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霧の中へ

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「どうも妙な匂いがする」

 舞踏会からホテルに戻ると、カールはそう言ってロビー周辺を見渡した。
 カロリーネもまた、背後に時々視線を感じていた。
 部屋に入ると、ドロレスが不安げな顔で二人を迎えた。

「この部屋を見張っている者がいると、この辺りの鴉が教えてくれました」

 やはり何者かにマークされているらしい。

「宿を変えましょう」

 カールはそう言うと、最低限必要なものだけをクローゼットから出してカバンに詰め始めた。
 カロリーネは止めなかった。

「トラヴィス達から何かなかった?」
「いえ」

 嫌な感じがする。カロリーネは動きやすいドレスに着替えた。頭をすっぽり隠すフードのついたコートをクローゼットから出した。
 ドロレスにトラヴィスのところへ行くように命じた。

「今の住まいを出て隠れ家に行くようにと。あなたもそのまま隠れ家に行っていいから」
「よろしいのですか」
「別々に行動した方が身軽だから。テレーズを乗せてもらうと助かるわ」
「かしこまりました」

 ドロレスは部屋を出て階段を上り屋上に出ると鴉に身を変え、トラヴィスの住まいへと飛んだ。
 だが、一時間もしないうちにドロレスは戻って来た。蒼ざめた顔をしていた。

「トラヴィスの住まいのあたりにやたら警官がうろついてて、鴉や猫や犬を捕まえてました。私も矢で狙われたので逃げて来ました」
「よく無事で。それだけの騒ぎになってるなら、トラヴィス達も逃げてるはず」

 そう言ったもののカロリーネは衝撃を受けていた。鴉や猫、犬は一般的に使い魔によく使われる。それを知っている者がこの国の中にいて、警察を動かしているということだ。彼らはトラヴィスとテレーズを捕えようとしている。今もこのホテルのこの部屋を見張っている者を動かしているのも同じ者だろう。
 これまでも教会や関係者の襲撃から幾度も逃れて来たが、警察という国の権力を行使できる者まで使ってというのは初めてだった。
 幾三郎のことが気にかかった。彼は役人である。舞踏会でカロリーネと踊ったのを見ている者もいるはずである。当然、警察を動かせる立場の人間なら幾三郎に接触してもおかしくない。幾三郎もまた危険にさらされているに違いない。
 さてどうしたものか。今ここを皆が身を変えて出て行ったらどうなるか。カールは北ミャーロッパ生まれの大型犬だから目立ってしまう。鴉も蝙蝠も吸血鬼の眷属とされているから狙われかねない。

「あっ!」

 ドロレスが部屋の隅を見て叫んだ。

 カロリーネも気付いた。薄汚れた白い鼠がこちらを見つめていた。

「テレ―ズ!」

 鼠はうなずくように首を振った。カロリーネは鼠に近寄りまじないを口にした。すぐにお照の姿になった。

「奥様、大変です」

 カールから渡されたタオルを使うよりも先にテレーズは、自分達の身に起きたことを語った。



 夕飯を食べて、そろそろ寝ようかっていう時に、長屋の差配さんが来ました。でも足音が一人じゃないんで、トラヴィスはおかしいって言って、私はすぐに天井裏に隠れられるように奥に行きました。
 案の定、戸を開けたら差配さんだけじゃなく巡査が二人いました。
 巡査は月地の宿に泊まっている外国人の女性のことで聞きたいことがあるから、署まで来てくれと言いました。それも奥さんも一緒にと。トラヴィスは機転を利かせて、女房は向島の姉のところに手伝いに行って今夜は帰らないと答えました。そしたら、向島のどこだと巡査が訊くので回向院の裏の長屋とか適当なことを答えて時間を稼いでくれましたので、私は姿を変えて天井裏に隠れておりました。
 ところが、巡査は女房の姿を夕方見た者がいると言い出しまして、家に上がり込んで布団やら何やらをはいで家探しを始めました。天井の羽目板のずれに気付くのも時間の問題なので、私はかねて逃げ道にと思っていた空き部屋になってる部屋まで行き、壁の穴から逃げました。
 外へ出て驚きました。あっちこっちに警棒を持った巡査がいて、猫や犬が通りかかると捕まえて竹のカゴに放り込んでました。鴉も罠を仕掛けて網で捕まえてました。ちょっとこれはおかしいと思いました。まるで使い魔に犬や猫や鴉がいることを知ってるみたいで。とにかくこれは早く奥様にお知らせしなければと思って、こっちにまっすぐどぶを通って参りました。
 トラヴィスのことですから、なんとかうまく逃げおおせてると思いますが。



「奥様、これはどう考えても教会が絡んでいます」

 カールの言う通りだろう。吸血鬼が使い魔を使うことを教会の関係者なら知っている。しかも警察も関わっている。

「ドロレス、テレーズ、あなた達はすぐに隠れ家へ行きなさい。私たちが人の姿をしている限り、警察は私たちを人として扱うはずだから、心配しなくていい。それにこの国にいる教会関係者はごく少人数」

 十分後、小さな鼠を背中に乗せた鴉がホテルの屋上から飛び立った。彼らが向かったのはホテルからさほど離れていない大寺院の門前だった。





 さて、寅吉ことトラヴィスはどうなったのか。

「おい、女房はどこに逃げた?」

 奥の部屋を調べ終わったいかつい顔の巡査は叫んだ。
 おいと言うところを見ると、佐津間の出らしい。

「旦那、さっき言ったじゃありやせんか、向島だって」
「夕方に女房を見たもんがおるんだぞ」
「隠すとためにならんぞ」

 巡査二人の大声に差配は震えあがった。だが、寅吉は平然とした顔である。

「まあ、旦那。あっしが行けば話がすむんでしょ。その、なんとかっていう異人の女のことなんぞ知りやせんが」
「知らぬだと。白を切るな!」
「おおっ、こわ! さあ、旦那お縄をかけてくだせえ。黙ってついてきますから」

 言われるまでもないと、巡査は寅吉に縄をかけた。

「いやあ、旦那うまいですねえ。ガキの頃に八丁堀の旦那が盗人をしょっぴいてくとこを見たが、旦那の縛り方のほうがうめえや」
「いい加減に黙れ。口の減らぬ奴だ」
「差配さん、すぐ戻ってきやすから。お照が戻って来たら、心配しなくてもいいって伝えてくだせえ」

 巡査は仕方なく寅吉だけを伴って長屋を出た。先ほどまで巡査の大声に怯えて家の中で震えていた長屋の者達は、皆戸を開けて寅吉を見送った。

「何かのまちげえじゃねえか」
「お照さん、どこ行っちまったんだろうね」
「あ、明日、魚どうしようか」

 魚の棒手振りをしている寅吉からいつも魚を買っているおかみさん達は顔を見合わせた。

「今朝多めに買った干物が残ってるから、上げるよ」
「いいのかい、すまないねえ」
「いいって、いいって。困った時はお互い様さ」

 そうは言ったものの、気前のいい魚屋夫婦のことが皆気掛かりだった。半年ほど前に長屋にやって来た寅吉・お照夫婦は売れ残った魚だからと格安で魚を分けてくれて、皆助かっていた。

「早く戻って来てくれるといいけど」
「なあに、すぐ戻ってくらあ」
「さっき、空き部屋の壁の穴から鼠が出て来るのを見たんだよ。寅吉っつぁんに鳴き真似してもらわなきゃ」
「鼠がいたのか、そりゃやべえ」
「寅吉っつぁんの猫真似は天下一品だもんな。猫八を食っちまうぜ」
「そりゃ、トラだからな」

 彼らはそんなことを言いながらそれぞれの住まいに戻った。明日も朝が早いのだ。



 警官は一人が寅吉の縄を持ち、一人が先を歩いて近くの交番へ向かった。
 長屋のある裏通りから出た時だった。縄を持った警官は急に縄が軽くなったように感じて振り返った。

「んんん!?」

 寅吉の姿はなく、茶トラの猫が縄を銜えていた。

「ヤス猫か」

 彼らの故郷佐津間では茶トラの猫をヤス猫と言う。
 警官二人は顔を見合わせた。寅吉という魚屋が縄抜け名人だなどという話は聞いていない。
 猫は銜えていた縄を口から離しニャッと鳴くと、暗い裏通りに向かって駆けて行った。
 警官らは慌ててそのあたりを探し回った。だが、大人一人が逃げたにしては足音も気配もないから、見つかるはずもなかった。

「どうした」

 そこへ上官がやって来た。寅吉・お照夫婦を捕まえて来るはずが時間がかかり過ぎだと様子を見に来たのだ。
 二人は経緯を説明した。
 上官は叫んだ。

「それだ。そのヤス猫だ!」
「はあ?」

 二人の警官はわけがわからなかった。が、上官は少しだけ上のほうから情報を得ていた。

「寅吉というのは猫の化身らしいのだ」
「はあ? 化け猫ですか」
「化け猫ではないが、そのたぐいだ。人心を惑わすから逮捕するのだ」

 この明慈の世に化け猫とは胡乱うろんな話だったが、上官の命令では仕方ない。

「では猫を捕まえてきます」

 そう言った警官の目の前を茶トラの猫が横切った。

「いた!」

 警官は猫を追って走り始めた。
 ニャアアア。上官の背後で猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、そこにも茶トラの猫がいた。

「捕まえろ」

 上官の命令でもう一人の警官が猫を追った。と、今度は屋根の上を茶トラの猫が歩いていた。上官はサーベルを振り回しながら屋根に向かって叫んだ。

「尋常にお縄につけ」

 猫は無視して歩き続けた。さらに上官の足元に別の茶トラの猫がやって来た。

「おい、おまえか」

 猫は返事をするはずもなく、靴に額を擦り付け始めた。

「おい、こら」

 猫を捕まえようと手を伸ばすと、猫は勢いよく前脚でひっかいた。

「いたっ!」

 痛みに思わずのけぞって尻もちをついた上官は、息を呑んだ。
 彼の目の前に猫たちが大波のように押し寄せてきたのだ。茶トラが一匹、二匹、三匹……、数えるのもあほらしくなるほどに。
 猫を追いかけまわしていた警官達も上官の叫び声で異変に気付き振り返った。
 猫猫猫猫猫猫猫猫……。
 茶トラ・サバトラ・キジトラ・サビ・三毛・白・黒・ブチ・ハチワレ……。
 警官達がその後に続く。捕まえて竹かごに入れていた猫や犬が一斉に逃げ出したのだ。
 犬に追われるように猫たちは走っていた。走って走って警官達を振り切り、どこまでも逃げていく。人間を飛び越え、踏みつけて。
 警官達は猫の群れと犬が通り過ぎるまで身動きがとれなかった。
 逃げた鴉が嘲るように鳴いて飛び去った。




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