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太陽の国から来た男

9 会いたくて ★

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 食事を終えた後、カロリーネはジルパンのことを書いた書物を開いた。
 ネルランドや他の国で手に入れたジルパン研究者の手になるものだった。ボージルトの著作もある。
 神秘に満ちた将軍の城、すだれの向こうから覗き見る高貴な女性達、好奇心旺盛な庶民、探求心の塊のような学者達、これまでカロリーネの知識欲を満たしてくれたものだった。けれど、恋愛となるとその記述だけでは満たされない。
 ジルパンに行けるのは男性だけだった。彼らはいずれもジルパンの女性を称賛していた。色は白く肌のきめは細かく、魅惑の微笑みをたたえ、男達を優しくもてなすと。
 そのようなジルパンの女性とイクサブロウが初めての夜を過ごしたのではないかと想像すると、心が乱れた。ジルパンの女がイクサブロウに女を喜ばせる手管を教えたのかもしれない。過去のことと割り切ったつもりなのに。



 赤ワインを飲む異国の者をジルパンでは血を吸う鬼のように思う者もいるという記述もあった。
 そう思った時、カロリーネは泣きたくなった。
 吸血の記憶は吸われたほうには残らない。一時的に貧血状態になり気が遠くなるし、カロリーネ達吸血鬼の唾液にはその前後の記憶を消す成分があるようだった。
 かつて、クロードは好意を持つ人間は血を吸われても忘れないと言っていた。
 カロリーネの場合はクロードに血を吸われた記憶があったが、それ以上にクロードに恋していたので恐怖を感じなかった。吸血も愛の行為の一部だと思っていた。
 つまり昨夜吸血のことなど何もなかったかのようにカロリーネと交わったイクサブロウは好意など持っていなかったということではないのか。女性との経験のある彼が吸血が普通のことだと思うはずがない。
 ただ貧血のせいで今日はぼっとしているかもしれない。貧血をカロリーネとの房事が原因と思うかもしれない。それが元で昨夜のことを悔やみはすまいか。
 もう二度とあのような夜を過ごさぬと決めたら……。
 異国で故国の言葉を話さぬと決め、事の最中でも一度しか口にしなかったような男なのだ。その意志の強さを思うと、ありえない話ではなかった。
 言葉は武器と言った男に心惹かれたのに、その意志の強さゆえに別れることになったら……。
 カロリーネはああっと嘆きの息を吐いた。
 花開くことなくしおれていくつぼみを想像し、カロリーネは居ても立っても居られなかった。
 つぼみに水が欲しい。声が聞きたい。いや姿を見るだけでも。
 クロードの時とはまるで違った。クロードはカロリーネという花に水を与え、養分を与えることを怠らなかった。カロリーネはただただ、水と養分を待っていればよかった。それですべて満たされていた。
 けれど、イクサブロウは違う。カロリーネが自分で水を汲んで養分を用意しなければならない。そうしなければつぼみは枯れ花は永遠に開くことはない。
 イクサブロウに会いたい。



 カロリーネはあの屋根裏部屋の窓の外から部屋を覗いていた。ランプの灯りの下、イクサブロウは分厚い書物を広げ、ノートにペンで文字を書き記していた。薄汚れた窓ガラスのおかげもあって、夢中になっている彼はカロリーネにまったく気づいていなかった。
 真面目なイクサブロウ。誇らしい男だった。言葉という武器を手にして、母国のために知識を貪欲に吸収しようとしている。自分が恋する男はこんなにも尊い行ないをしようとしている男なのだ。
 けれど、それゆえに、愛の花は枯れようとしている。

「イクサブロウ」

 やるせなさに呟いた時だった。彼が机から顔を上げ、窓を振り返った。

「カロリーネ!」

 口の形が自分の名を呼んだように思え、カロリーネは身をすくめた。
 ほぼ同時に、窓が押し上げられた。

「どうしてそこに!」

 驚きの声を上げるイクサブロウにカロリーネは反射的に答えた。

「あなたに会いたくて」

 我慢できなかった。カロリーネは窓から部屋に飛び降りるように入った。

「あなたという方は、なんと危険なことを」

 咎めるようなイクサブロウの声を聞けるだけでカロリーネは幸せだった。

「ミャーロッパの婦人はいつもこんなことをするのですか」

 するわけがない。けれど、カロリーネは言った。

「女は愛の力があれば、どこへでも飛んでいきます」

 言いきらぬうちに、カロリーネはイクサブロウに抱き付いた。勢いあまってイクサブロウはベッドに押し倒された。

「カロリーネ!」

 大きく見開かれた目がはっきり見えた。少し充血していた。昨夜の睡眠が足りなかったのだろう。彼の身体を思えば、昨夜のようなことはできない。そう思ってベッドから離れようとした。が、腰をぎゅっと両腕で掴まれた。

「イクサブロウ!」

 嬉しいけれど、このまま抱かれてはいけないと思った。

「お疲れで」

 言いかけた言葉はイクサブロウの唇によって遮られた。熱い唇、舌。昨夜の感触を思い出すだけで、身体が熱くなってくる。開きかけた唇に舌が侵入した。
 いけないことだと思っても、唇は思う通りになってくれなかった。



 女は愛の力があればどこへでも飛ぶとカロリーネは言ったけれど、男もまた愛の力があれば、疲れをも忘れるものらしい。
 ベッドの上でカロリーネはイクサブロウにうつ伏せに組み敷かれていた。口づけの後、飢えた人のように、イクサブロウはカロリーネのドレスの裾を捲り上げ、ドロワーズを脱がせると、ズボンを脱ぎふんどしも解いてあのしなやかな硬いドラゴンをすでに用意のできていた花芯に侵入させたのだ。
 白い尻を高く上げて、カロリーネはこんこんと湧く泉にドラゴンの頭を迎え入れた。

「あなたが欲しい」

 イクサブロウの艶めいた声が耳朶を打つ。
 愛撫もない交わりに、カロリーネは興奮していた。触れられもしないのに、乳首は昂ぶり、シュミーズとこすれ合う度に、カロリーネの背筋をぞくぞくとさせた。
 クロードとも同じような体勢で交わったことがある。だが、その記憶はイクサブロウの動きに伴い薄らいでいった。まるで違うのだ。柔壁に突き当たる一物の硬さ、緩急のタイミング、勢い、すべてが、カロリーネのこれまでの体験を凌駕した。まるでケダモノが交わるような激しさだった。その癖、囁かれる言葉は柔らかい。

「夢のようだ」
「あなたはバラよりも美しい」
「ユリのように薫り高い」
「あなたの身体はまるで芸術作品だ」

 決して洗練された言い方ではない。けれどこれほどの賛美を異国の言葉で語ろうとする努力を思えば、泣きたくなるほど心地よかった。
  
「私の王様」

 巫山の女神のごときカロリーネの呼びかけに、イクサブロウはああっと艶を含んだ吐息で答え、果てた。



「昨夜のことは夢ではなかったのですね」

 カロリーネはイクサブロウの腕の中でその問いを聞いた。
 夢だと思っていたのかと愕然として、カロリーネは慌てて否定した。

「夢ではありません」
「よかった。巫山の女神のようにもう姿を見せないのかと」
「私は嫌われてしまったのかと思いました。フザンの女神のように一夜限りのことと」 

 イクサブロウははっとしたように、カロリーネを見つめた。

「まさか、一夜限りのことと思っておいでだったのですか」
「ええ。女神は一度しか姿を見せなかったのでしょう」
「申し訳ありません。私はあなたが女神のようだと言いたくて……」

 なんと可愛いことを言うのか。カロリーネはイクサブロウにぎゅっと抱き付いた。



 明け方、カロリーネは寝台から身を起こした。イクサブロウは熟睡している。
 ふと窓を見ると、横に小さな鏡があった。
 カロリーネ達吸血鬼は鏡に映らない。なぜなら一度は亡者となり、魔力で甦った者達だからである。
 着ている服はこの世の物だから映る。けれど髪も顔も手も足も映ることはない。
 正体を知られぬために、鏡に映る角度に立たぬように用心しなければならない。
 だから今になって気付いたのは不覚だった。いくら無我夢中であったとはいえ。
 イクサブロウが鏡に映らぬことに気付いてしまったら……。それだけがカロリーネには気掛かりだった。
 吸血鬼だとわかれば恐れられる。愛など恐怖の前には木っ端みじんに砕けてしまう。

「起きたの?」

 後ろで眠そうな声がした。

「帰ります。お邪魔になりますから」

 言い終らぬうちに背後から抱きしめられた。
 どうか鏡に目が向きませんようにとカロリーネは祈った。

「あなたとずっといられたら」

 囁き声に流されそうになる自分が怖かった。

「あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり」

 ジルパンの言葉が背中を伝って聞こえた。だが、カロリーネの知っている言葉は「見て」「のち」「心」「くらぶる」「昔」「物」「思はざりけり」だけだった。意味がよくわからなかった。

「意味を教えてください」

 カロリーネは尋ねた。

「どんな意味だと思いますか?」

 逆に問われた。

「見た後の心に比べると昔は物を思わなかった」

 わかる範囲で答えた。

「これは、数百年前に作られた恋の歌です。初めての逢瀬の後の気持ちに比べて、昔は物思いをしなかったものだという意味です。見るというのは、ただ見るのではなく会って情を交わすことです。私たちのように」

 インガレス語での説明だったが、カロリーネにもなんとなく理解できた。

「会う前は物思いをしなかったけれど、会って情を通わせると物思いが増えたということですね」
「ええ」

 ジルパンの詩人はなんと繊細に恋心を歌うのであろうか。カロリーネもまたイクサブロウと交わって以降、以前にはなかった物思いをするようになった。まるでそれを見ているかのような短い詩だった。
 イクサブロウは起き上がって寝間着をまとい、机の前に座り、インクで紙にその詩を書いた。
 紙を渡されたカロリーネは詩を読み上げた。美しい響きだった。
 イクサブロウは紙にカタカナでカロリーネと書いた。

「あなたの名まえです」

 以前にアルベルトに書いてもらったことがあったので読めた。

「あなたの名まえは」

 言い終らぬうちに「カロリーネ」の隣に「石田幾三郎」の文字が書かれた。 


 和歌の話をしているうちに空が白くなってきた。身支度をして暇を乞うと、幾三郎は言った。
 
「お屋敷まで送ります」
「いえ、結構です」
「昨夜はつい眠り呆けてあなたを一人で帰してしまいました。紳士として恥ずかしい」

 窓から出て行くところなど見られては困る。それに鏡に映らないことに気付かれたら。今、カロリーネは幾三郎と鏡の間に立っているので、幾三郎に鏡は見えない。だが、少し動けば鏡が見えてしまう。

「嬉しい」

 そう言ってカロリーネは幾三郎を抱き締めた。幾三郎もひしと抱き締めた。次の瞬間、カロリーネは首筋に犬歯を立てた。苦肉の策だった。ここで吸血すれば、幾三郎は気が遠くなるはずである。一度吸われて貧血状態になっているのだから。三口ほど吸うと幾三郎の腕から力が抜けた。カロリーネは幾三郎をベッドに横たえた。
 少しだけ胸が痛んだ。私はこの純粋な人に真実を告げることはできない。真実の愛を捧げてくれているのに。



 その日、カロリーネは二枚の紙を枕元に置いて眠った。「和歌」という短い詩と幾三郎とカロリーネの名が並んだ物である。
 幾三郎は和歌は千年前から作られていたと言っていた。エンペラーから一般庶民までが五・七・五・七・七と指折り数えて詠んでいたと言う。侍もまた死の前に辞世と言って和歌を詠んだと聞いた時は驚いた。無論、幾三郎も作れるとのことだった。
 ジルパンでは短い詩をやりとりすると書物で読んだことはあったが、目の前の幾三郎から歌のことを教えられると、ありありと歌の贈答をする男女の姿が思い浮かんだ。
 カロリーネはめったに夢を見ない。クロードがいなくなった後に悪夢で目覚めたことはあったが、それ以降記憶に残っている夢はない。
 けれど、カロリーネは版画の女の姿をして幾三郎と歌を作る夢を見た。
 目覚めた時、夢が醒めなければいいのにと思ったのは初めてのことだった。
 と同時に、気掛かりを思い出し、ため息をついた。
 あの鏡。なんとかしなければならない。あの鏡に映らないことに気付かれたら何もかもおしまいだ。
 それに妻子の有無も訊けなかった。考えてみれば、カロリーネは幾三郎の年齢も知らないのだ。だが、年齢の話をすれば、カロリーネも年齢を教えないわけにはいかない。偽りの年齢を。幾三郎なら自身のことを正直に話してくれるはずなのに。
 まことにジルパンの古の詩人はなんという歌を詠んだのか。情を交わし合った後のほうが物思うことがこんなに多いとは。



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