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霧の中へ

5 カロリーネの正体

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 数日後、役所からの帰途、幾三郎は寅吉・お照の長屋へ足を運んだ。お照は買い物に行き留守で寅吉だけがいた。

「石田様、お気が変わりましたか」
「変わったわけではない。ただ、ヴィダル夫人のことを聞きたいのだ。夫人は何のあやかしなのだ。むじなやろくろ首ではないと思うが」

 寅吉はまさかそんな質問をされるとは思っていなかったようで、頭を抱えた。

「それはちょっと」
「では質問を変えよう。おまえたちは何のあやかしだ? この前、行灯を付けた時、目が光ったように見えたのだが。もしや化け猫か」

 寅吉はびくりとした。

「そうか。では夫人も化け猫なのだな。猫又というわけか」
「違います!」

 寅吉は慌てて否定し、幾三郎を見つめた。

「誰にも言わないと約束してもらえますか」
「約束する」

 元より誰にも話す気はない。

「吸血鬼です」
「きゅうけつき?」

 最後の「き」は鬼ということであろう。きゅうけつとは何かわからないが。

「わかりやすく言えば生き血を吸う者です。ヴァンパイアといいます」

 それで合点がいった。首筋に付いた口吸いの痕を見て、エイムズ医師が鼠に咬まれた痕だと思ったのはそういうことだったのかと。彼女は口吸いと思わせて生き血を吸っていたのだろう。
 それにしても幼い頃に異人が生き血を飲んでいると言う年寄りがいたが、赤ワインどころか、西洋には本当に血を吸う者がいたらしい。

「それでは、お前たちも血を吸うのか」
「いえいえ。手前どもは使い魔ですから血は吸いません」

 どうやら吸血鬼の手下ということらしい。「魔」というからには怪しい力を持っていることは間違いあるまいが。

「吸血鬼から多くの血を吸われれば命を失うのだな」
「へい。あ、でも奥様は石田様を死なせようなどとは思っておりませんよ。石田様はこの国の先々に必要な方ですから」
「私が?」

 自分よりも有能な者は大勢いると幾三郎は思っている。

「奥様はただただジルパンに行くことを夢みておいでで。ただ、こちらでは内乱などもありましたので、来ることができなかったのです。手前どもは奥様の命令で、こちらの事情を調べに参りました。なにしろ、西洋では吸血鬼の存在が近頃おおっぴらになってしまって」

 数年前にインガレスの小説家が吸血鬼が出て来る小説を発表していた。ミャーロッパの紳士淑女の間では作り話ということになっているが、吸血鬼の世界では大問題になっていた。弱点が書かれていたためである。教会の力の弱い宸やジルパンへの移住を考える吸血鬼も現れた。というわけで、ジルパンの言語が読み書きできるカロリーネは仲間から相談を受けることが多くなった。カロリーネはジルパンに調査に行くことを決めた。だが、その前に使い魔を潜入させて調査させることになったのである。
 役人生活の長い幾三郎はインガレスの文学界の動向など知る由もなかった。

「ジルパンに行くことが夢か」

 そういえば、カロリーネは我が国の言葉を知っていた。あの頃から勉強し、筆で手紙を書けるようにまでなったのはそういう目的があったからなのだろう。憧れの目で我が国を見る西洋の者が少なからずいるらしいことは知っていたが、幾三郎から見れば、憧れという言葉だけでは済まない実情があるのだが。
 解決しなければならぬ問題は山積している。
 ここは夢の国ではないのだ。

「私も夢の国の人間だと思っておいでなのか」

 自嘲気味に口にすると、寅吉は言った。

「奥様もそこまでお人よしではありませんよ。奥様はこの国の実情をわかっておいでです。近代国家になったように見えて、様々な面で矛盾を抱えていることなど……。それはともかく、私たちは石田様の事情を汲むようにと命じられております。もし、石田様の気が変わったら、それに従うようにと」

 そう言った後、寅吉はじっと幾三郎を見つめた。

「もしや、お気が変わったのですか。吸血鬼だから会いたくなくなったとか」

 行灯をともさぬ部屋の中、寅吉の目は金色に輝いて見えた。

「ああ、気が変わった。会いたい。見るだけでなく話がしたい」
「え?」

 思いもかけない幾三郎の答えだった。

「なぜ、私の血を吸ったのか知りたい。今、何を思っているのかも」
「よろしいんですか」
「よろしく頼む。次第が決まったら、知らせてもらえるか」
「かしこまりました」

 長屋を出ると、外はすっかり暗くなっていた。幾三郎は外套の襟を立てて歩き始めた。
 カロリーネの正体がわかった今、現在の問題をすべて解決する手段の手がかりが見えた気がした。
 兄への申し訳なさを感じながら仇の下で働く男と結婚せねばならなかったお常の思い、幾三郎の結婚生活についての苦悩、その二つを同時に解決するにはカロリーネの力を借りるしかないのではないか。
 もしかすると自分の考えは独りよがりなのかもしれぬ。だが、これは誰かに相談できる問題でもない。
 家々に灯り始めた明かりを見ながら、それぞれの家々にもまたそれぞれの問題があるのかもしれぬと思った。それを解決する手立てはそれぞれが考えるしかないのだ。
 幸か不幸か、幾三郎はその手立てに気付いてしまった。これならば、妻も自分も結婚生活の苦悩から解放されるのではないか。
 幾三郎は自宅にそのまま戻らず、帝國大学で文学の教授をしている蓑田大吾の家に向かった。留学生の中で一番年少だった少年は今や多くの優秀な教え子を輩出している文学者として名を成していた。兄の秀作は数年前にその才を惜しまれ亡くなっていたが、やはり優れた翻訳家であった。
 大吾は幾三郎を歓迎した。うなぎをとると言うので、さすがにそれは遠慮した。

「君はミャーロッパの文化に造詣が深い。あやかしのことを教えて欲しいのだ」
「石田さんがあやかしとは」

 大吾は驚きながらも、書斎の本棚から数冊の書物を取り出した。その中には彼の兄が翻訳したものもあった。



 吸血鬼は銀のナイフや銀の弾丸を受けない限りは死なない。
 日の光に弱い。
 十字架や聖水を恐れる。
 鏡に映らない。

 蓑田大吾に借りたミャーロッパで数年前に出版されたゴシックホラーと呼ばれる小説を読み終わると、幾三郎は寝室に入った。妻はすでに隣の布団で寝息を立てている。
 布団に横になり思う。
 大吾の兄の未完の翻訳も参考にしながら読んだ書物は一見荒唐無稽だが、カロリーネの行動はおおよそ描かれた吸血鬼の行動と一致していた。
 彼女は夕刻以後しか姿を見せなかった。鏡に映らなかった。
 十字架と聖水についてはわからない。だが、幾三郎は教会の信徒ではないから十字架を持っていない。だからこそ近づけたのかもしれない。
 銀についても確証はない。大体、銀というのはナイフや弾丸の材料になるのであろうか。銀は貨幣として使われていた。それだけ貴重なものだからこそ、吸血鬼の息の根を止めることができるということかもしれない。
 それはともかく、寅吉の言葉通りなら、カロリーネは吸血鬼であり神の摂理に反した者である。近頃は居留地に教会が建てられ、外国人神父も来日している。彼らと遭遇する危険もある。それなのにやって来るカロリーネは、この国にそれほど魅力を感じているということなのか。
 危険を冒してやって来るカロリーネに、己の我儘を聞いてもらうのは正直心苦しい。だが、彼女の手で生涯を終えることに悔いはなかった。
 自分が死んだら、妻も子も悲しむであろう。だが、妻の苦痛の元はなくなるのだ。許婚者だった兄の仇の新政府に仕える男の妻になったという屈辱を閨で感じることはあるまい。妻の実家は事業をやっていて豊かである。妻と子らを放り出すことはないだろう。
 仕事については多少の悔いはある。けれど優秀な人材は育成されている。自分のように中途半端な留学をした者では役に立てまい。蓑田大吾らは新政府の官費で再び留学してアメロバニアやインガレスの大学を卒業し学問を究めている。生活のため官吏の道を選んだ幾三郎の知識は時代遅れになりつつあった。上司に恵まれているからこその今である。上が変われば将来はわからない。
 カロリーネに血を吸われて死ぬなら本望だった。彼女との甘くほろ苦い恋の思い出に包まれて冥府に旅立つのは悪くはなかろう。切腹して兄のように血塗れで死んだら妻も始末に困るであろう。
 ただ一つ気になるのは、吸血された者も吸血鬼になるという小説の記述だった。
 そんなことがあるのだろうか。
 小説に書かれることには真実も虚構もある。もし真実なら、ミャーロッパやインガレスは吸血鬼だらけになってしまうのではないか。何より自分も血を吸われているのに、血を吸いたいと思ったことなどなかった。虚構と思いたかった。血を吸われて吸血鬼になるなど、冗談ではなかった。死ねないではないか。
 この点についてはカロリーネに確認しておくべきだろう。
 彼女が否定するなら喜んでこの身を彼女に差し出せる。
 だが、肯定されたら……。死ねないとなったら、妻を絶望させることになる。夫があやかしの眷属となったと知れば正常ではいられなくなるだろう。
 その時は別の手段を考えねばなるまい。カロリーネの手を借りずに。となるとやはり切腹か。あるいは川島小太郎の祖父のようにピストルか。
 留学から帰国した日、自宅に戻った川島は祖父が愛戸城明け渡しの日にピストル自殺をしたことを知らされたと言う。身体が不自由で切腹できぬからとピストルを使ったらしい。凄惨な現場を祖母がすべて清め、きちんと葬儀を出したと川島から聞かされた時には、烈婦と言う言葉が浮かんだものだ。
 だが、妻にそんな面倒をさせるわけにはいかない。妻は烈婦というにはあまりにか弱い。何より、ピストルを手に入れねばならない。幾三郎は所持していないのだから。
 すべてはカロリーネに真実を確認してからだと幾三郎は目を閉じた。
 眠りの暗黒に吸い込まれる間際、眠りは死に似ていると初めて感じたのはいつだったかとふと思ったが、思い出すことなく朝まで幾三郎はぐっすりと眠った。



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