西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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船出

2 オレンジ騒動

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 先週クビになった下働きだとトラヴィスは思い出した。クビになった理由は知らないが、なんとなく嫌な奴だなとは思っていた。

「テレーズに何の用があるんだ」

 ヒューの真似をして低い声で言った。マティアスは無視し、せせら笑った。

「テレーズ、ちょっと付き合ってくれよ」

 付き合うという言葉の意味はトラヴィスにもわかる。そしてテレーズが嫌がっていることも。

「テレーズに近づくな」
「おい、小僧、おまえには関係ない話なんだ。とっとと帰れ」

 マティアスはそう言うが早いか、トラヴィスの肩をこづく。転びはしなかったが、身体の均衡を崩しよろけた。それをテレーズの手が背後で受け止めた。

「ちょっと、何するの! 年下に手を出すなんて最低な奴」

 テレーズの大声に周囲の人々の視線が集まった。だが、マティアスはひるまなかった。

「なあ、テレーズ、餓鬼の子守なんてつまんねえだろ。それよりか、いいとこ行かねえか」

 トラヴィスは悔しかった。ろくでなしの男にこづかれてテレーズに助けられるなんて。だから、テレーズの手から離れてマティアスに食って掛かった。

「いい加減にしろ! テレーズはおまえなんかが手出しできるような人じゃないんだ。淑女なんだから」

 すると、近くにいた老人が叫んだ。

「小僧、頑張れ! マティアス、子どもをいじめるんじゃねえ」

 老人はマティアスを知っているらしい。

「黙れ、ジジイ!」

 マティアスは老人を睨んだ。

「誰が黙れだ! 百年早いぞ」
「この死にぞこないの老いぼれ!」

 マティアスの言葉が終わらないうちに、老人は紙袋からさっき買ったばかりのオレンジを投げつけた。狙い過たず、オレンジはマティアスの額の真ん中に当たった。

「この野郎!」

 マティアスは地面に落ちたオレンジを勢いよく投げて老人に飛びかかろうとした。ドラヴィスはさっとボンボンの袋をテレーズに預けてマティアスの腹目がけて体当たりした。マティアスはその勢いで尻もちをついた。

「クソガキめ!」

 立ち上がろうとしたマティアスにさっき投げたオレンジが飛んで来た。オレンジが当たって怒った男の投げたものだった。マティアスは頭をかすめたオレンジを掴むと声のする方に投げた。だが、それは気短な漁師の頭に当たった。漁師の投げたレモンはマティアスの後ろにいた若い男に当たった。 
 それをきっかけに男どもの大乱闘が始まった。レモンやオレンジが飛び交い、男達は取っ組み合いを始めた。女達の悲鳴と男達の怒号が市場に満ちた。



「御迷惑を掛けまして申し訳ございません」

 カールは警察官に丁重に頭を下げた。隣でトラヴィスも頭を下げた。
 恰幅のいい警察官はまあまあと言った。

「元はと言えばそちらの奉公人にマティアスがちょっかい出そうとしたからです。マティアスは子どもの頃から少々短気で、近所の鼻つまみ者でしたから。ちっとはこれで懲りてもらえばいいんですが」

 市場の騒動は警官が五人も来て止めに入ったので、なんとか収まった。気性の激しい漁師の多い土地柄か、市場の店主たちは騒動に慣れており手際よく店じまいしたので、大きな損害はなかった。投げられたレモンやオレンジの代金は近所に住むマティアスの親代わりの老人が支払うことで果物屋の主は納得した。ただ、騒ぎのきっかけになったマティアスはこれまでの微罪もあり、警察署に留め置かれた。
 事情を聞かれたテレーズとともに警察署を出た後、三人は待たせておいた馬車に向かった。カールが御者台に乗る前にトラヴィスはカールに改めて頭を下げた。

「ごめんなさい。迷惑かけて。目立つことしちゃいけないのに」

 使い魔はできるだけ人目につくことは避けなければならない。それなのに、市場の真ん中で喧嘩沙汰を起こしてしまったのだから。

「仕方ない。マティアスがいるかもしれないと想定していなかった私の読みが甘かった。それにおかげでテレーズに何ごともなかった」

 それまで黙っていたテレーズが口を開いた。

「ありがとう、トラヴィス」

 トラヴィスは驚いた。テレーズに礼を言われるとは思ってもいなかった。ただ、マティアスのテレーズに対する態度が許せなかっただけなのに。

「ありがとうって、当たり前のことしただけだし。あの男の言葉は淑女に対するものじゃない」

 テレーズは微笑んだ。

「そういう当たり前が嬉しいの」

 トラヴィスは首をひねった。

「さあ、中に乗って。そろそろ戻らないと奥様がお目覚めだ」

 トラヴィスとテレーズはキャビンに乗り込んだ。向かい合わせに乗ると、馬車が動き始めた。

「あ、顔に傷が」

 テレーズはトラヴィスの頬にハンカチを当てた。

「レモ、じゃなくてシトロンが当たったみたいだ」
「戻ったら薬塗らないとね」
「平気だよ」

 笑って言ったトラヴィスの唇に何か柔かいものが触れた。驚きで声を出そうとしても出せなかった。
 数秒の後に離れたそれがテレーズの唇だと気づいた時、トラヴィスはわけもわからぬまま赤面していた。

「どうして? 今の何?」

 テレーズは答えなかった。



「カノンを出ましょう。セルマイユの郊外の避難先の山荘へ行く支度をして」

 カールから昼間の市場での騒ぎの報告を受けてカロリーネは即決した。目立つことは極力避けなければならない。

「かしこまりました」

 カールは温暖なこの地が気に入っていたが、女主人の決断には逆らえない。それに山荘はさほど広くないから、下働きの人数は少なくて済む。マティアスのような不心得者を排除しやすい。ただし、セルマイユは人の出入りが激しいから警戒のため外出は控えねばならない。

「それにしても、トラヴィスも一人前の男みたいなことを言うようになったものね」
「テレーズのおかげでしょう」

 それはなんとなくカロリーネも感じていた。トラヴィスの中でテレーズの存在が気付かぬうちに大きくなっていることを。

「ところで、カール、あなた甘草のボンボンを食べたわね?」
「申し訳ありません」

 甘草のボンボンには独特の香りがあり、食べたらすぐにわかる。

「いいのよ。あなたも好物くらいたまには食べたいでしょ。後で私にも一つちょうだい」
「はい」

 カールはほっとして部屋を出た。
 カロリーネは甘草のボンボンは好きでも嫌いでもない。北ミャーロッパにいた頃に幾度か口にしたこともある。少々癖はあるが、悪くはない味だと思う。だからといって毎日食べたいわけではないが。
 それはともかくセルマイユである。幾三郎は船出のために必ず立ち寄るはずである。トラヴィスの巻き込まれた騒動によるとはいえ、セルマイユ近郊に行けるのは心はずむことだった。

「駄目よ、カロリーネ。浮ついた気持ちでは。会えるとは限らないんだから」

 己に言い聞かせても、喜びは隠せない。



 その夜、トラヴィスは勉強の前に市場での騒ぎの一件を謝罪した。

「奥様や皆に御迷惑をかけて申しわけありません。先ほど、転居すると伺いました。私のせいでそんなことになるとは」
「テレーズを守ってくれたのだから気に病むことはない。ただ、次からは同じような騒ぎにならないように。マティアスのような男はどこにでもいるのだから」

 カロリーネはトラヴィスの頬の傷に気付いた。薬を塗ったような痕がある。

「その傷は治しておきましょう」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。薬を塗ってもらったから」

 カロリーネは誰が薬を塗ったか見当はついたが、口にせず、ではと授業を開始した。
 歴史の授業は当代に近づいており、カロリーネはインガレスとしんの戦争について語った。
 トラヴィスは戦争がジルパンに与えた影響について尋ねた。トラヴィスはラングの家にいたジルパンからの留学生を見て彼らの国に興味が湧いたのだった。
 カロリーネはジルパンの鎖国政策の変化について語った後、コレクションの中から人のように二本足で立って衣装を着た猫が遊んでいる版画を見せた。興味があるならとジルパンの昔話を子ども向けにフロラン語訳した本を授業の後で渡した。



 翌日、カノンの別荘地からカロリーネ達は姿を消した。二ケ月の契約で下働きをすることになっていた者達は仲介した業者から二ケ月分の手当てが出たので、皆文句ひとつ言わず、他の別荘での仕事に就いた。無論、仲介業者にも契約途中の解約で面倒をかけたからとそれなりの金額が支払われていた。
 警察署の留置所から出たマティアスは、テレーズらがいなくなったことを親代わりの老人から聞いた。

「くそ、あのアマ、今度会ったら」

 留置所に入るきっかけになったテレーズのことが今や可愛さ余って憎さ百倍のマティアスだった。

「やめとけ。警察は告訴してもいいと言ったが、あの家の主人はおまえの将来があるからと告訴しなかったんだ」
「はあ? なんだそりゃ?」
「裁判沙汰になったら、これまでのことがあるから、無事じゃすまんよ。そろそろ性根を入れ替えて真面目に暮らさねえと後悔するぞ」

 そんなことはマティアス自身が一番よく知っている。だからといって素直に聞き入れられれば、こんなことにはならなかったはずだった。

「大体よお、ジジイがオレンジ投げたからだろ、あの騒ぎは」
「はて? なんの話だ。まずは仕事だ。警部さんが沖中仕のアンドレ親方んとこに紹介状を書いてくれたから、そこへ行くといい」
「しらばっくれやがって」
「警部さんもおまえのことを心配してんだ。行くだけ行ってみろ。それにな、おいらが立て替えたオレンジの代金、どうすんだ?」
「わかったよ。この業突く張ごうつくばりジジイ。金返せっていうんなら行ってやらあ。倍にして叩きつけてやる」

 元よりマティアスとて仕事のない今の状況を望んでいたわけではない。女に声を掛けるにしてもとりあえず軍資金はいる。港の仕事は肉体的には厳しいが、警部の紹介なら日当も悪くはなかろう。
 こうしてマティアスは沖中士になり、やがて親方の娘に気に入られ結婚、親方の後を継ぐと事業を発展させカノンの港の顔役となり、裏の世界にも幅をきかせるのだが、それはまた別の話である。




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