西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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復讐

7 トラヴィス、危機一髪

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 翌朝、トラヴィスは使用人部屋の竈の前にいた。べスが用意してくれたスープの残りと肉の切れ端を食べて満足して横になったところに、大吾少年が来た。

「昨夜はどこへ行ってたんだ」

 返事の代わりに猫らしくニャッと鳴いてみせた。

「おお、タビー殿ミスター・タビーはここか」

 昨日、柄をタビーと言っていた若者がインガレス語で声をかけた。トラヴィスはタビーと呼ばれたのが嬉しかったので、足元にすり寄った。

「幾三郎様、この猫を飼ってもいいでしょうか」

 大吾少年もインガレス語で尋ねた。

「川島様のお許しがないとな。それに、もし国に帰ることになったら、連れて行けない」
「やはり、国に帰らねばならないのでしょうか」
「まだ指示はないが、上様が将軍ではなくなった今、我らの立場は微妙だ。フロランにおいでになる若様プリンスもどうなるかわからないのだから」

 幾三郎は身体をかがめて猫の背を撫でた。大吾も背中に触れた。
 トラヴィスは言葉で語る以上に二人の不安をひしひしと感じた。
 実際、二人とも猫に触れることで、かろうじて精神の均衡を保っていた。一体、今国はどうなっているのか。誰が政権を担っているのか。家族はどうしているのか。もろもろの不安にさいなまれていたのだ。遠い異国で情報らしい情報もない中で、留学生たちの心は千々に乱れていた。

「お、猫はここか」

 丸顔の青年が入って来た。幾三郎は後ろに下がり、青年に猫の背を譲った。この青年も不安を感じているらしかった。

「石田君、ちょっといいかな」

 川島小太郎がドアから顔を覗かせた。幾三郎は廊下に出た。トラヴィスは忙しい人達だと思った。



「ラングがおかしい。書斎で探し物をしている。ないないと騒いでる」

 川島がジルパンの言葉で囁いた。ともにラングの不正の証拠を見つけようとしている幾三郎は外へ出ようと言った。
 二人は庭に出た。寒々とした庭には何の花も咲いていない。

「よほど重要な書類だったのですね」
「昨夜、書斎から音がするので見に行ったら窓の鍵がかかっていなかったとかで、ヘイデンと書斎を見ていた。もしかすると、不埒者が書斎に入って盗んだのかもしれぬ。泥棒に入られたのなら警察を呼んで調べてもらえばいいはずなのに」

 しばらく言い淀んだ後で、川島は言った。

「なくなったのは公にできぬ書類ではなかろうか」
「使い込みの?」

 川島はうなずいた。

「去年の暮れに、アキレサンドリアの一件で賠償金をいただいた時、妙だと思われませんでしたか」

 留学生一行はミャーロッパへの旅の途中、アキレサンドリアへ向かう際に別便で送った荷物が盗難に遭っていた。その損害をエプジト政府に補償するよう申し入れていた。
 その交渉がやっとまとまったということで昨年の暮れにラングを通じて川島が代表して補償金を受け取っていた。その際、ラングはエプジト政府に値切られたと言っていた。

「そういえば」

 川島は思い出した。明細はラングから受け取っていたが、元の請求額百二十三ペンドの六割足らずの七十三ペンドしかなかった。それでも被害に応じて留学生たちに割り振ったのだった。といっても盗まれたのはミャーロッパでは手に入らない衣服等だから、慰めにしかならなかったのだが。

「直近で金子きんすのやりとりをしたのはそれだ」

 哀しいかな、故国からの送金がこのところ途絶えがちだった。川島はまとまった金を預かっていたものの、その残額もかなり減っている。
 幾三郎は両の腕を胸の前で組んだ。

「考え過ぎかもしれませんが、なくなったのはその関係の書類かもしれません。不正を行っていたとしたら、外務省から出た補償額が書かれた書類は見られたら困るはずです」
「まさか」
「外務省からラングに渡った金子の額と我らの手に渡った額が一致するか、調べねば。川島様はラングから渡された明細をお持ちでしょう」
「持ってる。写しも作っている」
「外務大臣に直接言うと、ラングの耳に入るかもしれません。別の伝手を使って外務省から渡された金子の額を調べないと」
「伝手か」

 川島の知る限り、インガレスで知り合った役人はラングを通じて知り合った者ばかりである。彼らにラングへの疑惑を伝えるのは憚られた。

「外務省の方に何か御用があるのですか」

 背後からの声に二人は振り返った。召使のヘイデンだった。愛想のよい笑いを浮かべ、ヘイデンは続けた。

「前に仕えていた方が外務省や海軍の方々と親しくしておいででした。差し出がましいかもしれませんが、もし御用がおありなら、お取次ぎくらいはできるかと」
「まことに」

 川島は目を輝かせた。だが、幾三郎は用心深かった。

「門閥というのがあるのではないか。ラング氏と近い人物は避けたいのだが」
「それは大丈夫かと。その方はラング様の身内でも同郷でもありません」
 
 果たして信じていいものか、二人は顔を見合わせた。  

「ヘイデンの言うこと、信用していいものでしょうか」
「彼は信頼できると思う」

 川島はそう言って、よどんだ色の空を見上げた。
 ヘイデンはすでにラングから呼ばれて下がっている。

「霧の中にいるようだ。だが、きっと光は見つかるはずだ、光を求めさえすれば」

 川島の呟くような声に幾三郎はうなずいた。
 その時だった。小さな足音が近づいたかと思うと、大吾少年が庭へ飛び出して来た。

「大変です! 川島様、助けてください!」
「いかがした?」

 川島はいつになく慌てる少年に驚き、少年とともに屋内に戻った。幾三郎もそれに続いた。少年は歩きながら早口で説明した。

「ラングが、猫の足跡が書斎の机の上にあったから猫が部屋を荒らしたと、猫を折檻しようとしています。今、内川さん達が止めに入っています」
「猫とは昨日迷い込んだトラか」
「はい」

 その返事を聞くより先に、ストップと口々に叫ぶ留学生らの声が聞こえてきた。騒ぎは使用人部屋で起きているようだった。泣き声も聞こえた。たぶん小間使いのべスだろう。
 ドアを開けるまでもなく、留学生らは使用人部屋からはみ出すほどそこにいた。

「何を騒いでおる」

 川島の大きくはないがよく通る声に、皆静まった。一人ラングのみが猫の首筋をつかんで、この馬鹿猫がと悪態をつき床に今しも叩きつけようとしていた。猫は恐怖のためか、抵抗しようとして暴れていた。だが、ラングは引っかかれても手を離さなかった。

「ミスター・ラング、これは何の騒ぎですか」

 川島の問いに、ラングは叫ぶように言った。

「騒いでいるのは君達だろう。私はただ、この猫を罰しに来たのだ」

 話している最中に手の力が緩んだのを幸いと、猫は手から離れ床に飛び降りた。すぐさま、大吾の腕の中に飛び込んだ。少年は猫を抱き締めた。

「この猫が何をしたのですか?」

 川島の目にはどう見ても、猫を虐待していたようにしか見えなかった。

「私の書斎を荒らしたのだ。足跡があった」
「この猫かどうかわかりますまい」
「昨夜、私の足元をすり抜けた生き物がいた。きっとこやつだ」

 そこへヘイデンがやって来た。

「旦那様、机のそばと窓際に猫の毛が落ちていました。黒い毛です。茶色ではありません」

 ヘイデンはそう言って白い紙に載せた短い黒い毛を数本披露した。川島は言った。

「書斎を荒らしたのは黒い毛を持つ猫ということですね」

 ラングは目をかっと見開き毛をつまみ取ると憎々し気に睨みつけ、竈の火に投げ入れた。
 

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