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船出

1 南フロランへ

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 フロラン出発まで皆大忙しだった。荷造りは当然のこと、二ケ月屋敷を預かるマリイとルイーズが困らないように薪や炭を準備しなければならない。それに加えてトラヴィスはフロラン語の勉強があった。テレーズは鬼のようにトラヴィスのアクセントや発音を正した。
 マリイとルイーズもまたカノンで使う道具の荷造りや保存食作りに励んだ。
 カロリーネはフロランの知人との手紙のやり取りやアレックスやトマスの来訪を受けたりで忙しかった。時にはドンロリアに出て海軍の関係者に会うこともあった。
 例の少尉にも会った。彼からジーパン情勢を入手するためだが、少尉はカロリーネに好意を抱いているようで、用心深く振る舞わねばならなかった。無論、彼の同僚らから血の分け前をもらうことも忘れていなかった。



 ジルパンでは新年早々の武力衝突の後、前政府軍は劣勢となり、引退した将軍が都からエドにこっそり逃げたと聞き、カロリーネは愕然となった。兵士を置いて逃げるなど考えられなかった。
 一方、心配していたエド総攻撃は中止された。エドは火の海になることなく、将軍の居所だった城は開城された。サツマ出身の未亡人の願いはかなったらしい。
 アレックスに届いたウェンビューからの手紙によるとサツマのトーゴーという将軍と前政府の代表カイが腹を割って話し合い総攻撃を中止したとのことだった。カロリーネは二人の男の良識ある決断に感動を覚えた。
 逃亡した前将軍は最新の情報では亡き父の治めていた領地で謹慎しているらしい。だが、残された武士達が大人しくしているはずもなく、一部は前政府の所有する艦船で北の島に逃走したと言う。ジルパンの政情はいまだ安定していないようだった。
 新聞に留学生たちが女王陛下に暇乞いをしたという記事が掲載された日、カロリーネは海峡を渡りフロランに上陸、列車と馬車で南部の海岸地方にある保養地カノンに向かった。乗り物の中でもテレーズはトラヴィスにフロラン語を厳しく指導し、フロラン語で話しかけないと返事をしないほどだった。
 途中各地に住む吸血鬼仲間を挨拶がてら訪ねたりしたのでカノンの屋敷に到着したのはインガレス出発十日後の夕刻だった。
 道中でカールが買った新聞にはジルパン前政府の派遣した留学生が帰国のためパロに到着したとあった。
 写真ではなく絵で描かれた前将軍の弟君は若いながらもりりしく、留学生たちもまた誇り高く背筋を伸ばしており、画家の彼らに対する敬意が窺えた。



 カノンは南フロランの海岸地域に位置し、風光明媚な保養地である。フロランのみならずミャーロッパ各国の王侯貴族、富裕層が別荘を持っていた。後の世には、この地で権威ある映画祭が開催されることになる。



 カノンの屋敷は海岸に近く嵐でもないのに家屋のどこにいても波の音が聞こえた。荷ほどきを終え落ち着くと、カロリーネは夜、海の見えるテラスに行き沖の漁船の灯りを眺めた。
 この海を東に向かって旅すればいつかジルパンに着く。幾三郎は間もなくこの沖を通る船に乗って去ってしまう。そんなことを思いながらため息をつくことがしばしばだった。
 いつもならその土地の社交界になじみパーティやダンスに興じるのだが、別荘地に住む人々は昼間の海水浴や船でのパーティを楽しむことが多く、日没前後からしか活動しないカロリーネは自然、そういう遊びに参加することはなくなった。誘いがあった場合は、肌が日焼けに弱いのでと言えば、透き通るように白い肌の色を見て皆納得した。
 無論、それだけが理由ではなかった。浮き立った気分にはなれないのだ。 
 インガレスを離れわざわざこの地に来たのは、幾三郎の少しでも近くにいたいという気持ちからだった。見送ることはできないけれど、同じ国にいるというだけで、気持ちが落ち着くのではないかと思っていた。
 けれど、現実は違った。同じ国にいるのに会うことができない。その現実はカロリーネを苦しめた。
 船の出る港町のセルマイユに行こうとも思ったが、人の出入りの多い港町にはどういう人間が紛れ込んでいるかわからない。使い魔たちの安全を考えれば、富裕層の多いこの地が都合がよかった。少しでも怪しい振舞をする人間が入り込めば、警察が放ってはおかない。
 吸血鬼を付け狙う者達は教会関係者だけでなく狂信的な者が多いことにカロリーネ達は気付いていた。彼らは一般的な人間から見れば少し変わった者が多い。吸血鬼の特徴を持つ者を調べるために執拗に疑わしい者を付け狙う。魔女狩りのあった時代ならそういう行為は珍しくなかったかもしれないが、科学が幅をきかせ始めているこの時世では、悪目立ちすることこの上なかった。
 治安がよければそういう者達がうろつく恐れはないと考えてのカノン行きだった。
 だが、カロリーネは時折寂寥感に襲われた。
 もっと幾三郎の近くにいたい。姿を見たい。声を聞きたい。触れたい。
 己の正体をあやかしと明かした身ではかなわぬことだったけれど。



 カロリーネが悶々と日々を過ごす一方で、使い魔たちはインガレスとうって変わって明るい日差しと乾いた空気の下、仕事に励んだ。
 屋敷の掃除をする下働きは地元の者を二ケ月契約で雇っていたが、彼らは別荘勤めに慣れており仕事の要領がよく、一度指示すれば入ってはならない部屋、たとえば昼間のカロリーネの寝室等には絶対に立ち入らなかった。別荘に来る富裕層には様々な者がおり、そのプライバシーを犯せば後々仕事に障るということを地元出身の雇い人はわかっていたのだ。
 もっとも中には問題のある者も混じっていたのだが。
 庭の清掃に雇ったマティアスはテレーズを見かけるたびに声をかけた。テレーズは相手にしないが、一向に気にする素振りもなく、マティアスは休みの日はいつかなどと訊いてくるのだった。
 さすがにカールが気付き仲介先に苦情を言うと、翌日からは真面目な壮年の男が代わりにやって来るようになった。
 それ以外は使い魔と下働きの間に問題はなかった。
 カールは執事として使用人をまとめ、テレーズは女達の仕事を監督し、トラヴィスは下僕として一日中屋敷を駆け回っていた。そんなトラヴィスを下働きに来ている地元の漁師の妻らは可愛がって、菓子などをくれた。

「子ども扱いされてるみたいだ」

 仕事の合間に使用人部屋でこぼすと、カールはうなずいた後言った。

「今だけだよ。年月がたてば変わる」

 カールは使い魔は時とともに少しずつ年をとるのだと語った。

「私が奥様に仕えたのは二十年ほど前。その頃、私は三十そこそこの人間の容姿をしていた。近頃は四十近くに見られるようだ」

 マリイやルイーズはそれではいつから使い魔をしているのだろうかとトラヴィスは思った。彼女達はカールより年上のように見えた。二十年で十歳ほど年をとるなら少なくとも五十年以上使い魔をしているのではないのか。
 カールはトラヴィスの表情から疑問に気付いた。

「マリイとルイーズはフロランの革命の頃から奥様に仕えている。テレーズはカポレオンの時代からだな」

 歴史で勉強したフロランの革命は八十年近く前だった。カポレオンの時代は六十年前である。トラヴィスは衝撃を受けていた。

「テレーズって一体何歳……」
「使い魔に年齢はないようなものだ。奥様は魔法で男は年上に見えるように、女は若く見えるようにしている」
「それじゃ、奥様に頼めば大人の男にしてもらえる?」
「中身が子どもじゃ無理よ」

 テレーズが背後で笑った。
 
「中身が子どもって、ひどいよ」

 振り返ったトラヴィスの大声に、テレーズは肩をすくめた。

「そういうところが子どもなの。子どもは大声で騒いだりしないもの」

 それを言われたらトラヴィスには返す言葉がない。

「悔しかったら、早く一人前の仕事ができるようになりなさい」

 テレーズは使用人部屋の時計を見上げた。

「そろそろ御目覚めの時間ね」
「おっといけない」

 トラヴィスは門で下働きの者が出て行くのを確認しなければならなかった。
 この日も入って来た五人全員が出て行くのを確かめ門を閉じた。



 数日後、テレーズはトラヴィスとともにカノンの市街地に出かけた。屋敷で使う日用品を注文するためである。食品は商人が屋敷に配送して来た時に次の分を頼むが、急きょ必要になる品は町の商店に頼む必要があった。
 カールが終わったら町を見物してもいいと言ったので、雑貨屋を出た後、二人は市場に向かった。近郊の農家や漁師、商工業者の出店があり、特に果物、魚類はインガレスよりも豊富だった。それを目当てに多くの客が市場にあふれていた。

「このラズベリー、マリイならきっとおいしいジャムにしてくれるね」
「ラズベリーはフランボワーズ。ジャムはコンフィチュール」

 市場でもテレーズはトラヴィスのインガレス語を訂正した。トラヴィスはこんな時までと思ったが、従った。フロラン人はたとえインガレス語が話せても絶対にフロラン語で話すというのを旅の途中で知ったからである。

「それにね、コンフィチュールくらい私も作るの」
「そういえば菫の砂糖漬けも作ったんだもんね。あれ、おいしかった。また作ってよ」
「春になったらね」
「早く春にならないかな」
「まだ真夏にもなってないのに」

 ラング邸での仕事をやり遂げたとはいえ、まだまだ言動の端々に稚気が感じられた。これでは漁師の女房達に子ども扱いされるのも当然とテレーズは思う。

「あ、これ甘草かんぞうのボンボンだ。カールが好きだって言ってた」

 トラヴィスは菓子屋の店先に黒い色のボンボンを見つけた。北ミャーロッパで特に好まれる独特の味の菓子はカールの好物だった。
 トラヴィスはお小遣いのコインを出して一袋買った。

「カールが喜ぶわ。そろそろ戻りましょう」

 日が少しだけ西に傾いてきた。
 今来た道を戻ろうと振り返った二人の前に若い男が立ちはだかった。

「テレーズじゃないか」
「マティアス、何の用?」

 テレーズは不機嫌さを露わにした。トラヴィスは一歩前に足を踏み出した。



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