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霧の中へ
8 情と愛と
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「私は妻にとっては許婚者の仇と言ってもいい政府に仕えているのです。妻にとっては不本意な結婚だったことでしょう。私も許婚者が病死していましたので、両家の家族で縁組を決め、私たちは言われるがままに結婚しました。けれど、妻にとってはさぞやつらいことだったのではないかと思うのです」
幾三郎の言うこともわかる。けれど、子が三人もいるという事実は重い。子を持てない吸血鬼だからこそわかるのだ。
「あなたが死んだら、子どもたちは父親を失うのよ。酷いことだわ」
「ええ。しかしながら、石田の家は残ります。長男が家督を継いでくれるでしょう」
家。ジルパンの人間が命よりも大事にしているもの。カロリーネもそれは知っている。だからこそ、約五十人の男達は家を取り潰された主君のために戦ったのだ。
けれど、すでに幕府の時代は終わっている。ジルパンは近代化への道をひた走っている。それなのに、家という。カロリーネは幾三郎の中に近代的自我と伝統的な家についての考え方が同居していることに驚かざるを得なかった。
「よくよくお考えになったほうがいいわ。私だって、血を吸って人を不幸にしたいとは思わない。奥様のお気持ちを考えてください」
「貴女はまことの淑女なのですね」
淑女でなくとも、同じ女である妻の気持ちは想像できる。長い間一緒にいて子どももいれば情は湧こう。たとえ夫が仇敵であった政府の役人であったとしても、死別はどれほどつらいことか。
それがわからぬはずの幾三郎ではあるまいに。
「人には情というものがあるはず」
カロリーネはわざとジルパンの言葉を使った。
「あなたには情がないのですか」
敢えてきつい調子で言った。幾三郎には人としての幸せを全うして欲しかった。彼を自分の人生に巻き込みたくはなかった。
幾三郎は何も言わず、カロリーネを見つめた。
「私は大勢の人間を見て来た。今はつらくとも、時間が解決してくれる。一時の気の迷いで奥様や子どもを悲しませてはいけない」
「一時の気の迷いではありません。結婚してからずっと私は悩んできました。最近になってやっと気付きました。私が妻に求めるものと妻が夫に求めるものが違うのだと。家の存続のために結婚し子を成しましたが、私の求めるものは違ったのだと。私は愛の絆が欲しかった」
幾三郎がこれまで妻子との間に培ってきたものこそ、愛ではないのか。それはカロリーネには決して得られない種類の愛だった。
だが、今の幾三郎には理解されないだろう。カロリーネは決意した。
「私はあやかしです。でも、あなたのような人間を軽蔑します。あなたは人としての責任を放棄しようとしている」
「カロリーネ!」
ダンスの曲が変わった。
「では最後だと思って踊ってください」
幾三郎はすがるようにカロリーネの手をとった。
「最後ですよ」
冷ややかな声だった。フロアに二人して戻り、何も言葉を交わさずワルツを踊った。悲しみも喜びもなく、カロリーネはただ踊った。幾三郎には家族とともに生きていて欲しい。ただそれだけだった。
「Au revoir」
曲が終わると、カロリーネはさっと手を離した。幾三郎を突き放すかのように。
すぐに別の男性が誘う。その手をとってカロリーネはダンスフロアの花になった。
その後、幾三郎は大臣のそばに控えて通訳をした。もっとも大臣はフロラン語もインガレス語も堪能なので、よほど複雑な内容でない限りは通訳を必要とはしなかったが。
舞踏会が終わった後に客を誘導した。その中にヴィダル夫妻の姿はなかった。恐らく姿を変えて出て行ったのだろうと幾三郎は思い、家路についた。
内川桐吾と歩きながら、幾三郎の心は揺れていた。カロリーネの非難は間違ってはいない。彼女は正しい。人ではないのに、人の生きるべき道を知っている。
けれど、幾三郎には選べない生き方だった。
カロリーネの同意が得られなかったことにより、彼女の手にかかることは諦めねばならなくなった。やはり一人で静かに逝くしかあるまい。
内川はヴィダル夫人がカロリーネに似ていたとそちらに話題を振ろうとするので、幾三郎は「わからぬ」と言って話を切り上げた。後は、差し障りのない高官らの噂話をしながら歩いた。
分かれ道で、幾三郎は内川と会うのはこれで最後になるかもしれぬと思った。
「それでは、また」
内川は右手を上げて挨拶した。
幾三郎は立ち止まった。
「どうもありがとう。さようなら」
深々と頭を下げた。これが精一杯の別れの挨拶だった。
家ではお常が待っていた。子どもたちはすでに眠っていた。
緑明館で仕事がある時はあまり食事がとれないので、夕飯を用意するのはいつものことだった。幾三郎は温めたおみおつけと焼魚と飯を食べた。
食べ終わって膳の向こうに座る妻を見た。所帯やつれという言葉の通りに、少し疲れの見える顔だった。
「おいしかったよ。ありがとう」
結婚の翌朝に同じことを言った時のことを思い出した。
あの時、妻は頬を赤らめながら、当たり前のことだから御礼はいりませんと俯いていた。
今、妻はその時とは違い夫をじっと見つめた。
「どういう風の吹き回しですか」
そう言うと、膳をさっと片付けにかかった。確かにそう言われても仕方なかった。妻にこれまでありがとうなどとほとんど言ったことがないのだ。
寝室でも幾三郎は妻の床に入ろうとしたが、今夜はお帰りが遅かったのですから明日のお仕事に障りますと言われた。
結局、幾三郎は妻と名残りを惜しむことはできなかった。
幾三郎の言うこともわかる。けれど、子が三人もいるという事実は重い。子を持てない吸血鬼だからこそわかるのだ。
「あなたが死んだら、子どもたちは父親を失うのよ。酷いことだわ」
「ええ。しかしながら、石田の家は残ります。長男が家督を継いでくれるでしょう」
家。ジルパンの人間が命よりも大事にしているもの。カロリーネもそれは知っている。だからこそ、約五十人の男達は家を取り潰された主君のために戦ったのだ。
けれど、すでに幕府の時代は終わっている。ジルパンは近代化への道をひた走っている。それなのに、家という。カロリーネは幾三郎の中に近代的自我と伝統的な家についての考え方が同居していることに驚かざるを得なかった。
「よくよくお考えになったほうがいいわ。私だって、血を吸って人を不幸にしたいとは思わない。奥様のお気持ちを考えてください」
「貴女はまことの淑女なのですね」
淑女でなくとも、同じ女である妻の気持ちは想像できる。長い間一緒にいて子どももいれば情は湧こう。たとえ夫が仇敵であった政府の役人であったとしても、死別はどれほどつらいことか。
それがわからぬはずの幾三郎ではあるまいに。
「人には情というものがあるはず」
カロリーネはわざとジルパンの言葉を使った。
「あなたには情がないのですか」
敢えてきつい調子で言った。幾三郎には人としての幸せを全うして欲しかった。彼を自分の人生に巻き込みたくはなかった。
幾三郎は何も言わず、カロリーネを見つめた。
「私は大勢の人間を見て来た。今はつらくとも、時間が解決してくれる。一時の気の迷いで奥様や子どもを悲しませてはいけない」
「一時の気の迷いではありません。結婚してからずっと私は悩んできました。最近になってやっと気付きました。私が妻に求めるものと妻が夫に求めるものが違うのだと。家の存続のために結婚し子を成しましたが、私の求めるものは違ったのだと。私は愛の絆が欲しかった」
幾三郎がこれまで妻子との間に培ってきたものこそ、愛ではないのか。それはカロリーネには決して得られない種類の愛だった。
だが、今の幾三郎には理解されないだろう。カロリーネは決意した。
「私はあやかしです。でも、あなたのような人間を軽蔑します。あなたは人としての責任を放棄しようとしている」
「カロリーネ!」
ダンスの曲が変わった。
「では最後だと思って踊ってください」
幾三郎はすがるようにカロリーネの手をとった。
「最後ですよ」
冷ややかな声だった。フロアに二人して戻り、何も言葉を交わさずワルツを踊った。悲しみも喜びもなく、カロリーネはただ踊った。幾三郎には家族とともに生きていて欲しい。ただそれだけだった。
「Au revoir」
曲が終わると、カロリーネはさっと手を離した。幾三郎を突き放すかのように。
すぐに別の男性が誘う。その手をとってカロリーネはダンスフロアの花になった。
その後、幾三郎は大臣のそばに控えて通訳をした。もっとも大臣はフロラン語もインガレス語も堪能なので、よほど複雑な内容でない限りは通訳を必要とはしなかったが。
舞踏会が終わった後に客を誘導した。その中にヴィダル夫妻の姿はなかった。恐らく姿を変えて出て行ったのだろうと幾三郎は思い、家路についた。
内川桐吾と歩きながら、幾三郎の心は揺れていた。カロリーネの非難は間違ってはいない。彼女は正しい。人ではないのに、人の生きるべき道を知っている。
けれど、幾三郎には選べない生き方だった。
カロリーネの同意が得られなかったことにより、彼女の手にかかることは諦めねばならなくなった。やはり一人で静かに逝くしかあるまい。
内川はヴィダル夫人がカロリーネに似ていたとそちらに話題を振ろうとするので、幾三郎は「わからぬ」と言って話を切り上げた。後は、差し障りのない高官らの噂話をしながら歩いた。
分かれ道で、幾三郎は内川と会うのはこれで最後になるかもしれぬと思った。
「それでは、また」
内川は右手を上げて挨拶した。
幾三郎は立ち止まった。
「どうもありがとう。さようなら」
深々と頭を下げた。これが精一杯の別れの挨拶だった。
家ではお常が待っていた。子どもたちはすでに眠っていた。
緑明館で仕事がある時はあまり食事がとれないので、夕飯を用意するのはいつものことだった。幾三郎は温めたおみおつけと焼魚と飯を食べた。
食べ終わって膳の向こうに座る妻を見た。所帯やつれという言葉の通りに、少し疲れの見える顔だった。
「おいしかったよ。ありがとう」
結婚の翌朝に同じことを言った時のことを思い出した。
あの時、妻は頬を赤らめながら、当たり前のことだから御礼はいりませんと俯いていた。
今、妻はその時とは違い夫をじっと見つめた。
「どういう風の吹き回しですか」
そう言うと、膳をさっと片付けにかかった。確かにそう言われても仕方なかった。妻にこれまでありがとうなどとほとんど言ったことがないのだ。
寝室でも幾三郎は妻の床に入ろうとしたが、今夜はお帰りが遅かったのですから明日のお仕事に障りますと言われた。
結局、幾三郎は妻と名残りを惜しむことはできなかった。
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