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霧の中へ

2 手紙

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 かわやの戸を開けると同時に寺の鐘の音が四つを知らせた。近頃は午後十時と言ったりするが、四つという方がわかりやすい。そんな自分は旧式の人間なのだろうと幾三郎は思いながら用を足した。
 厠を出てまっすぐ寝室に戻ろうかと思ったが、気が進まなかった。
 妻のお常との先ほどまでの気まずいやりとりを思い出す。

『明日も早いのですから、もうこれで勘弁してください』

 家事と子どもの世話に明け暮れる妻のことを思えば、引き下がるより他ない。なんといっても留学中に亡くなった許婚者いいなずけの代わりに亡き兄の許婚者だったお常が嫁に来てくれて両親がどれほど喜んだことか。先年亡くなった両親からはくれぐれもお常を大事にせよと言われている。
 それにお常の実家の助力がなければ、武士の商法で失敗した父の残した借財の返済もできなかった。
 そういうわけで、お常に対して幾三郎は強い態度を見せることができない。



 そもそもの始まりは初夜だった。祝言の後の初めての閨で、幾三郎は処女のお常の緊張をほぐすため、念入りに愛撫をしていた。だが、十分もせぬうちに、お常は冷ややかな声で言った。

『早くしてくださいませ。朝は食事の支度がございます。寝坊をしたらお母様に叱られてしまいます』

 その時はまだ男を知らぬからだと思い、幾三郎はお常と一度だけ交わった。
 だが、一緒に暮らし慣れてきたと思っても、閨では相変わらずその調子だった。そのうち懐妊し、長男が生まれた。子どもを産んだばかりの妻は美しかった。医者の許しが出ると、すぐに幾三郎はお常を抱こうとした。だが、お常は気分が悪いのでと断った。それから半年してようやく同じ床に入ったが、お常は相変わらずだった。求めても一度きりしか応じない。反応も薄かった。
 次男、三男が生まれても変わらなかった。
 正直、幾三郎には理解できない。下女もいるから、家事が大変といってもさほど負担になっているようには見えない。子どもの世話にしても、三男も成長して手があまりかからなくなっている。それなのに、夜の求めに応じてくれない。何がいけないのか、幾三郎にはわからない。
 自分の欲求が強過ぎるのかと思ったが、同僚たちの話をもれ聞くとそういうわけでもなさそうだった。中には妻だけでは足らず妾を囲っている者もおり、彼は平等に二人と夜を過ごしているらしかった。
 一人の妻だけと満たされた時間を過ごしたいと願っている自分はさほど欲が深いとは思えない。

 もしや、お常は自分のことを嫌っているのか。だが、お常という女は働き者で、幾三郎のために作る夕食はお常や子どもよりもいつもおかずが一品多い。衣替えもきちんとするし、住まいの掃除も完璧だった。同僚の中には妻が寝坊なので朝飯は自分が作っているという者もいるというのに。
 傍目にはよくできた妻なのだ。もし、こんな妻と別れたいなどと言ったら、幾三郎のほうが非難されるに違いなかった。
 不満は閨の事だけ。贅沢な話と他人は思うかもしれない。だが、幾三郎にとっては大問題だった。夫婦になるというのは生活を共に送るというだけではないと彼は留学中のあれこれで感じていた。下宿先のタッカー夫妻もエイムズ夫妻も仲睦まじく、朝夕の挨拶代わりの口づけを見るたび、二人の間に満たされたものを感じた。そして儚くも終わった恋。かの麗しき人は交情の素晴らしさを身をもって教えてくれた。精神だけでなく肉体の嗜好の一致もまた男女には重要であるということを、幾三郎はカロリーネによって知ったのだ。
 結婚したら、カロリーネを愛したように妻を愛し、エイムズ夫妻のような家庭を作ろうと思った。
 だが、初夜でそれは挫折した。以降、なんとか性愛の愉しみを教えようとしても、お常は拒んだ。月に二度か三度、一回だけの交わりが終わると、さっさと寝間着を着て眠ってしまう。終わった後に語り合うのも趣があると思い、裸のまま抱き締めようとしたことがあったが、風邪を引きますと拒まれた。まさか、そういう行為を好まぬ女がいるとは思わなかった。
 閨の事に関してはすれ違ったままの夫婦だった。それなのに三人子どもがいるから、他人には幸せな夫婦と思われている。
 近頃では幾三郎は諦めていた。長く暮らしているからお常には情がある。三人の子も可愛い。自分さえ我慢すれば皆平穏に暮らせるのだと。
 寝室の襖を開けた。妻はすでに穏やかに寝息をたてて眠っていた。眠りを妨げぬように、幾三郎はそっと隣の床に入った。



 幾三郎は文部省に勤めている。佐津間さつま出身でミャーロッパやインガレスにも留学経験のある大臣は開明的で仕事がしやすかった。幕府の御家人出身の幾三郎のことも名まえを覚えており、省内で顔を合わせれば、インガレス語で挨拶してくる。大臣は公用語はインガレス語にすべきだなどと言うくらいの人物なので、流暢な発音であった。
 直属の上司も佐津間出身で海外事情に詳しかった。幾三郎は彼の秘書的な役割をしていた。


 その日は珍しく定時に仕事が終わった。

「おい、ちょっとよかか」

 上司に声をかけられた。堂々たる体格をしている彼は戦で怪我さえしなければ陸軍の重鎮になってもおかしくないと言われていた。
 今朝出した書類に何か問題でもあったのだろうかと思って机に行くと、封書を渡された。
 これは一体何の文書であろうかと思った。表には石田幾三郎様と墨で黒々と書かれている。

「懇意にしちょるインガレスの商人からの手紙にこれが同封されちょった。貴官宛てじゃ」
「おそれいりますが、これは職務に関係する文書でしょうか」
「うんにゃ、ちごど。こいは私用ということじゃ」

 上司経由で私用の手紙を送ってくる相手にまったく心当たりはない。

「これはインガレスから来たのですか。それとも日本に在住するインガレス人からですか」
「インガレスからじゃ。見事な文字じゃのう」

 ますます差出人は謎である。インガレスで世話になったエイムズ氏とは今でも手紙のやりとりをしている。だが、それは英文でのやりとりである。墨で表書きを書くような知り合いは現在インガレスにはいない。

「さぞや教養ある御仁からの文じゃろう。貴官、よい知り合いを持っとるな」

 呵々と笑って上司はお先に失礼すると言って席を立った。それを潮に他の同僚らも次々と部屋を出て行った。
 一人残った幾三郎は手紙の封を切った。なんとなく家では読みにくかった。妻は当然差出人を知りたがるだろう。もし、今後の夫の出世に関わるようなら、歳暮の手配などと言い出すに違いなかった。煩わしさを想像するだけで家に帰る気がしなかった。
 封筒の中には幾重にも折りたたまれた手紙が入っていた。開くと、表書き同様墨痕鮮やかな文字が書き連ねられており、一目でこれを書いた者の素養が見て取れるようだった。

 幾三郎様 息災に候や

 この一文を見ただけでカロリーネの顔が浮かんだ。もしや。続く文字を目で追った。

 妾のこと 忘れ給ひけるやもしれずと 思ひつつも あれこれと思ひばかりが募り 筆を執ることかなはず この頃 ようやく 落ち着き 筆を執り候 妾の名はカロリーネ 

 信じられなかった。幾三郎は思わず立ち上がった。夕闇迫る窓を見やったが何も変わりはなかった。
 カロリーネ。一日として忘れたことがないと言えば嘘になるが、忘れられぬ女だった。
 文面には別れて以来、ミャーロッパを転々としていることが綴られていた。それをさほど苦にも思っていないようで、各地の風物を詠んだ歌も記されていた。



 これほどの手紙を書くために、どれだけの書物を読み学んだのか、幾三郎は想像し恐ろしくなると同時に、いじらしさも感じた。蝙蝠に化身するようなあやかしの身でありながら、幾三郎に手紙を書くために書を練習したとは。インガレス語で書く事もできるはずなのに。

 もし今幸いに候はば この文はすべて破り捨つべき 

 幾三郎は最後の一文にYesとは返事できなかった。仕事は順調である。上司や同僚にも恵まれている。妻と子どもが三人。今の俸給で下女を雇って暮らしていける。幸福なはずだった。けれど、ただ一つの点で彼は不幸だった。カロリーネと愛し合った記憶だけが彼を支えていた。
 手紙はもう一枚あった。一枚目をめくると今度はインガレス語でペン書きの書面が現われた。

 明日、ジルパンに来月到着する船に乗ります。私の現在の名はアナベル・ローズ・ヴィダル。ヴィダル商会の社長夫人です。勿論、実際に結婚しているわけではありません。
 もし、会ってくださるのなら、以下の住所に住む寅吉とお照という者を訪ねてください。この二人は元は私のところで働いていた者で信用がおけます。

 住所を見れば役所からさほど離れていない。元は御家人の住まいが多くあった場所であり、知らない場所ではなかった。
 迷うことなく、幾三郎は訪ねてみることにした。
 一目だけでもカロリーネに会いたかった。あやかしであればさほど姿形は変わってはいないだろう。ただ一目見て、己の年を省みれば諦めもつくだろう。そして、お常との味気のない暮らしに戻っていくのだ。それが己の運命なのだと幾三郎は思っていた。


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