西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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別れ

6 送別の宴

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 さて、ここから先は章子の祖父の語りとなる。



 下宿を出る前日の夜、送別の宴が行なわれた。
 なんとパーティが始まる直前になってタッカー夫人がワインを持ってやって来た。主人の非礼を詫びたいということだった。我らは気にされることはない、ワインは喜んでいただくと夫人に言った。夫人は受け取ってもらえて嬉しいと言って帰宅した。タッカー大佐自身の気持ちはどうかわからぬが、夫人の気持ちはまことに尊いことだった。
 エイムズ夫人の料理はみごとなものだった。いつもティータイムに食べる果実の入ったプディングとは違った腸詰めの入ったプディングはまことに美味であった。名まえが「穴の中のヒキガエルトード・イン・ザ・ホール」というのはいただけぬが。
 タッカー夫人の持ってきたワインもいただいた。対岸のフロラン産のもので、リチャードが言うにはこれは上物だということだった。どうもワインに関してはインガレス産は好まれぬようだった。
 石田もよく食べた。蒸した芋をつぶしてクリームと混ぜて味付けしたマッシュポテトが特に気に入ったようで、この芋は何という種類でどうやって作るのかと夫人に質問していた。夫人は種類を答えられずに困惑していた。エイムズ氏はもし気候に合うならお国に広めたらいいと話し、知り合いの農業の専門家に問い合わせようと言ってくれた。
 食事を終え、胡桃の入った焼き菓子を食べていると、下女がやって来て夫人に耳打ちした。夫人は少し遠慮がちに我らに声をかけた。

「ヴァッケンローダー伯爵夫人が皆さんにお別れの挨拶をしたいとおいでになったけれど、どうなさいますか」

 夫人には私から石田の恋慕のことを伝えていた。ただ石田には故国に許嫁がおり、勉学という使命もあるので、女人に心を惑わせるわけにはいかないとも伝えていたので、エイムズ夫人は石田の前で隣の伯爵夫人のことは口にしなかった。
 だが、さすがに下宿から引き払うことになったとあれば、挨拶くらいはさせてやりたいというのが人情なのであろう。
 確かに伯爵夫人から別れの挨拶があれば、石田の気持ちにもけじめがつくに違いない。石田もまだ彼女に別れを告げていないのだ。
 当の石田の顔を見ると、唇をぎゅっと引き締めていた。

「はい。私もお別れを告げねばなりません」

 石田の返事を受けて、夫人は下女に伯爵夫人を呼びにやらせた。
 夫人は生垣に咲いていた緋毛氈の色のバラの花束を美しい浅緑の薄紙で包んで持ってきていた。相変わらず美しいかんばせである。
 私と石田は立ち上がった。

「我らのために御足労くださり、まことに光栄の至りでございます」

 伯爵夫人に礼を欠かぬように私は言った。夫人は憂いを秘めた表情を隠さなかった。

「せっかくお近づきになれたのに、残念なことです。このバラは当家の庭に咲いたもの。餞別に差し上げます」
「ありがとうございます」

 石田は花束を受け取った。

「さようなら、お元気で」

 石田の言葉はそっけなく聞こえるかもしれぬが、その時の私には万感の思いのこもったものに感じられた。
 夫人は声を震わせて答えた。

「さようなら。あなたのお幸せを祈っています」

 エイムズ夫人はお茶を勧めたが、夫人はもう遅いのでと言い部屋を出た。
 ふと私は気になっていたことを思い出した。

「ちょっと失礼します」

 立ち上がり、先ほど夫人が出て行ったドアを開け廊下に出た。そこから玄関へ向かった。
 玄関近くの廊下の壁に小さな姿見が懸けられていたはずである。疑念を確かめることができるかもしれぬ。
 下女は私が来たのを不審げな顔で見た。が、夫人は私になど目もくれなかった。
 私は姿見の向かい側の壁に立った。この角度なら夫人の姿が見えるはずであった。
 小柄な下女の頭の上部が姿見に映った。夫人は下女より頭一つ大きいから頭だけでなく首も胸元も見えるはずである。
 私は息をのんで姿見を見つめた。
 果たして夫人は鏡に映るのであろうか。もし映らなかったとしたら……。
 次の瞬間、玄関横の小窓から目もくらむような白くまばゆい光が漏れたかと思うと、凄まじい雷鳴が鳴り響いた。
 あっと思った時には夫人は姿見の前を通り過ぎ、こちらに背を向けて開いたドアの手前に立って、稲光のする空を見つめていた。

「大丈夫ですか」

 私の背後から石田が駆けてきた。
 彼女を隣家まで送ろうとする石田を私は止めることができなかった。身動きができなかったのだ。



 石田はじきにエイムズ家に戻って来た。その途端に雨が降り出した。インガレスには珍しい大粒の雨であった。雨は夜半まで降り続いた。
 翌朝は嘘のように晴れわたり、私たちはエイムズ家の人々に見送られ手荷物だけを持って汽車でラングのいる家に向かった。石田はバラの花束をエイムズ夫人に献上していた。
 汽車の中で私は何も尋ねなかった。が、石田は言った。

「もう会うことはあるまい」

 石田は堅く己に誓ったようだった。



 章子は祖父の声がかすれ気味になってきたので白湯の入った湯呑を渡した。

「すまぬな。あと、もう少しなのだが、今日は疲れた。どうも、前のように話ができぬ」
「この前のように熱を出しては皆が心配します」
「そうだな。続きはまた」

 祖父はそう言って、起こしていた身体を床の中に横たえた。
 章子は自室に戻った。
 ヴァッケンローダー伯爵夫人。
 一体、何者なのであろうか。ひょっとしたらと思い、章子は書棚の奥に隠すように置いた本を取り出した。「世界の怪異譚」という題名もおどろおどろしい書物であった。両親が見たら、かようないかがわしいものは読んではならぬと言うに決まっているので、出入りの書店では買わず、級友に頼んでその叔父が経営している書店から入手したものだった。
 パラパラとめくった。あった。
 「女吸血鬼」という項目があり、夜の闇に美しい女性が犬歯をむき出しにして微笑んでいる挿絵は禍々しかった。
 恐らく石田の首筋にこの犬歯を突き立てたに違いなかった。鏡に映らないという記述とも一致する。
 これが夫人の正体なのではないか。
 だとすると、石田はどうなってしまうのであろうか。
 吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼となってしまう。石田は首筋に咬み痕があったのだから吸血鬼になってしまったのではないか。それなのに、伯爵夫人と別れることなどできるのであろうか。一体、石田はどうなってしまったのか。他の人間の生き血を吸うようになってしまったのではないか。
 章子は会ったこともない石田という男の境遇を思い身震いがしてきた。よもや、今も吸血鬼となってこの世をさまよっているのではないか。なんという恐ろしくも哀れなことか。
 まこと西洋にはこの国にはいない化け物がいるらしい。きっと、祖父は化け物がいるから行くべきではないと言いたいのであろう。
 だが、化け物に遭うこともなく、留学して名を成し、英学塾を創設した女性もいる。自分は男に迷わず吸血鬼の誘惑にも負けず、学問を究めると章子は決意したのだった。


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