西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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復讐

5 ドンロリアの休日

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 夕刻、目覚めたカロリーネはテレーズに着替えや化粧を手伝わせ、アレックスらと劇場へ出かけた。ピアノの演奏会のためである。
 若いピアニストの瑞々しい演奏を聴きながら、カロリーネはクロードと一緒に聴いた超絶技巧のピアニストのことを思い出した。彼は隠遁生活に入り表舞台から去ってしまった。あの見事な演奏はもう二度と聴けないだろう。そう思うと、この若者の演奏も貴重なものに思えてくる。これから活躍が期待される彼のいまだ洗練されない演奏もまた今しか聴けないものなのだ。
 演奏会の後、レストランの個室で海軍の関係者らと会食した。
 フロランと隣国のロプセンの情勢の話題がもっぱらだった。中でも鉄血大臣と呼ばれているロプセンの首相ブルマルクが話題の中心だった。
 数年前、ナストリアはロプセンと戦争し敗北していた。そのせいか、カロリーネはブルマルクが嫌いだった。暴飲暴食によって肥え太った身体の戯画が新聞に掲載されているのを見るのも嫌だった。
 大佐がどこで聞いてきたのかブルマルクの食事の話を始めた。

「卵を何にでも載せるんだそうですよ」
「卵とはニワトリのですの?」
「ええ」
「てっきり駝鳥の卵でも載せて食べているのかと思いました」
「確かに、あの腹を見ればね」

 大佐が笑った。アレックスも笑った。

「ところで、ブルマルクは植民地への野心はあるんでしょうか?」
「マダム、それは心配ないかと。ロプセンは南部の各王国との同盟に腐心しています。ゲマルンを統一するのが今のロプセンの最大の課題です」

 ゲマルンもまたジルパン同様、いくつかの国に分かれていた。いずれはブルマルクのような強力な政治家の下でジルパンも発展していくのかもしれない。その時に幾三郎が所を得ることをカロリーネは望んでいた。

「この後、会えないかしら?」

 レストランを出る前に、カロリーネは若い少尉にささやいて、メモを書いた紙を渡し、軽く流し目をおくった。上官の大佐に遅れまいとする少尉の足は心なしか弾んでいるように見えた。



 アレックスとともに乗った馬車は少尉の自宅近くで止まった。少尉が独り身であり、通いの使用人は夜は不在であることはすでに調べている。

「帰ってきました」

 御者のヒューがキャビンに声をかけた。カロリーネは行ってくると言って馬車を下りた。すぐに馬車はその場から離れた。
 少尉の家の周囲は暗い。人気がないことを確認し、カロリーネはドアを叩いた。すぐにドアが開いた。
 少尉はさあどうぞと伯爵夫人を招き入れた。これでカロリーネは家に入ることができる。
 少尉は興奮した顔であなたに会えて嬉しいとまくしたてた。カロリーネは微笑みながら、少尉にしなだれかかった。と、首筋に犬歯を立てた。少尉は痛みに顔をわずかに歪めたが、すぐに緩んだ表情になった。まるで呆けた人のようで、とても上官の覚えめでたい軍人には見えなかった。
 血の味は悪くはなかった。筋肉質の身体のせいか、脂ぎった感じがしない。ただ、さっぱりし過ぎて旨味がいまいち足りなかった。幾三郎の血は最上の味だったのだと再認識した。
 健康に支障のない量を吸うと、カロリーネは口を離した。そしてぼんやりしている少尉をそばのソファに座らせて、ささやいた。

「軍はジルパンの政府につくの? それとも反政府側?」

 それは機密事項だった。軍にはいち早くジルパンに駐在する公使のガーデンズから将軍辞任の情報が伝わっていた。この少尉は幹部近くに仕えており、普段なら機密を口になどしない。
 だが、今の彼はまったく理性が働かぬ状態にあった。

「反政府」

 虚ろに声が響く。
 さらにカロリーネは少尉に暗示をかけた。

「ジルパンの留学生の監督をするスティーブ・ラングは信用できない」
「スティーブ・ラングは信用できない」

 カロリーネはポケットからメモを抜き出すと、そっと離れて足音を立てぬように部屋を出た。
 五分ほど後、少尉は意識を取り戻した。何やら甘い夢を見ていたような気がする。上着のポケットのメモを思い出した。だが、ポケットの中に入っていたはずのメモがなかった。あれには「今宵あなたの家へ参ります」とあったのだが。
 朝まで伯爵夫人どころか猫の子一匹彼の元を訪れることはなかった。
 少尉はあのメモも夢だったのかと、肩を落とした。



 主が留守の間、使い魔たちは思い思いに時を過ごしていた。
 テレーズはダドリー家の小間使いナンシーらに髪の結い方を教えていた。彼女たちの主人は男性だが、時折女性の客が泊まることがあり、髪のセットも大事な仕事だった。

「テレーズさんて器用ね」
「何事も挑戦よ。まず手を動かすこと」

 講習会を終えると、夜のお茶の時間になった。ナンシーが尋ねた。

「ねえねえ、あの子、猫なんじゃないの?」

 あの子とはトラヴィスである。

「元はね」
「やっぱり。そうだと思った。怖くない?」
「別に」

 確かに襲われた時は恐ろしかった。だが、使い魔になってからは大人しいものである。トラヴィスは猫の時は身体が大きかったが、中身はまだ子どもだった。スコット老婦人が文字通り猫かわいがりしていたのだろう。それに引き換えヒューには何を考えているのかわからない怖さがあった。
 鴉のほうがと言いかけてテレーズは口をつぐんだ。鴉と言いかけた時、ナンシーの顔色が微妙に変わったのだ。たぶんナンシーとヒューは何かあるのだろう。

「カールが指導しているから心配ないわ」
「あ、カールさん、お元気?」

 古参のミリイが尋ねた。彼女だけでなく他の使い魔からもカールは人気があった。

「相変わらず」
「カールさん、優しいよね。いいな。うちの男どもときたら、無愛想だし」

 その後は世間話となり、やがてご主人様のお帰りという執事の声で一同は配置についた。
 カロリーネの顔色を見て、どうやら食事をしてきたらしいとテレーズは察した。いつもより目が輝き、頬はほんのり赤らんでいる。化粧を拭きとってもさほど差が感じられなかった。

「明日の夜、帰るわ。この後は休んでいいから。明日はナンシー達と買い物に行くといい。ついでにあちこち見物してもいいから」

 久しぶりの休日ということである。

「トラヴィスはどうしますか?」
「トラヴィスには仕事がある。こちらにしばらく厄介になる」

 まだ使い魔になって数か月のトラヴィスに出来る仕事があるのだろうか。ダドリー家の人々の足手まといになるのではないかと、テレーズは危ぶんだ。

「大丈夫。ヒュー達が面倒みるから」

 テレーズの不安を察したカロリーネだった。だが、ヒューが面倒をみると聞いてもテレーズは安心できなかった。

「ヒューは鴉ですよ」
「まあ、あなたがトラヴィスの心配をするなんて」
「いくら猫でも、灰にされたら可哀想です」

 テレーズにとっても過去の記憶はまだ生々しかった。



 今でもテレーズはクロードらが灰にされた夜のことを夢に見ることがある。目の前で灰になったジャックのことを思い出すと、胸の動悸が激しくなる。また誰かが灰になるようなことがあったらと思うだけで叫びたくなる。たとえそれがトラヴィスであっても同様だった。
 もし、何かしくじりをして聖職者たちに居所を知られたらと思うと気が気でない。最近は以前よりも信心深い人間が減っているように感じるが、それでも吸血鬼に銀の弾丸を撃ち込むことを生きがいにしている人間がいなくなったとは聞いていない。

「心配はわかるけれど、経験を積まないと使い魔も成長できない。ヒューのようなしっかり者がついていれば大丈夫」

 使い魔は主に従わねばならないから、テレーズもそれ以上は言わなかった。
 翌日、テレーズはナンシーやミリイとロッキンガム宮殿や水晶城クリスタルキャッスルを見物した。
 その後で、ミリイが面白いものがあると小さな劇場に案内してくれた。
 ジルパンという東の国から来た旅芸人たちの興業だった。テレーズは驚いた。留学生だけでなく、芸人もまたドンロリアに来ていたとは。なんでもドンロリアには二回目で、去年はミャーロッパ大陸のあちこちをまわっていたということだった。
 彼らは細く長い棒の先端に皿や東洋のティーポットを載せて回したり、指の先から水を出したり、高い梯子の上で宙返りをしてみせたりして観衆を大いに沸かせた。テレーズも一体どういう仕掛けがあるのかと彼らの指先を見つめたが、まったくわからなかった。
 帰りの馬車の中でその話をすると、カロリーネは嬉しそうに聞いていた。

「次は皆で見に行かなくてはね」

 皆で。トラヴィスも見たらきっと喜ぶに違いない。テレーズはトラヴィスが無事に仕事ができるようにと願った。



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