達が生きたかった時代をあなたは今生きている。それなのに、死を願うなんて」
「……あなたのお考えは正しい。ですが、亡くなった人を忘れられぬ人もいる」
幾三郎は込み上げる思いを口にしていた。
「私の妻は恐らくまだ亡くなった兄のことを愛しています。それが証拠に私たちの間には子どもという絆しか存在しないのです。情がないと言われても構いません。私がいくら求めても得られないのです、妻の愛は」
「奥様があなたのことを愛していないと、奥様から直接聞いたの?」
カロリーネは澄んだ目で幾三郎を見つめた。
「いいえ。ただ、結婚して亡くなった兄に申し訳なさを感じていたと妻は言っていました。妻の心には兄が今も住んでいるのです。毎月の兄の命日に妻はいつもより長く仏壇を拝んでいます。口には出さないが、妻は私を憎んでいるとしか」
「僭越ですが、あなた様の御召し物は奥様が用意したものですか」
カールの唐突な問いに、幾三郎はうなずいた。
「ええ。妻の仕事です」
「だとしたら、奥様はあなたを愛しておいでです。袖から覗くシャツの手首の部分が綺麗です。靴もきれいに磨かれている。何より背広もきちんとブラシがかけてある。私は仕事柄、そういうところに目がいくのですが、特にあなた様の御召し物はよくお手入れがされている。奥様が御主人を大切に思っていない場合、御主人の身だしなみに細かい点で粗が見えるものですが、あなたにはそれがない。単なる義務でやっているやっつけ仕事などではありません」
カールの言う通り、幾三郎の身だしなみはきちんとしていた。昨夜もそうだった。カロリーネは胸が苦しくなった。心のどこかで幾三郎が妻から愛されていないことを望んでいた自分に気付いてしまった。別れた男の不幸を願うなんて、最悪ではないか。
幾三郎もまた、カールの指摘に動揺していた。
「余計なことを申し上げました」
カールは慎ましやかにそう言うと、カロリーネを見た。
カロリーネは自分の気持ちはさておいて、言わねばならぬと思った。
「奥様は奥様のやり方であなたを愛しておいでだわ。あなたがそれに気付かないだけで。あなたはここで死ぬべき人ではない。生きていかねばならない」
「生きていかねばならない……」
幾三郎は呟いた。
「ええ。あなたには子どももいる。仕事もある。それに、人は生まれたからには必ず死ぬことになっている。今慌てて死ぬ必要はない。それに、ここであなたに死なれたら、私があなたを殺したことにされかねないんじゃないかしら。ジルパンの、いえ日ノ本の政府は、私たちを排除したいのではなくて? そのためにホテルを取り囲んだり、忍びを天井に忍ばせたり、あなたをよこしたのでしょ」
幾三郎も上司ならそういうことにしかねないと思う。思っていたが、彼は自分がカロリーネを守って死ぬことしか考えていなかった。
「ところで、お時間はよろしいのですか」
カールの問いに幾三郎ははっとした。
そうだ、カロリーネを早くここから逃がさねばならない。時間がないのだと幾三郎は思い出した。
「早く、逃げてください。二十分たっても、私が戻らねば、上司が来ます。神父とともに」
やはりそうかとカールは思った。カロリーネは落ち着いていた。
「つまり、あなたがしくじったということで、今度は銀の銃弾入りの銃でも使うということね。神父なら十字架も持っているでしょうね」
「上司も刀を持っています。あの人は佐津間の出です」
「名前は?」
「上別府左内」
カロリーネとカールは驚きの余り、声も出せなかった。
インガレスやフロランで幾度か顔を合わせており、取引もしている。幾三郎への手紙もアレックスに頼んでウェンビュー宛の手紙に同封していた。昨日の緑明館のパーティではヴィダル夫人と名乗ったカロリーネに特に関心を持っているようには見えなかった。その男がなぜ?
「ご存知なのですか」
「ええ」
味方とは思わないが、ビジネスの上でアレックス達と交流があった。まさか敵に回るとは。
「国が吸血鬼に乗っ取られると言っています」
「ありえない!」
カロリーネは笑いたくなった。吸血鬼は人間に寄生している。彼らが繁栄しているからこそ生きていけるのだ。支配などして何になろうか。人の社会は人のもので、吸血鬼は少しだけ間借りさせてもらっているだけなのに。
ウェンビューはそんなこともわからないのだろうか。もしジルパンを本気で支配したかったら、幕末の動乱に乗じてやっていただろうに。
馬鹿な男だと言いたいが、人はいったん疑心にとらわれると何もかもが信じられなくなるのだろう。神父は言葉巧みに上別府らを籠絡してしまったに違いない。人の心を動かすのは神父の得意技だ。
それとも佐津間の旧主が丸に十字の紋を使っていたからであろうか。神父ならあれを見て神の教えと結びつけるかもしれない。
それはともかく、アレックス・ダドリー達と築いた信頼関係を壊す行ないは裏切りに他ならない。
ウェンビューを許すわけにはいかなかった。
「石田様、そろそろ二十分になります。失敗したとお戻りください。後は私たちでやります」
カールは女主人の考えを代弁した。カロリーネがウェンビューを許すはずがない。返り血を浴びたカロリーネの姿を幾三郎に見せたくはなかった。
不意にカールの嗅覚が不穏な臭いをとらえた。
カールは寝室のドアを叩いた。
「奥様、来ました」
「わかったわ」
間髪おかずに声がしたところを見ると、カロリーネは目覚めていたらしい。
ノックの音がした。
カールは背広に隠したピストルに手を掛けてドアに近づいた。ドアの向こうから声が聞こえた。
「ムシュー・ヴィダル、石田幾三郎です」
一番来て欲しくない人間だった。
「石田様ですか」
寝室に聞こえるような声量で答えた。
「はい」
「お一人ですか」
「……ええ」
やはり他にもいるらしい。やや間を置いた返事でカールは察した。嘘のつけない御人なのだ。恐らくそれゆえに彼は生きづらさを感じているのかもしれない。だが、人は辛くても死ぬまでは生きねばならない。
カールはカロリーネが部屋を出てテーブルのバリケードの陰に入ったことを確認すると、ドアを開けた。
「どうぞ、石田様」
予想に反し、入って来たのは幾三郎一人だった。幾三郎は中に入るとドアを閉めた。手には何やら細長い風呂敷包を持っている。
カールはドアが開いた瞬間匂いで近くにあと二人いると判断した。独特の匂いで一人は西洋人の教会関係者だとわかった。恐らくある程度時間がたっても幾三郎が出て来ない場合は、彼らが押し入って来るに違いない。
石田幾三郎はテーブルやソファ、棚が通常の形で置かれていない部屋を見回した。テーブルは四本の足が見えない形で横に倒され、棚は本来の位置からずらされて部屋の真ん中に置かれている。ソファはその斜め後方に置かれていた。
「これは」
「お客様をお迎えする準備です」
カールはカロリーネの隠れるテーブルが見えない位置に立ち、幾三郎を見下ろした。
「今日はお話があって参りました」
幾三郎がそう言った時、カールはまた別の人間の匂いに気付いた。どうやら天井裏にいるらしい。撒いておいたカルトロップをうまくよけたらしい。よもや幕府の時代にいたとかいう忍びというものではあるまいか。
忍びだとすると、彼らは幾三郎とカールの会話を聞いて不審を感じたら何らかの動きをする恐れがあった。それにカロリーネがテーブルの向こうにいることにも気づいているかもしれない。
カールが返事に戸惑っていると、背後でシュッと音がした。
振り返ると、テーブルの陰からカロリーネが姿を現し天井を見つめていた。視線をたどると天井にダガーが半分ほど突き刺さっていた。と、ダガーを伝って天井からポタリと液体が垂れて床の絨毯を濡らした。緋色の絨毯なので色はわからない。天井板には赤黒い小さな染みがついていた。
「邪魔者はおとなしくなった。石田さん、お話を聞かせて」
カロリーネは濡れた絨毯を踏み越えて、カールの隣に立った。
「何のおもてなしも出来なくて申し訳ないけれど」
鎧戸を閉め切って薄暗い部屋の中、カロリーネは微笑んだ。幾三郎は天井裏の出来事を想像したのか、しばし口をつぐんでいたが、ゆっくりと口を開いた。
「マダム・ヴィダル。いえ、カロリーネ、私はあなたを殺しに来ました」
幾三郎は風呂敷包を解いた。
カールは息を呑んだ。薄暗がりの中でもそれが何かはっきりとわかった。
銀のナイフ。吸血鬼を殺すことのできるナイフ。
「これが……」
アラン、ジャック、ジャン、クロードは銀の銃弾で撃たれたが、カロリーネの知る者の中でナイフで殺された者はいない。それだけ銃が普及してきたということなのだろう。ナイフはすでに過去の武器であった。
初めて見る銀のナイフは使用目的を知らねば、美しい芸術作品であった。柄には獅子をモチーフにした紋章が描かれ薔薇の花がそれを飾っていた。刃渡り三十センチほどあり、短剣と言ってもいい。
「これであなたを殺せと。恐らく、私がしくじったら、天井にいた者があなたを」
幾三郎の言葉に、カロリーネはクスリと笑った。
「これ見て。これで私が死ぬと思ったのかしら」
カロリーネは自分の首筋から光る針を抜いた。カールも幾三郎も唖然とした。
「毒らしいものが先に塗ってある。でも、効くわけないのにね。かえって自分の位置を私に教えただけ」
天井から滴り落ちて来る血は止まっていた。
カロリーネは天井に向かって叫んだ。
「そっちから狙うのは無理ってわかったならさっさと引き上げなさい。ボス、いえ首領に正々堂々と来るように伝えて」
カールはもう一人天井裏にいることに気付いた。負傷した仲間を助けに来たらしい。二人分の匂いが遠ざかっていった。
「刺客はあなただけじゃなく、他にもいるみたいね。あなたで油断させてっていう腹積もりかしら」
「こっちの考えはお見通しか」
幾三郎は呟いた。
「要するに、あなたは囮にされたのですね」
カールはそう言うと、風呂敷の上に載せられたナイフを風呂敷ごと両手で掴み取った。
あっと叫んだ幾三郎にカロリーネは告げた。
「あなたは私の殺害に失敗した。失敗の責めを負って銀のナイフで自害する、というのがあなたの作った筋書きかしら。その混乱に乗じて私たちを逃がすつもりだった、とか?」
幾三郎は俯いた。
「人はそう簡単に死んではいけない。この国の未来のために過去には多くの人々が血を流している。その人達が生きたかった時代をあなたは今生きている。それなのに、死を願うなんて」
「……あなたのお考えは正しい。ですが、亡くなった人を忘れられぬ人もいる」
幾三郎は込み上げる思いを口にしていた。
「私の妻は恐らくまだ亡くなった兄のことを愛しています。それが証拠に私たちの間には子どもという絆しか存在しないのです。情がないと言われても構いません。私がいくら求めても得られないのです、妻の愛は」
「奥様があなたのことを愛していないと、奥様から直接聞いたの?」
カロリーネは澄んだ目で幾三郎を見つめた。
「いいえ。ただ、結婚して亡くなった兄に申し訳なさを感じていたと妻は言っていました。妻の心には兄が今も住んでいるのです。毎月の兄の命日に妻はいつもより長く仏壇を拝んでいます。口には出さないが、妻は私を憎んでいるとしか」
「僭越ですが、あなた様の御召し物は奥様が用意したものですか」
カールの唐突な問いに、幾三郎はうなずいた。
「ええ。妻の仕事です」
「だとしたら、奥様はあなたを愛しておいでです。袖から覗くシャツの手首の部分が綺麗です。靴もきれいに磨かれている。何より背広もきちんとブラシがかけてある。私は仕事柄、そういうところに目がいくのですが、特にあなた様の御召し物はよくお手入れがされている。奥様が御主人を大切に思っていない場合、御主人の身だしなみに細かい点で粗が見えるものですが、あなたにはそれがない。単なる義務でやっているやっつけ仕事などではありません」
カールの言う通り、幾三郎の身だしなみはきちんとしていた。昨夜もそうだった。カロリーネは胸が苦しくなった。心のどこかで幾三郎が妻から愛されていないことを望んでいた自分に気付いてしまった。別れた男の不幸を願うなんて、最悪ではないか。
幾三郎もまた、カールの指摘に動揺していた。
「余計なことを申し上げました」
カールは慎ましやかにそう言うと、カロリーネを見た。
カロリーネは自分の気持ちはさておいて、言わねばならぬと思った。
「奥様は奥様のやり方であなたを愛しておいでだわ。あなたがそれに気付かないだけで。あなたはここで死ぬべき人ではない。生きていかねばならない」
「生きていかねばならない……」
幾三郎は呟いた。
「ええ。あなたには子どももいる。仕事もある。それに、人は生まれたからには必ず死ぬことになっている。今慌てて死ぬ必要はない。それに、ここであなたに死なれたら、私があなたを殺したことにされかねないんじゃないかしら。ジルパンの、いえ日ノ本の政府は、私たちを排除したいのではなくて? そのためにホテルを取り囲んだり、忍びを天井に忍ばせたり、あなたをよこしたのでしょ」
幾三郎も上司ならそういうことにしかねないと思う。思っていたが、彼は自分がカロリーネを守って死ぬことしか考えていなかった。
「ところで、お時間はよろしいのですか」
カールの問いに幾三郎ははっとした。
そうだ、カロリーネを早くここから逃がさねばならない。時間がないのだと幾三郎は思い出した。
「早く、逃げてください。二十分たっても、私が戻らねば、上司が来ます。神父とともに」
やはりそうかとカールは思った。カロリーネは落ち着いていた。
「つまり、あなたがしくじったということで、今度は銀の銃弾入りの銃でも使うということね。神父なら十字架も持っているでしょうね」
「上司も刀を持っています。あの人は佐津間の出です」
「名前は?」
「上別府左内」
カロリーネとカールは驚きの余り、声も出せなかった。
インガレスやフロランで幾度か顔を合わせており、取引もしている。幾三郎への手紙もアレックスに頼んでウェンビュー宛の手紙に同封していた。昨日の緑明館のパーティではヴィダル夫人と名乗ったカロリーネに特に関心を持っているようには見えなかった。その男がなぜ?
「ご存知なのですか」
「ええ」
味方とは思わないが、ビジネスの上でアレックス達と交流があった。まさか敵に回るとは。
「国が吸血鬼に乗っ取られると言っています」
「ありえない!」
カロリーネは笑いたくなった。吸血鬼は人間に寄生している。彼らが繁栄しているからこそ生きていけるのだ。支配などして何になろうか。人の社会は人のもので、吸血鬼は少しだけ間借りさせてもらっているだけなのに。
ウェンビューはそんなこともわからないのだろうか。もしジルパンを本気で支配したかったら、幕末の動乱に乗じてやっていただろうに。
馬鹿な男だと言いたいが、人はいったん疑心にとらわれると何もかもが信じられなくなるのだろう。神父は言葉巧みに上別府らを籠絡してしまったに違いない。人の心を動かすのは神父の得意技だ。
それとも佐津間の旧主が丸に十字の紋を使っていたからであろうか。神父ならあれを見て神の教えと結びつけるかもしれない。
それはともかく、アレックス・ダドリー達と築いた信頼関係を壊す行ないは裏切りに他ならない。
ウェンビューを許すわけにはいかなかった。
「石田様、そろそろ二十分になります。失敗したとお戻りください。後は私たちでやります」
カールは女主人の考えを代弁した。カロリーネがウェンビューを許すはずがない。返り血を浴びたカロリーネの姿を幾三郎に見せたくはなかった。
不意にカールの嗅覚が不穏な臭いをとらえた。
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