西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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復讐

8 同じ空の下に

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「あの時は殺されるかと思った」

 トラヴィスはそう言って、首筋を押さえた。

「ここをつかまれたんだ。乱暴な奴だった」
「まあ、なんてひどい」

 マリイが言う。ルイーズも言葉にしないが、耐えられないという顔をしている。

「だから、いっぱい手をひっかいてやった」

 得意げな顔でトラヴィスはそう言うとお茶を口にした。ふと、テレーズの視線を感じた。何だろうと思って見ると、顔をぷいとそむけた。

「どうしたの、テレーズ」

 テレーズは呆れたように口を開いた。

「なんだって、さっさとそういう危ないところから逃げなかったの? 仕事が終わったんだから、夜のうちに逃げたっていいのに」

 それを言われるとトラヴィスは何も言えない。夜が明けたらすぐにずらかれとヒューに言われていた。それをついべスの作ったおいしいスープと肉を食べてからと思ったばかりに、ラングに捕まってしまったのだ。

「まあ、助かったからいいじゃないの」

 ルイーズはそう言って、お茶のお代わりを勧めた。テレーズはなおも言葉を続ける。

「ヘイデンに迷惑かけてるのに」
「うん……」
「ヘイデンに後で謝りなさいよ」
「うん、わかった」

 あの後、トラヴィスはヘイデンによって屋敷の外に連れ出された。外で待っていたヒューの操る馬車に乗ってここに帰って来たのだ。
 本来ならカロリーネに報告しなければならないのだが、まだ明るい時間なので使用人部屋に行き、こうしてクッキーを食べ茶を飲んでいる。

「テレーズ、トラヴィスもわかったと言ってるんだから」

 ルイーズに言われテレーズは口をつぐんだ。
 
「トラヴィス、テレーズはあなたが仕事が無事にできるかどうかずいぶん心配してたのよ」
「ルイーズ! 言わないで」

 テレーズは少し頬を赤らめた。トラヴィスは不思議そうにテレーズを見た。熱があるんじゃないだろうか。

「テレーズ、ありがとう。熱があるの? 少し休んだら」
「はあ? 熱なんかないから」

 テレーズは立ち上がり、ティーカップを流し台に持って行くと、仕事があるからと部屋を出た。

「テレーズ、どうしたの?」

 トラヴィスは不思議そうにルイーズとマリイの顔を交互に見た。二人ともテレーズの心理に心当たりがあったが、口にしなかった。
 そこへ雪かきをしていたカールが戻って来た。

「お帰り、トラヴィス」
「ただいま。雪かき手伝うよ」
「ありがとう。お茶の後で頼む」
「わかった」

 カールは大きな手でトラヴィスの頭を撫でた。トラヴィスは帰って来れてよかったと思った。



 起床したカロリーネが身支度を終えるとすぐにトラヴィスは仕事の報告をしに部屋をたずねた。

「留学生たちの様子は?」

 カロリーネは報告を聞いた後、トラヴィスに質問した。

「なんだか皆心配事があるみたいで。やたら撫でられました。でも、皆いい人達でした。ラング以外は」
「そう」
「一番年下の子が傷の手当てをしてくれました。それから、ミスター・タビーと呼んでくれるインガレス語の上手な人がいました」

 幾三郎だとカロリーネは思った。流暢に話せる彼なら猫の毛の模様をインガレス語で言えてもおかしくない。
 会いたい。一目会って話がしたい。それが無理なら姿だけでも見たい。

「奥様?」

 トラヴィスにはカロリーネの沈黙の意味がわからなかった。

「え? なんでもないわ。あなたのことをタビーと呼んでくれた人は親切にしてくれた?」
「はい」

 その後、カロリーネはヒューがつけた傷に治癒の魔術をかけた。
 トラヴィスが部屋を出た後、カロリーネは窓辺に立ち、ドンロリアの方角を見つめた。同じ月と星の輝く空の下に幾三郎がいる。

「幾三郎、会いたい」

 ジルパンの言葉でつぶやいた。聞こえるはずなどないものを。



 懐かしい声が聞こえたような気がして顔を上げた。窓を開けてもドンロリア名物の霧のためか月も星も見えない。ましてや、そこに愛しい人の姿があるはずもなかった。

「石田君、どうしたんだ?」

 川島の声で我に返り窓を閉めた。

「いや。こちらの空気は愛戸えどとは違うと思って」
「そうだな。愛戸は空気が澄んでいた」

 二人とも愛戸育ちで、乾いた冬季の空気を知っていた。火事を頻発させる乾いた風であったが、清々すがすがしさを感じさせた。一方、ドンロリアは石炭による暖房や工場の排気で空気が汚染されていた。霧の中に汚染物質が混じり、外を少し散歩しただけで鼻の穴が黒くなると皆口々に言っていた。

「もし国で石炭が普及したら、このような空気になるのでしょうか」

 幾三郎の不安に川島はそんなことはなかろうと言った。

「一時的にはそういうことになろうが、空気の汚れを取って清浄にするからくりを考えれば解決するのではなかろうか」
「なんですか、それは」
「工場の煙突に汚れを取る細かい網のようなものを付けるんだ。難しいかもしれぬが、できたら世界中に売れるのではないか」

 川島は真面目な顔で言う。幾三郎は不可能ではないかもしれないと感じた。

「なるほど、そういうからくりを作って諸国に売れば人の役に立つし、国も潤う」

 できることならそのような人々に貢献する仕事がしたいものだと願う幾三郎だった。



 いつもなら勉強の時間だが、今日は休んでいいからと奥様に言われ、トラヴィスはカールの部屋を訪ねた。カールはマリイに教わったという縄目模様のセーターを編んでいた。

「すごいや、こんなの編めるんだ」
「面白いぞ。工夫すればいろんな縄目が作れる」

 カールは自分で編んだマフラーを見せた。トラヴィスは目を輝かせた。

「教えて」
「いずれな。だが、今は勉強が先だ。早くインガレス語できちんとした文章を書けるようにならないと。他の言語も覚えないといけないから」
「他の言語も?」
「ああ。奥様はいろいろな国においでになる。仕える者も話せないと買い物一つできない」

 トラヴィスにとっては想像もつかない話だった。確かにカールは万博会場ではフロランの言葉で話していた。同じようにできるのか不安になってくる。

「とにかくまず一つ言語を覚えることさ。別の言語を勉強する時は同じやり方で勉強すればいいんだ」
「インガレス語だって大変なのに」
「テレーズだって勉強してできるようになったんだ。ジルパンの言語も勉強してる」
「そうなの?」

 ラングの屋敷にいたジルパンの若者達の話す言葉はまったくわからなかった。自分のことをトラと呼ぶのはわかったが。

「テレーズ、凄いんだね」
「そうだ、凄いよ」

 そう言った後、カールは編み物をテーブルの上の籠にしまって、トラヴィスを見た。

「トラヴィス、今度の仕事でずいぶん怖い目に遭ったと思う。だから、テレーズの気持ちもわかるな」

 トラヴィスははっとした。忘れかけていた。使い魔になる前に、テレーズには一度謝っている。その時、彼女は怪我はもう治ったから気にしていないと言っていた。猫だった頃の気持ちは忘れてとも言われたことがある。だから、トラヴィスはあまり考えていなかった。
 だが、今回トラヴィスはラングに首根っこをつかまれて床に叩きつけられそうになった。もしかすると竈の火の中に突っ込まれていたかもしれない。あの時の恐怖は思い出すだけで総毛立ちそうだった。さっきは皆の前で自慢げに話したけれど、本当は今も怖い。もしかすると、テレーズもあの時、それ以上の恐怖を感じていたのかもしれない。だが、トラヴィスはテレーズの恐怖のことなどまったく考えていなかった。カールに言われるまで彼女の気持ちなど想像していなかった。それなのに、彼女はトラヴィスの心配までしていたのだ。
 自分はなんと愚かだったのか。
 カールは言った。

「今の気持ちを忘れるんじゃない」
 
 それだけ言うと、トラヴィスに黒い飴をやった。
 口に入れたトラヴィスはその独特の風味に思わず吐き出したくなったが、カールに申し訳ないので我慢した。我慢に我慢を重ねてカールに尋ねた。 

「これ、何ですか」
甘草かんぞうのボンボンだ。口に合わなかったか? 故郷ではサルミアッキといって、私は好きなんだが」
「食べたことのない味だから……。何が入ってるんですか」
「甘草と塩化アンモニウムだ」

 飴なのに甘くないのは塩化アンモニウムのせいらしい。
 それでもなんとか食べきったトラヴィスは、もう絶対に自分の愚かさを忘れるまいと思った。そして、それを教えてくれたカールに感謝した。ただし、このボンボンだけは二度と食べないと心に決めた。




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