西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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船出

3 花束を抱き締めて

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 カノンを出た二日後、カロリーネはパロにいた。
 カノンを出発する直前にアレックスから手紙が来たのだ。パロに仕事で来ているので芝居でも見て食事をしようという内容だった。
 カロリーネに否という言葉は無かった。パロにはまだ留学生たちがいた。彼らは船の出発を待つ間、パロで前将軍の弟君とともにいた。もしかしたら姿だけでもと思う己の気持ちがあさましくもおかしかった。確実に会えるわけでもないのに。
 カールにはセルマイユ近郊の山荘に先に行ってもらって準備をさせ、テレーズとトラヴィスを連れてパロに向かった。
 アレックスはカロリーネのためにパロでも指折りのホテルを予約してくれた。隣室には使用人用の部屋もあった。ただベッドが一台しかないので、トラヴィスがそれを使い、テレーズはカロリーネの部屋のもう一台を使うことになった。
 到着したのは夕刻ですぐに支度をしてカロリーネは迎えに来たアレックスと劇場に向かった。
 若手のオペラ歌手を起用した芝居はカロリーネに若さの情熱と可能性を感じさせた。
 芝居がはねた後、アレックスはとっておきの場所があるからと馬車で郊外に向かった。

「ボローニュの森ね」
「ああ」

 懐かしくも悲しい思い出のある場所だった。屋敷から逃げ、クロードが灰になったと知らされた場所。

「ここに最近、レストランができてね。避難場所にしていた樵小屋があっただろ。あの辺りさ」
「まあ」
「地主が死んで相続人が処分したんだ」

 やがて木々の間から灯りが漏れてきた。数台の馬車が停まっているのが見えた。かなりはやっている店のようだった。

「ここのエスカルゴは絶品だ」

 二階建ての店の中に入るとすぐに個室に案内された。こじんまりとした個室で軽いコースメニューを味わっていると、上の部屋の喧騒が聞こえた。

「こんな場所で騒ぐなんて不作法ね」

 そう言った時だった。カロリーネの耳に懐かしい声がかすかに聞こえたような気がした。偶然としても出来過ぎである。

「アレックス、あなた、知っていたのね」

 アレックスはうなずいた。

「例の一件のおかげで海軍のお偉方の知り合いが増えて商売もうまくいってるから、ほんの恩返しだよ」

 恩返しの一言で片づけたのはアレックスらしかった。

「これからどうするかは君の自由さ。なんといってもフロランは自由の国だ」

 アレックスの好意を無駄にすることはできなかった。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 アレックスは表情を変えず、コーヒーを飲み干した。

 店を出た後、アレックスだけ先に馬車に乗って戻った。カロリーネは暗い森の木々の奥で姿を変え、名残りを惜しむ若者達が馬車に分乗したのを確認した。
 聞こえる。幾三郎の声が。蝙蝠の聴覚は馬車の駆ける音だけでなくその中にいる人々の声もとらえるのだ。
 声を頼りに幾三郎の乗った馬車を追う。あれだと気付き小さな窓から見えるようにと馬車の横を同じ速度で飛んだ。窓の中を覗き込んだ。幾三郎らしいシルエットが見えた。その近くに小柄な少年がいて、蝙蝠を指さした。幾三郎の視線に気付いた。ああ、あの方だ。あの方が私を見ている!
 窓が小さいので表情はわからない。けれど、私を見ている!
 カロリーネは飛んだ。力の続く限り。馬車を追った。
 パロの街の中に入るとさすがに目立つので、人目を避けるように建物の上を飛んだ。それでも馬車から視線を外さない。
 馬車は石畳の上を軽やかに走る。やがて大きなホテルの前に止まった。
 同じホテルに泊まっていたとは。アレックスの配慮に笑いたくなった。まったく至れり尽くせりではないか。
 幾三郎の部屋は三階だった。カロリーネは蝙蝠の姿のまま、深夜になるのを待つことにした。
 若者達はしばらく話をしていた。幾三郎の声も聞こえた。カロリーネはその度に胸のうずきを感じた。
 この方をこのまま国に帰してしまいたくない。
 やがて、男達は寝てしまったのか、静かになった。部屋の外でカロリーネは蝙蝠の姿のまま口の先で窓ガラスを突いた。カタンカタンと同じ間隔で突いた。
 けれど、何の反応もなかった。
 ふと、自分の名を呼ばれたような気がしたが、何事も起きなかった。
 一時間以上待った後、カロリーネは自室に戻った。



 アレックスからの連絡があったらしく、テレーズが気を利かせてバスルームの窓を開けてくれていたので、そこから入った。疲れているテレーズを起こすのも悪いと思い、カロリーネは着替えるために静かに寝室に入った。
 ふと見ると、テレーズが寝ているはずのベッドはもぬけの殻だった。
 ぎょっとしてカロリーネは部屋に異変がないか見回した。まさか、吸血鬼を付け狙う輩に襲われたのではあるまいか。が、部屋に特段変わったところはない。トラヴィスはどうししているのかと、カロリーネは使用人部屋に向かった。
 ドアを叩いた。

「トラヴィス、トラヴィス」

 大きな声を出すわけにはいかないので最低限聞こえる声で呼んだ。
 すぐに誰かが起き上がるような気配があって、ドアが開いた。

「奥様、申し訳ありません」

 出て来たのはテレーズだった。髪の乱れに、カロリーネは事情を察した。
 背後の寝台の上ではもぞもぞと動く気配があった。

「テレーズ、どうしたの?」

 呑気な声にカロリーネは笑いたくなった。テレーズの顔は蒼ざめている。

「すぐに着替えて。予定が変わったから支度して」
「はい」

 二人が部屋から出てくると、カロリーネは何があったか聞かずに、明日朝の列車でセルマイユに行くと告げた。
 テレーズは何のために行くのか理解していた。

「かしこまりました。それでは、髪も化粧も一等素晴らしく仕上げてみせます」
「お願いね。それからトラヴィス」

 先ほどから俯いていたトラヴィスは顔を上げた。

「テレーズに恥をかかせてはいけないわ」
「はい」

 トラヴィスの真摯な表情にカロリーネは安堵した。
 二人のことはひとまずこれだけで済ませ、カロリーネはセルマイユに行くことだけを考えた。昨夜の若者達の話からすると、彼らは明日セルマイユ行きの一番列車に乗ってその日のうちに船でフロランを出てしまうらしい。ぐずぐずしてはいられなかった。
 もう我慢できなかった。声を聞き、姿をわずかでも垣間見れば、じっとしてはいられない。
 昨夜見たオペラの情熱的な若い恋人たちの姿を思い出す。若くはないけれど、自分の心の中の炎もまだ消えてはいない。この炎が消えてしまう前に、せめて炎のきらめきをわずかでも見せて別れたかった。



 パロからセルマイユまでの車中、カロリーネは日の光を避けてフードの付いたコートを着て、手袋をして顔はスカーフで覆った。列車のコンパートメントに切符の確認に来た車掌は冬でもないのにと驚いたが、大方南の国の異教徒の婦人であろうと思った。
 セルマイユに着く頃には日は暮れかかっていた。トラヴィスは閉店間際の花屋に駆け込み、真っ赤なバラの花束を作ってもらった。
 市内一のホテルのスイートルームを借りたカロリーネは、テレーズに髪と化粧を委ねた。テレーズの手は巧みに期待に応え、カロリーネの姿を一層艶やかなものにした。
 こんな姿を見たら、ジルパンの男はきっと惜しい事をしたと思って後悔するに違いないとテレーズは思った。



 カロリーネが港に着いた時には出港の時刻になっていた。
 だが、港周辺には霧が立ち込めていた。カロリーネは霧で数メートル先も見えない中を岸壁に急いだ。
 見送りの人々をかきわけて岸壁に立った時、霧がさっと晴れた。
 霧が晴れるのと同時に船の姿が鮮明になった。甲板から名残惜しげに陸を見つめる若者達の中に幾三郎の姿がくっきりと見えた。カロリーネはその姿を目に焼き付けるように見つめた。
 やがて、汽笛が鳴り、船は港から遠ざかっていった。
 
「幾三郎」

 そのつぶやきに応えるように名前を呼ばれたような気がした。



 カロリーネの数メートル背後ではトマス・キャメロンがその様子を見ていた。
 仕事でセルマイユにいたトマスにアレックスから手紙が来たのは数時間前のことだった。カロリーネのために力を貸してくれと書かれた手紙にトマスはまわりくどいことをと思った。
 アレックスという男は高級官僚や軍の幹部と臆することなく渡り合い、一見図太く見えるが、カロリーネのこととなると少年のようだった。いくらクロードからもしもの時は頼むと言われていたとはいえ、こんなことまでお膳立てすることはあるまいに。もし、自分がアレックスの立場なら、とっととカロリーネに手出ししているところだ。トマスには今のところ人間の愛人がいるのでそんなことをする必要はないのだが。
 ともあれ、見送りに遅れそうな婦人のために霧を呼び出すくらいはお安い御用だった。ついでに蝙蝠に身を変え、船まで男の容姿を見に行った。背の低い痩せた優男やさおとこだが、知性を感じさせる瞳をしていた。
 俺のほうが体格がいいし胸毛もあるから、よほど御婦人方には魅力的なのだがと優越感に浸りながらも、カロリーネが惹かれたわけもわかったような気がした。
 似ているのだ。誇り高き吸血鬼であったクロードと。容姿はまったく違うが、気高さや品性はクロードに劣らぬものが感じられた。カロリーネが惹かれるのも無理はあるまい。
 ただ残念ながら、彼は人間である。いずれ寿命が来る。所詮は共に生きることはできぬ。もし、一緒に生きたければ彼の血を吸って命を奪わねばならぬ。人としての幸せを願えばここで別れるしかなかろう。



 船は水平線のかなたに消えた。もはや岸壁には誰もいない。
 カロリーネはバラの花束を見つめた。花束ははかない恋への供物として海に捧げようと思っていた。
 けれど、幾三郎の表情を見た時、海を恋の墓場にするのはやめた。
 あの方は私を見つめていた。そのまなざしに恐怖の色はなかった。蝙蝠に姿を変えたところを見たはずなのに。
 ならば、私も忘れまい。この恋の火を胸に燃やし続けよう。
 カロリーネは花束を抱き締めて水平線に背を向けて歩き始めた。




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