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別れ
4 ろくでもない奴ら
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夕刻、目覚めたカロリーネはカールから顛末を聞き、怒りを露わにした。
「そのバカな小倅のせいということね」
「恐らく」
とにかく今はテレーズの身体を治さねばならない。ラルフ・ブライトンへの復讐はいつでもできる。
すぐにテレーズの部屋に行くと、テーブルの上の小さなかごの中で白い鼠が眠っていた。胸のあたりが上下していた。息があるなら大丈夫と、カロリーネは両手でテレーズの身体を覆い、治癒の呪文を唱えた。みるみるうちに猫の爪で傷つけられた傷がふさがり、抜けた毛が生えてきた。一番大きな尻尾の根元の咬み傷は時間がかかったが、なんとかふさがった。
カロリーネは白い鼠をベッドに運び、最後に人化の呪文を唱えた。
たちまち白い鼠の身体は大きく伸びたかと思うとテレーズの姿となった。真っ白な肌の上に毛布をかけてやると、カロリーネを見上げた。
「奥様、申し訳ありません」
術を終えたカロリーネは大きく息を吐いた。
「話は明日ね。今夜はよくお休み。まだ身体は元通りではないのだから」
後はマリイとルイーズに頼んで食堂に行った。すでに夕餉の支度がされていた。いつもより厚みのある子牛のフィレステーキやミートパイが並んでいたが、それをすべて食べても満足できなかった。
無性に血が欲しかった。治癒魔術は魔力をかなり使うのだ。血が足りなかった。幾三郎の顔を思い浮かべた。だが、エイムズ家にはあの丸顔の内川という留学生もいる。幾三郎一人であれば血が吸えるのに。
いや、いけない。彼はカロリーネの吸血のせいで身体が悪くなったと思われているのだ。もう血を吸うわけにはいかない。
「奥様、お散歩ですか」
マントの用意を頼むとカールが心配そうに言う。
「ブライトンの馬鹿息子は後でゆっくり嬲るから」
「お気を付けください」
カロリーネは黒いマントを羽織ると宵の闇に消えていった。
その夜、カロリーネはドンロリアの裏町の私娼窟近くで紳士数名から血をいただいた。
最後に目を付けたのは海軍士官だった。スティーブ・ラングというその男は一緒に飲んでいた男の分の支払いもしていた。ずいぶん羽振りがいいとカロリーネはマントのフードの陰から見ていた。
都会の人間の血はあまりおいしくないのだが、軍人に限ってはそれほどでもなかった。適度に運動をしているためかもしれない。
カロリーネはラングの後を追うように店を出た。
ラングのやけに甲高い声が聞こえた。
「ジルパンの留学生のおかげさ。なんたって政府がバックにいるんだ」
「けど、噂じゃ、政府ヤバいんだろ」
「そんなことはない。安心しろ」
何やら気になる発言だった。政府がバックにいるとはどういうことなのか。
彼は一緒に飲んでいた男に、ジルパン政府から留学生への送金を中抜きしていること等を自慢げに語った。
「勝手に下宿するなどと騒いだり、ったく後進国の癖に一人前のことを言うんだ、奴らは」
「いいのか。ジルパンの連中は刀を持ってるんだろ」
「あんなのは飾りさ」
この男が留学生を監督しているなど、言語道断だった。他国からはるばる来た留学生の志を思えば、後進国の癖になどという言葉は出てこないはずである。カロリーネの中の怒りに火が着いた。
ラングの血を吸う気にはとてもなれなかった。こんな男の血など飲んだら穢れると思った。
カロリーネに近づくためテレーズにつきまとったラルフ・ブライトンも、ジルパンの留学生を食い物にしているらしいスティーブ・ラングも、どうしようもない男どもだった。
許せなかった。
だが、今はテレーズのことが先だった。テレーズの傷付いた身体を癒さねばならなかった。
カロリーネは別の男に目をつけ、その血を吸った。幾三郎の血の味には劣ったが。
翌日、カールはテレーズの語った経緯を報告した。ラルフにつきまとわれ鼠に化して逃げたら、スコット家のタビーという飼い猫に追われて怪我をしてなんとか蔦を伝って塀を越えて来たと聞かされ、余りの痛ましさに涙が出そうになった。タビーはこの辺りで一番大きな猫だった。小さくなったテレーズにとってはさぞ恐ろしかったに違いない。鼠を追うのは猫の習性だからタビーをどうこうする気にはなれなかった。ラルフに非があるのは明らかだった。
テレーズの部屋に行くと、かなり顔色はよくなっていた。カロリーネはベッドから上半身を起こそうとするのを制した。まだ尻尾周辺の傷は完治していない。
テレーズは申し訳ありませんと言って、横になったまま、エイムズ家の下女から聞いた話を告げた。
「タッカー家の留学生は、エイムズ家の留学生と元いたドンロリアの家に戻るそうです」
思いもよらぬ話であった。だが、昨夜のラングの様子を思い出すとありえると思った。
「ラングとかいう海軍士官の家かしら」
「はい。そうです。以前に金銭関係のいざこざがあって共同生活をやめて下宿に移ったのだそうです。そうしたら、大臣の名まえでラングのところに戻るようにと命令があったそうです」
昨夜のラングは恐らく再び金づるにありつけた前祝いでもしていたに違いなかった。
「今度はドンロリア大学の聴講生になれるということです」
大学の聴講生の件はいいが、問題はラングだった。あんな腐った男のいいようにされていいわけがない。
カロリーネはテレーズの尻尾の傷に治癒の魔術を施すと、よく休むようにと言い、アレックス・ダドリーに手紙を書くために居間に戻った。
アレックスは海軍や外務省の関係者との交遊があった。彼なら留学生の事情もよく知っているに違いなかった。
そこへカールが封筒を持って来た。アレックスからの招待状だった。明日面白い客が来るとあった。
「そのバカな小倅のせいということね」
「恐らく」
とにかく今はテレーズの身体を治さねばならない。ラルフ・ブライトンへの復讐はいつでもできる。
すぐにテレーズの部屋に行くと、テーブルの上の小さなかごの中で白い鼠が眠っていた。胸のあたりが上下していた。息があるなら大丈夫と、カロリーネは両手でテレーズの身体を覆い、治癒の呪文を唱えた。みるみるうちに猫の爪で傷つけられた傷がふさがり、抜けた毛が生えてきた。一番大きな尻尾の根元の咬み傷は時間がかかったが、なんとかふさがった。
カロリーネは白い鼠をベッドに運び、最後に人化の呪文を唱えた。
たちまち白い鼠の身体は大きく伸びたかと思うとテレーズの姿となった。真っ白な肌の上に毛布をかけてやると、カロリーネを見上げた。
「奥様、申し訳ありません」
術を終えたカロリーネは大きく息を吐いた。
「話は明日ね。今夜はよくお休み。まだ身体は元通りではないのだから」
後はマリイとルイーズに頼んで食堂に行った。すでに夕餉の支度がされていた。いつもより厚みのある子牛のフィレステーキやミートパイが並んでいたが、それをすべて食べても満足できなかった。
無性に血が欲しかった。治癒魔術は魔力をかなり使うのだ。血が足りなかった。幾三郎の顔を思い浮かべた。だが、エイムズ家にはあの丸顔の内川という留学生もいる。幾三郎一人であれば血が吸えるのに。
いや、いけない。彼はカロリーネの吸血のせいで身体が悪くなったと思われているのだ。もう血を吸うわけにはいかない。
「奥様、お散歩ですか」
マントの用意を頼むとカールが心配そうに言う。
「ブライトンの馬鹿息子は後でゆっくり嬲るから」
「お気を付けください」
カロリーネは黒いマントを羽織ると宵の闇に消えていった。
その夜、カロリーネはドンロリアの裏町の私娼窟近くで紳士数名から血をいただいた。
最後に目を付けたのは海軍士官だった。スティーブ・ラングというその男は一緒に飲んでいた男の分の支払いもしていた。ずいぶん羽振りがいいとカロリーネはマントのフードの陰から見ていた。
都会の人間の血はあまりおいしくないのだが、軍人に限ってはそれほどでもなかった。適度に運動をしているためかもしれない。
カロリーネはラングの後を追うように店を出た。
ラングのやけに甲高い声が聞こえた。
「ジルパンの留学生のおかげさ。なんたって政府がバックにいるんだ」
「けど、噂じゃ、政府ヤバいんだろ」
「そんなことはない。安心しろ」
何やら気になる発言だった。政府がバックにいるとはどういうことなのか。
彼は一緒に飲んでいた男に、ジルパン政府から留学生への送金を中抜きしていること等を自慢げに語った。
「勝手に下宿するなどと騒いだり、ったく後進国の癖に一人前のことを言うんだ、奴らは」
「いいのか。ジルパンの連中は刀を持ってるんだろ」
「あんなのは飾りさ」
この男が留学生を監督しているなど、言語道断だった。他国からはるばる来た留学生の志を思えば、後進国の癖になどという言葉は出てこないはずである。カロリーネの中の怒りに火が着いた。
ラングの血を吸う気にはとてもなれなかった。こんな男の血など飲んだら穢れると思った。
カロリーネに近づくためテレーズにつきまとったラルフ・ブライトンも、ジルパンの留学生を食い物にしているらしいスティーブ・ラングも、どうしようもない男どもだった。
許せなかった。
だが、今はテレーズのことが先だった。テレーズの傷付いた身体を癒さねばならなかった。
カロリーネは別の男に目をつけ、その血を吸った。幾三郎の血の味には劣ったが。
翌日、カールはテレーズの語った経緯を報告した。ラルフにつきまとわれ鼠に化して逃げたら、スコット家のタビーという飼い猫に追われて怪我をしてなんとか蔦を伝って塀を越えて来たと聞かされ、余りの痛ましさに涙が出そうになった。タビーはこの辺りで一番大きな猫だった。小さくなったテレーズにとってはさぞ恐ろしかったに違いない。鼠を追うのは猫の習性だからタビーをどうこうする気にはなれなかった。ラルフに非があるのは明らかだった。
テレーズの部屋に行くと、かなり顔色はよくなっていた。カロリーネはベッドから上半身を起こそうとするのを制した。まだ尻尾周辺の傷は完治していない。
テレーズは申し訳ありませんと言って、横になったまま、エイムズ家の下女から聞いた話を告げた。
「タッカー家の留学生は、エイムズ家の留学生と元いたドンロリアの家に戻るそうです」
思いもよらぬ話であった。だが、昨夜のラングの様子を思い出すとありえると思った。
「ラングとかいう海軍士官の家かしら」
「はい。そうです。以前に金銭関係のいざこざがあって共同生活をやめて下宿に移ったのだそうです。そうしたら、大臣の名まえでラングのところに戻るようにと命令があったそうです」
昨夜のラングは恐らく再び金づるにありつけた前祝いでもしていたに違いなかった。
「今度はドンロリア大学の聴講生になれるということです」
大学の聴講生の件はいいが、問題はラングだった。あんな腐った男のいいようにされていいわけがない。
カロリーネはテレーズの尻尾の傷に治癒の魔術を施すと、よく休むようにと言い、アレックス・ダドリーに手紙を書くために居間に戻った。
アレックスは海軍や外務省の関係者との交遊があった。彼なら留学生の事情もよく知っているに違いなかった。
そこへカールが封筒を持って来た。アレックスからの招待状だった。明日面白い客が来るとあった。
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