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霧の中へ
3 寅吉とお照
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寅吉・お照の住む長屋はすぐに見つかった。長屋の入口には住人の名が書かれた木札がかかっていた。木札に魚屋と書いていたので、腰高障子に魚屋と書かれたものを探すとすぐに見つかった。
「ごめん、寅吉さんはおいでか」
声を掛けるとややあって奥から、はいと声がして頭に手ぬぐいを姉さんかぶりにかぶった女が出てきた。年の頃は三十前後か、瞳の色がやや薄く、色白で魚屋の女房というよりはふた昔前の武家奉公の女中のようだった。
「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか」
「石田幾三郎と申す。ヴィダル夫人からの文を見て参った」
「お待ちしておりました。亭主も間もなく帰って参ります。しばし中でお待ちを」
中はごく普通の作りの長屋の部屋だった。畳の間に上がり、お照が茶を持って来た時だった。
「けえったよ」
その声と同時に戸口が開いた。寅吉だった。
「あんた、遅いよ」
「すまねえ、途中で盛りのついた牝猫にまとわりつかれちまって」
寅吉は年下らしく、お照には頭が上がらないようだった。
「あんたがグズグズしてるから、石田様を待たせちまったじゃないか」
「これは、どうも、すみません」
寅吉はねじり鉢巻きを取って頭を下げた。
「いえ、大して待っていませんので気になさらずに」
「さすがは奥様のお知り合い。寛大なお気持ちいたみいります」
魚屋にしては妙な言葉遣いだと思ったものの、そんな素振りも見せずに茶を口にした。意外にうまい茶だった。
寅吉は桶に入れた魚を女房に渡すと、幾三郎の正面に座った。どうやら持っていた魚のせいで猫に追い回されたらしい。
暗くなってきたので、お照は行灯に火を灯した。その灯りを受けて一瞬、寅吉の目が光ったように見えた。
もしかすると、寅吉、いやお照もカロリーネの眷属のあやかしかもしれぬと思った。
「旦那のお名前と勤め先をお教えください」
「石田幾三郎。文部省に勤めている」
「お宅は」
「小路町だ」
「間違いありませんね」
どうやら、寅吉は幾三郎の素性をすでに知っているようだった。
「石田様はヴィダル夫人にお会いしたいんですね」
「さよう。一目顔を見るだけで構わぬのだ。話は出来なくともいい」
寅吉は怪訝な顔になった。
「見るだけでよろしいんで?」
「ああ。私は年をとってしまった。夫人は今も若いままなのだろう。こんな男の顔など見たくはあるまい」
「だけど、話くらいしたってバチは当たりませんぜ」
いつの間にか寅吉の横に座っていたお照もうなずいていた。
「そうですよ。奥様も楽しみにしておいでなんです」
「私なんぞと話しても楽しくはあるまい」
寅吉はうーんとうなった。
「石田様、ここへおいでになったのは、幸せではないからでしょう」
一枚目の手紙の最後の言葉を思い出した。
「お顔を見るだけで幸せになれるのですか」
無論、そうは思わない。歳月の長さと今の自分の置かれた境遇を思い知らされるだけだろう。だが、それでも構わなかった。自分はお常の夫であり三人の子の父なのだ。今更カロリーネと話をして何になろう。ただ彼女の姿を見て往時の思い出にわずかでも浸れればそれでよかった。思い出がこれからの味気ない人生を少しは支えてくれるかもしれなかった。
現に他の留学生仲間と顔を合わせれば、インガレスでの留学生活は楽しかったと皆口にする。不快なこともあった、不安もあった。それでも思い出の輝きだけは褪せない。
カロリーネもまた色褪せぬ思い出だった。けれど、現実の暮らしに打ちのめされかけている幾三郎はその思い出を美しい彼女の姿を見て一層麗しいものにしなければ満足できそうになかった。それほど、お常との生活は苦痛だった。情はあるが、愛は失われかけていた。
カロリーネの顔を見るだけで幸せになれるわけではない。だが、少なくとも過去の幸せな時間を記憶に強く焼き付けることはできそうだった。
「幸せになろうとは思っていない」
「おかしな方だ」
寅吉はつぶやいた。
「今の暮らしが大事ってことですね」
お照が言った。
「奥方様とお子様がいればそうもなりましょうね。お気持ちはわかりますよ。もし奥様と言葉を交わしてしまったらと思うと不安なんでござんすね」
図星だった。魅惑的なカロリーネの声を聞けば、なおさら美しい思い出が甦ってそこから抜け出せなくなってしまうような気がした。けれどそれを口に出すわけにはいかなかった。口にすれば認めてしまうことになる。それだけは避けたかった。
「ようござんす。お顔だけを遠目にということで。奥様の乗った船は二週間後に着きます。さように手配しましょう」
「お照、そいつは」
寅吉の声も無視してお照は続ける。
「もし、気持ちが変わったらまたここへおいでください」
「よろしく頼む」
幾三郎は丁重に頭を下げた。
寅吉は旦那、そこまでしなくともと慌てた。だが、お照はそんな実直そうな態度を見て、奥様が今もこの方を思っている理由がわかったような気がした。
家に戻ると、いつものようにお常と子どもたちが迎えた。子どもたちがカバンを持って奥に入って行くとお常が口を開いた。
「どちらへお立ち寄りになられたんですか」
お常は変に勘のいいところがあった。いつもなら帰りが遅くてもこんなことを尋ねることはなかった。
「帰りに猫につきまとわれたのさ」
寅吉の真似をしてみた。お常はにこりともせずにさようでございますかと言っただけだった。
お照と寅吉のやりとりを思い出した。言葉遣いは丁寧ではないが、二人の間に流れる空気は柔かかった。お常にお照のような反応を求めたわけではない。ただ、もっと反応のしようがあるように思う。猫の色や柄を訊くだけでもこちらの心持ちは違うのに。
「ごめん、寅吉さんはおいでか」
声を掛けるとややあって奥から、はいと声がして頭に手ぬぐいを姉さんかぶりにかぶった女が出てきた。年の頃は三十前後か、瞳の色がやや薄く、色白で魚屋の女房というよりはふた昔前の武家奉公の女中のようだった。
「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか」
「石田幾三郎と申す。ヴィダル夫人からの文を見て参った」
「お待ちしておりました。亭主も間もなく帰って参ります。しばし中でお待ちを」
中はごく普通の作りの長屋の部屋だった。畳の間に上がり、お照が茶を持って来た時だった。
「けえったよ」
その声と同時に戸口が開いた。寅吉だった。
「あんた、遅いよ」
「すまねえ、途中で盛りのついた牝猫にまとわりつかれちまって」
寅吉は年下らしく、お照には頭が上がらないようだった。
「あんたがグズグズしてるから、石田様を待たせちまったじゃないか」
「これは、どうも、すみません」
寅吉はねじり鉢巻きを取って頭を下げた。
「いえ、大して待っていませんので気になさらずに」
「さすがは奥様のお知り合い。寛大なお気持ちいたみいります」
魚屋にしては妙な言葉遣いだと思ったものの、そんな素振りも見せずに茶を口にした。意外にうまい茶だった。
寅吉は桶に入れた魚を女房に渡すと、幾三郎の正面に座った。どうやら持っていた魚のせいで猫に追い回されたらしい。
暗くなってきたので、お照は行灯に火を灯した。その灯りを受けて一瞬、寅吉の目が光ったように見えた。
もしかすると、寅吉、いやお照もカロリーネの眷属のあやかしかもしれぬと思った。
「旦那のお名前と勤め先をお教えください」
「石田幾三郎。文部省に勤めている」
「お宅は」
「小路町だ」
「間違いありませんね」
どうやら、寅吉は幾三郎の素性をすでに知っているようだった。
「石田様はヴィダル夫人にお会いしたいんですね」
「さよう。一目顔を見るだけで構わぬのだ。話は出来なくともいい」
寅吉は怪訝な顔になった。
「見るだけでよろしいんで?」
「ああ。私は年をとってしまった。夫人は今も若いままなのだろう。こんな男の顔など見たくはあるまい」
「だけど、話くらいしたってバチは当たりませんぜ」
いつの間にか寅吉の横に座っていたお照もうなずいていた。
「そうですよ。奥様も楽しみにしておいでなんです」
「私なんぞと話しても楽しくはあるまい」
寅吉はうーんとうなった。
「石田様、ここへおいでになったのは、幸せではないからでしょう」
一枚目の手紙の最後の言葉を思い出した。
「お顔を見るだけで幸せになれるのですか」
無論、そうは思わない。歳月の長さと今の自分の置かれた境遇を思い知らされるだけだろう。だが、それでも構わなかった。自分はお常の夫であり三人の子の父なのだ。今更カロリーネと話をして何になろう。ただ彼女の姿を見て往時の思い出にわずかでも浸れればそれでよかった。思い出がこれからの味気ない人生を少しは支えてくれるかもしれなかった。
現に他の留学生仲間と顔を合わせれば、インガレスでの留学生活は楽しかったと皆口にする。不快なこともあった、不安もあった。それでも思い出の輝きだけは褪せない。
カロリーネもまた色褪せぬ思い出だった。けれど、現実の暮らしに打ちのめされかけている幾三郎はその思い出を美しい彼女の姿を見て一層麗しいものにしなければ満足できそうになかった。それほど、お常との生活は苦痛だった。情はあるが、愛は失われかけていた。
カロリーネの顔を見るだけで幸せになれるわけではない。だが、少なくとも過去の幸せな時間を記憶に強く焼き付けることはできそうだった。
「幸せになろうとは思っていない」
「おかしな方だ」
寅吉はつぶやいた。
「今の暮らしが大事ってことですね」
お照が言った。
「奥方様とお子様がいればそうもなりましょうね。お気持ちはわかりますよ。もし奥様と言葉を交わしてしまったらと思うと不安なんでござんすね」
図星だった。魅惑的なカロリーネの声を聞けば、なおさら美しい思い出が甦ってそこから抜け出せなくなってしまうような気がした。けれどそれを口に出すわけにはいかなかった。口にすれば認めてしまうことになる。それだけは避けたかった。
「ようござんす。お顔だけを遠目にということで。奥様の乗った船は二週間後に着きます。さように手配しましょう」
「お照、そいつは」
寅吉の声も無視してお照は続ける。
「もし、気持ちが変わったらまたここへおいでください」
「よろしく頼む」
幾三郎は丁重に頭を下げた。
寅吉は旦那、そこまでしなくともと慌てた。だが、お照はそんな実直そうな態度を見て、奥様が今もこの方を思っている理由がわかったような気がした。
家に戻ると、いつものようにお常と子どもたちが迎えた。子どもたちがカバンを持って奥に入って行くとお常が口を開いた。
「どちらへお立ち寄りになられたんですか」
お常は変に勘のいいところがあった。いつもなら帰りが遅くてもこんなことを尋ねることはなかった。
「帰りに猫につきまとわれたのさ」
寅吉の真似をしてみた。お常はにこりともせずにさようでございますかと言っただけだった。
お照と寅吉のやりとりを思い出した。言葉遣いは丁寧ではないが、二人の間に流れる空気は柔かかった。お常にお照のような反応を求めたわけではない。ただ、もっと反応のしようがあるように思う。猫の色や柄を訊くだけでもこちらの心持ちは違うのに。
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