西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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復讐

2 万博

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「まあ、この陶器は!」

 カロリーネは人肌のような白地に小さな花模様が描かれた香炉に目を見張った。
 インガレスと海峡を隔てた大陸にあるフロランの首都パロでは万国博覧会が開催されていた。特にこのサツマリュウキュウ政府の展示館はすばらしい工芸品の数々で多くの人々を魅了していた。

「うわ、すげえ!」

 金色の髪の少年が展示品の切子のグラスに手を伸ばした。

「ちょっと、触っちゃ駄目よ」

 少年の手をぴしゃりと叩いたのはテレーズだった。

「いいじゃないか。減るもんじゃなし」

 不服そうな少年にテレーズは言った。

「汚れるでしょ。まったく非常識なんだから」
「ちぇ、なんでえ、鼠の癖に」

 そう言った瞬間、カールに睨まれた。

「それは言ってはなりません」
「へい、じゃなかった、はーい」

 少年の返事は渋々という感じで、とても反省しているようには見えない。

「皆様、あちらにお茶を用意しております」

 ウェンビューが一行を呼びに来た。
 カロリーネは礼を言い、使い魔たちとともに茶室という部屋に入った。といっても正座のできないミャーロッパの人々のために椅子席が用意されているので、カフェのようであった。ただ壁に床の間があり、一幅の水墨画が掛けられ、花生けに一輪キク科の花が活けられているのはジルパン風であった。
 席に着くと、民族衣装の若いジルパン人女性たちがお茶と菓子を運んで来た。ウェンビューは少し苦いので菓子を食べながら飲むようにと教えた。

「まあ、ほんとに苦い」

 マリイがつぶやいた。

「でも、お菓子が甘いからちょうどいいわ」

 ルイーズはそう言って茶を飲んだ。
 カロリーネは茶碗も先ほど見た陶器と同じ種類の焼き物だと気づいた。
 今日は朝から雨の降りそうな曇り空でカロリーネにとっては外出しやすい日だった。少し湿り気を帯びた空気の中、カロリーネはしっとりとした陶器の肌合いを好ましく感じた。

「ミスター・ウェンビュー、この陶器と同じ物を手に入れるにはどうしたらいいかしら」
「すぐに手配いたしましょう。今、国の窯元で作らせておりますから、出来次第発送いたします。今日のところはこの盃をお持ち帰りください」
「まあ、いいのかしら」
「ほんのお詫びの気持ちです」

 同じ種類の陶器で作られた小さな盃の入った木箱をウェンビューは小さな布で包んで渡した。その布には小花の模様が染め付けられ、それだけでも価値ある物に思えた。ジルパンの工芸品は何もかも繊細で素晴らしかった。
 他にも茶葉や小さな甕に入った酒、薄手の絹織物等を土産にもらい、一行は宿舎にしているパロ郊外のアレックス名義の別荘に帰った。アレックスはドンロリアで仕事中で留守なので、その間は自由に使っていいとのことだった。
 といっても、皆いつもの習慣ですぐに仕事を始めてしまう。マリイとルイーズは夕食の支度、テレーズは掃除、カールは庭周辺の掃除をしながらの見回りとそれぞれの配置につく。少年だけが応接室のソファの上に寝ころんでいた。

「タビー、今いいかしら」

 カロリーネは少年のいるソファの向かい側の一人掛けのソファに腰掛けた。

「何?」

 少年は顔だけをそちらに向けて相変わらず寝転がっている。失礼極まりないとカールなら叱っているところである。だが、カロリーネはそれについては何も言わなかった。

「この先のことだけれど、あなたはどうしたいの? スコットさんのところにいたくないと言うからあなたをここまで連れて来たけれど、このままでいいの?」

 タビーにもどうしたいのかはわからない。吸血鬼だという伯爵夫人の魔法で人の姿にされて、テレーズに怪我をさせたから償ってもらうと言われた。確かにあの白い鼠を食べもしないのに弄んだのは少しは悪いかなと思っている。でも動く物を見たら構いたくなるのが猫の性分なのだ。それを償えなんて無茶だと思ったが、夫人が怖いから従った。
 言われるままに、裏町で少女の恰好をして、ブライトンさんの家のラルフについていった。安宿に入ったラルフは男だとわかると驚いたが、まあいいかと言って尻にとんでもない物を入れた。あんなモノが人間についてるなんて知らなかった。痛くて悲鳴を上げたら警官が部屋に踏み込んで来た。道で出くわすといつも追いかけまわすいけすかない奴だったから、捕まった時はざまあみろと思った。
 尻の怪我は伯爵夫人が魔法で治してくれた。スコット夫人のところにも帰してくれた。
 戻ったタビーにスコット夫人は大喜びで、うまい肉を食わせてくれた。でも、一週間しないうちに、夫人は倒れて箱に入れられ屋敷を出て行った。後から来たのは闘犬を連れた夫人の甥一家だった。とてもじゃないが、一緒に暮らせない奴らだった。
 タビーは家を飛び出した。知っている行き場所はなかった。仕方ないので匂いをたどって、伯爵夫人の仮住まいに行った。執事のカールが気づいて屋敷に入れてくれた。
 それ以後、タビーは客分として伯爵夫人らとともにいる。

「あなたはテレーズの件について、身体を張って償ってくれた。だから、私たちと一緒にいる必要はない。あなたは自由よ。もし、この先も私たちと一緒にいれば命の危険もある。穏やかに暮らしたいなら、今度インガレスに戻った時に元の姿になって、どこかの家で飼われるという生活もある。私たちと一緒にいたいなら、仕事をしてもらわないとね。お客様ではないのだから」

 タビーもそれを考えたことがある。だが、何をすればいいのかわからなかった。

「インガレスに戻る時に返事をするんじゃ駄目?」
「海峡を渡る前には知らせて。こちらもいろいろ準備があるから」
「わかった」

 伯爵夫人は部屋を出た。
 同じことをテレーズに言われたことがあった。この先一緒にいたいなら、猫だったことは忘れてくれないと安心して一緒に暮らせないからと。その時は考えていなかった。
 でも結論を出さないといけないらしい。眠かったけれど考えてみた。
 伯爵夫人はいい人だ。何かとタビーに気を遣ってくれる。カールは口うるさいけれど、腕っぷしは強い。マリイとルイーズの作る料理はうまい。タビーの今着ている服も作ってくれた。親切だ。テレーズもあんなにひどい目に遭わせたのに、時々嫌味を言うくらいでタビーに干渉しない。
 スコットの婆さんは可愛がってくれたけれどもう戻って来ない。でもあの家に戻るとブルドッグのディックがいる。ディックはまるで餌を見るかのような目で見る。婆さんの甥は猫は好きじゃない。きっとディックに食い殺されそうになっても助けてくれないだろう。
 食事の心配がないのはどっちもだけれど、気楽なのはこっちかもしれない。危険なことはあるっていうのはわかる。ラルフにやられたことを思い出すと今も尻がむずむずして気持ち悪い。ディックに噛まれるよりはましな気がするけど。
 問題は仕事だ。給仕とか、掃除とかかな。料理は猫舌だから味見ができないしな。裁縫なんて気が遠くなりそうだ。
 そんなことを考えているうちに、タビーは眠ってしまった。 





 ラルフ・ブライトンに対する復讐は終わった。男性との性行為はインガレスの法律ソドミー法によって禁じられている。彼は現行犯で逮捕され、大学を退学した。
 後は留学生たちに本来給付されるジルパン政府からの手当てを中抜きしているスティーブ・ラングの件だけである。
 冷静に考えれば、幾三郎と別れたカロリーネがそんな小悪党を相手にする必要などないのだ。けれど、カロリーネは許せなかった。ジルパンという小国から高い志を持ってはるばると長い旅をしてきた若者達を食い物にするなど不届き極まりなかった。ミャーロッパ全体の恥と言っていい。誰も罰しないというなら、自分が罰しても誰も文句はあるまい。
 アレックスも、たまには真面目な人間を助けるのも一興とカロリーネの考えに賛同し、使い魔をラング邸に送り込んだのだった。彼の人脈には法務省高官や海軍幹部がいたので、証拠さえつかめばラングを告発できた。





「難しい質問ですね」

 カールはタビーの質問にすぐには答えなかった。タビーは質問するのではなかったと思った。せっかく仕事を終えて私室で休んでいるカールが自分の質問のせいで休めないのだから。

「ごめん、俺が変なこときくから」
「いえ、ちっとも変ではありませんよ。使い魔になって幸せかなんて質問されたことも考えたこともないので、どう答えていいものかわからないのです。でも、あなたにとっては切実な問題ですからね」

 そう言うと、カールは手袋を脱ぎ、テーブルの上に置いた。

「たぶん、幸せなのだと思います。毎日が忙しいけれど、奥様の役に立っているのですから。主人の役に立つことは私の幸せなのです」

 犬らしいとタビーは思った。犬は群れを作る。群れのリーダーに従って生きる。カールの本性は人の形をとっていても犬なのだ。

「主人の役に立つことか」

 タビーはスコット夫人のことを主人とは思っていなかった。自分に食事を与え寝床をくれ、時々撫でてくれる人だった。タビーにとってそれで充分だった。だが、スコット夫人のいない今、それに代わる存在がいなかった。自由ではあるが、どこか心もとない。伯爵夫人が代わりになってくれるならいいが、そうなるとカールのように人並に働かなければならない。眠る時間の長かったタビーにとっては働くというのはなんだか面倒に思えた。

「働きたくねえ」

 カールはタビーのつぶやきにうなずいた。

「私も時々、広い草原を見ると走りだしたくなります」

 やっぱり犬だとタビーは思った。

「しませんけどね。使い魔になるということは、使われるということですから勝手はできない。奥様に恥をかかせるわけには参りませんから」

 そう言った後、カールはタビーを見た。

「奥様ほど使い魔を大事にしてくださる主はなかなかいないと思います。他の方々の使い魔が愚痴をこぼすのをよく聞きます。食事が少ないとか、小遣いをくれないとか。私もテレーズもマリイもルイーズもそういう不満はありません。今日のように万国博覧会に一緒に連れて行ってくれるなど破格の扱いです。あなたの服にしても、扱いが軽くなるといけないからと、マリイ達に生地や仕立てをあれこれ指図なさっていました」

 そういえば、タビーはウェンビューという異国の男に伯爵夫人の弟かと尋ねられた。それなりの物を着せてくれたからなのかとタビーは気付いた。
 人間の真似事をするのは猫の暮らしとはまた別の面白みがあるように思われた。



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