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太陽の国から来た男
3 インガレスへ
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さて、カロリーネの話に戻ろう。
深い霧が立ち込めていた。
ここはインガレスの港町サウザンプール。船を降りて地面に立つと足元から這い寄るような寒さが襲ってきた。
「寒うございますね」
テレーズも身をすくめた。
「駅はこちらです」
カールはそう言うと辺りを注意深く見回し歩き始めた。
そう遠くない駅で一等客車に乗れば三時間ほどでドンロリアに着く。
初めてのインガレスだった。これまでミャーロッパ各地を転々としていたカロリーネはクロードの影響もあり、インガレスに好感を抱いていなかった。インガレスの技術革新はカロリーネの生活を豊かにはしたが、宸との戦争、インデスの支配、さらにはジルパンの一地方であるサツマとの交戦で非戦闘員の住む市街地に砲撃したという野蛮な行為を知れば、まともな国とは思えなかった。
だが、二人のインガレス人の女性がカロリーネの意識を変えた。
まず、小説家のシャーリー・ブランウェル。共にインガレス語を学んでいたテレーズが彼女の書いた「エレン・ジョーンズ」をカロリーネに勧め読み始めたところ、あまりの面白さに眠るのを忘れてしまった。それまでの小説のヒロインと違い美人ではないエレンが、ひたむきな愛と誠実な生き方を貫き最後に幸福になるという物語は、インガレスの女性でなくとも共感できた。カロリーネは素晴らしい女性作家を生んだインガレスの文化は悪くないかもしれないと思った。
そして、フランシス・ナイセル。アミリク戦争において看護婦団を率いて野戦病院で傷付いた兵士を看護しただけでなく、病院の環境を改善し死亡率を下げ「戦場の天使」と呼ばれた女性である。帰国後、ドンロリアに看護学校を設立した彼女の様々な活躍を知るにつけ、カロリーネはこれは大したもの、インガレスの女性は好戦的な男性とは大違いと思ったのだった。
この二人の女性の存在が、カロリーネの興味をインガレスに向けた。数年前から準備をし、インガレスにいる吸血鬼仲間と連絡を取り合い、移住を決めたのだった。
その日はドンロリアのホテルに宿をとった。
ロビーで吸血鬼仲間と落ち合った後、レストランで会食した。二人とも男性で、一人はドンロリアに住む商人アレックス・ダドリー、もう一人は郷紳トマス・キャメロンだった。いずれもカロリーネよりも年長、クロードよりは若かった。
「侯爵がお亡くなりになって何年になりますか」
「今年で二十二年になります」
そう答えたカロリーネは不死となって七十六年たっていた。
食事をしながらの話題は最近のインガレスやフロランの情勢であった。希望の条件に合致する家はすでに見つかっており、後は家主との交渉だけだった。それ以外のインガレスでの生活に必要な問題は片づいていたので話す必要はなかった。
吸血鬼は孤高の暮らしをしているように見えても、実際は人に寄生して生きていると言っていい。人間社会の変動があれば大いに影響を受ける。昔のように地方の館に引きこもって暮らしてばかりもいられないのである。
現に商人のアレックス・ダドリーも、郷紳のトマス・キャメロンもドンロリアの金融街の動きに詳しく、生き馬の目を抜く資本主義社会で日々糧を得ていた。
カロリーネ自身もクロードの遺産の株や債券の配当で生活しているから、どうしても経済の動きには敏感にならざるを得ない。
「アメロバニアの内戦以来インデスの綿花の価格が高騰してる」
「まだアメロバニアの綿花の生産は元に戻らないのかしら」
「奴隷解放で、労働者が減ってるからな」
アメロバニアは西大海を隔てた西の大陸にあり、ミャーロッパからの移民が建国した国である。移民たちは先住民を追いやって開拓を進め西へと拡大し、インガレスからの独立戦争に勝利し国家を樹立した。国土は広く地下資源の埋蔵量も豊富と言われ、この先どれだけ豊かになるか想像もつかぬ国であった。
その国で奴隷解放をめぐり内戦が起こったのが六年前のことである。終わったのは一昨年のことで解放を訴えた大統領側が勝利した。だが、その後、大統領は暗殺された。カロリーネは野蛮な国だと思った。奴隷制については、カロリーネは肯定できなかった。召し使う者にはそれなりの報酬と休暇を与えるべきで、それがたとえ使い魔であっても同様だと、クロードも言っていた。
「そうそう、知ってるか。アメロバニアの内戦で使われずに大量に残ったスタンリー社の銃、それがどこに売られたか」
アレックスは自慢げに語る。
「どこだ? フロランか?」
トマスは興味深々である。カロリーネは銃の行方には興味はなかった。
「フロランもだが、ジルパンさ。あの国では近々内戦が起きるともっぱらの噂だ」
カロリーネは危うく、紅茶のカップを落としそうになった。
「それは、本当なの?」
「ああ。あの国は腹切りの国だが、銃も結構出回ってるらしい。主に政府軍が購入しているそうだ。インガレスと戦ったサツマがチョウシュウと手を結んで政府を倒そうとしているので、それに対抗するためだと事情通の奴が話してた」
「御婦人とデザートを食べながら話すことじゃないな」
トマスはカロリーネの狼狽を見てアレックスをたしなめた。
「いえ、いいわ。それで、今ジルパンはどうなってるの? フロランに居る時、政府の外交使節を見たけど内戦が迫っているようには見えなかった」
カロリーネはアレックスからできるだけ多くの情報を引き出そうと思った。
ジルパンのことについて、カロリーネはこれまでも知りうる限りのことを調べていた。アメロバニアの太平洋艦隊のベル提督率いる黒船の来航をきっかけにジルパンは諸外国に扉を開き、ついには修好通商条約を結んだ。いくつかの港も開かれた。これによってジルパンの物が今まで以上にミャーロッパやアメロバニアに輸入されるようになった。
館を焼かれた時に失われたジルパンの精緻な版画より多くの版画をカロリーネはそれによって入手した。旅する人々やフジという赤い山の風景画、タコと戯れる女漁師や人のように二本足で立つ猫たちの絵、鮮やかな化粧を施した俳優の肖像等、ミャーロッパの絵画とは違い遠近法や人の骨格を無視した絵は力に溢れ、生きる喜びを感じさせた。
さらには、ミャーロッパにジルパン政府の外交使節団が訪れた。
初めて見たのはパロでのことだった。背丈はさほど高くはないが、不思議な形に結った髪と衣裳は版画と同じだった。彼らはいずれも胸を張り、目はつり気味で口を引き結んでいた。
その気迫に、カロリーネは感嘆すると同時に一体どんな味の血が流れているのか興味を持った。
カロリーネはクロードがいなくなってから週に一人の血を吸っていた。死なぬ程度に血をもらうには、田舎よりも都会が都合がよかった。人が多いし、警察の目の届かぬ裏通りは油断さえしなければ、血を吸う相手を探すには事欠かなかった。たまに危険なこともあるが、逃げるにも迷路のような都市の道路は便利だった。
フロランの警察は有能であったものの、裏通りの娼婦の取締については緩かった。深くマントをかぶったカロリーネが袋小路の奥で男の首に犬歯を立てているのを見ても、さほどうるさくはなかった。彼らは娼婦の過剰なサービスだと思い目くじらは立てなかった。
ただ、都会の人間の血の味は少し田舎より落ちる感じはあった。クロードとともにいる頃は田舎の人間の血を吸っていたが、さほどまずいとは思わなかった。ウイースにいる頃も郊外での吸血が多かった。だが、都会の人間の血を吸うようになると、食欲を減退させる味に出くわすことが増えた。
空気が悪いせいなのか、それとも食べ物がよくないのか。
クロードは恐らくカロリーネにおいしい血を飲ませたいと思い、田舎暮らしをしたのかもしれないと今になって思えてくる。
だから、ジルパンという国への興味だけでなく血の味への興味もあって、カロリーネは彼らのことが気になるのだ。
ホテルに三日ほど滞在した後、カロリーネ達はアレックスの所有する郊外の屋敷に移った。希望の条件の屋敷が空くまでそこに滞在する予定である。アレックス自身はふだん市内の家に住んでいるので支障はなかった。広い屋敷はテレーズとカールだけでは掃除もままならないので、通いの使用人五人が炊事、掃除、洗濯を担当した。
アレックスやトマスの手配で逗留中、舞踏会や劇場に行けたので退屈することはなかった。その合間にインガレスの外務省関係者の出席するパーティの招待状を手に入れ、ジルパンやその周辺の情勢も探った。
その結果、アレックスの話の裏付けが取れた。ジルパンの政府は数年前に大臣クラスの政治家が登城の折に暗殺されて以降、威信が損なわれ、有力諸侯が政府に反発し独自に武器を輸入し軍備を整えているとのことだった。政府はそれに対抗しフロラン人の軍事顧問を雇い兵制を変革しているが、有力諸侯の動きを牽制できていないようだった。
かつてアルベルト・ゼーマンはジルパンは御伽の国ではないと言っていた。ジルパンでもかつてのフロランの革命のような血生臭い争いが起きる恐れがあった。もはや、御伽の国ではない、ミャーロッパ諸国と同じような国なのだと、カロリーネはたおやかな娘達が花を見るさまが描かれた版画を見ながら思った。
その夜も、カロリーネはアレックスらと劇場に出かけた。だが、なんとなく客席がざわついていた。いつもの開演前のざわつきとは違い、なぜか、皆背後にあるボックス席を見上げている。
「さては、ジルパンの若者達だな」
アレックスの言葉にカロリーネは振り返った。明らかにミャーロッパ人ではない顔つきの者達がボックス席に並んでいた。皆神妙な顔つきだった。
ジルパン政府が派遣した留学生の話はカロリーネも聞いていた。新聞でも読んでいた。だが、実際に顔を見るのは初めてだった。着ている物は民族衣装ではなくインガレス人の着ている物と同じで髪も結ってはいなかった。そのせいか、パブリックスクールに在籍している子どもくらいの年齢に見えた。
「ずいぶん若いのね」
「二十を越した者も結構いるらしいけど」
「中には妻子持ちもいるらしい」
失礼かもしれぬと思いながら、カロリーネはボックス席を凝視した。目はいいのでオペラグラスまで使う必要はなかった。
同じような顔に見えるが、よく見れば顔立ちや雰囲気が違っていた。
その中にひときわ目を引く顔立ちの若者がいた。
細い身体に青白い顔をしていて、いかにも身体は虚弱そうだった。だが、目だけは輝いていた。隣にいる男に話しかけられて一瞬だけ微笑んだ時に白い歯が見えた。きれいだとカロリーネは思った。たおやかな乙女を描いた版画を思い出させる表情だった。
ふとアルベルト・ゼーマンのことを思い出した。皮肉屋の癖に亡くなる前に見せた侵し難い高貴な姿は、どこか少年に似ていた。
もしあの時、首筋に歯を立てていたら、彼が隣にいたかもしれないと思う。いや、彼のことだから、カロリーネを恨むかもしれない。結局、恋などには発展しえない間柄だった。それでよかったのだと思う。この少年もただの通りすがりなのだ。
カロリーネは間もなく幕が開く舞台に目を向けた。
それ以後もカロリーネはたびたび留学生らと遭遇した。といっても活動時刻が違うので、夕刻以後であったが。
彼らは若者らしい溌剌さに満ちていた。無用な言葉は口にしないが、そのまなざしは好奇心に満ちていた。
時折聞こえるジルパンの言葉は、すぐには意味のわからぬものもあった。
「べらぼうめ」
アルベルトの教えてくれた単語にもない言葉を口にした若者は少し癖のある話し方をしていた。これは地方の言葉なのだろう。アルベルトがサツマとエドでは同じ国とは思えぬ言葉を使っていると言っていた。
気になったので、ネルランドにいる医師のハンスに手紙を書くついでに尋ねてみることにした。医学生だったハンスも今や母校の大学で教鞭を執る身となっていた。
二週間後、返事が来た。
『私も知らない言葉だったので、同じ大学で東洋文化研究をしているファン・リール教授に尋ねたところ、それはエドの言葉だそうです。人を罵倒する際に使う言葉で主に町人が使うようです。恐らくその言葉を発した留学生は政府の下級役人もしくは金で身分を買った町人の子息ではないかと思います。政府は身分の低い若者でも優秀であれば抜擢する方針なのでしょう。それだけジルパン政府も必死なのではないでしょうか』
カロリーネは言葉の意味以上に、ハンスの推測に驚いた。最後の一文とアレックスの話を総合すれば、やはりジルパンの内乱は避けられぬのかもしれない。
深い霧が立ち込めていた。
ここはインガレスの港町サウザンプール。船を降りて地面に立つと足元から這い寄るような寒さが襲ってきた。
「寒うございますね」
テレーズも身をすくめた。
「駅はこちらです」
カールはそう言うと辺りを注意深く見回し歩き始めた。
そう遠くない駅で一等客車に乗れば三時間ほどでドンロリアに着く。
初めてのインガレスだった。これまでミャーロッパ各地を転々としていたカロリーネはクロードの影響もあり、インガレスに好感を抱いていなかった。インガレスの技術革新はカロリーネの生活を豊かにはしたが、宸との戦争、インデスの支配、さらにはジルパンの一地方であるサツマとの交戦で非戦闘員の住む市街地に砲撃したという野蛮な行為を知れば、まともな国とは思えなかった。
だが、二人のインガレス人の女性がカロリーネの意識を変えた。
まず、小説家のシャーリー・ブランウェル。共にインガレス語を学んでいたテレーズが彼女の書いた「エレン・ジョーンズ」をカロリーネに勧め読み始めたところ、あまりの面白さに眠るのを忘れてしまった。それまでの小説のヒロインと違い美人ではないエレンが、ひたむきな愛と誠実な生き方を貫き最後に幸福になるという物語は、インガレスの女性でなくとも共感できた。カロリーネは素晴らしい女性作家を生んだインガレスの文化は悪くないかもしれないと思った。
そして、フランシス・ナイセル。アミリク戦争において看護婦団を率いて野戦病院で傷付いた兵士を看護しただけでなく、病院の環境を改善し死亡率を下げ「戦場の天使」と呼ばれた女性である。帰国後、ドンロリアに看護学校を設立した彼女の様々な活躍を知るにつけ、カロリーネはこれは大したもの、インガレスの女性は好戦的な男性とは大違いと思ったのだった。
この二人の女性の存在が、カロリーネの興味をインガレスに向けた。数年前から準備をし、インガレスにいる吸血鬼仲間と連絡を取り合い、移住を決めたのだった。
その日はドンロリアのホテルに宿をとった。
ロビーで吸血鬼仲間と落ち合った後、レストランで会食した。二人とも男性で、一人はドンロリアに住む商人アレックス・ダドリー、もう一人は郷紳トマス・キャメロンだった。いずれもカロリーネよりも年長、クロードよりは若かった。
「侯爵がお亡くなりになって何年になりますか」
「今年で二十二年になります」
そう答えたカロリーネは不死となって七十六年たっていた。
食事をしながらの話題は最近のインガレスやフロランの情勢であった。希望の条件に合致する家はすでに見つかっており、後は家主との交渉だけだった。それ以外のインガレスでの生活に必要な問題は片づいていたので話す必要はなかった。
吸血鬼は孤高の暮らしをしているように見えても、実際は人に寄生して生きていると言っていい。人間社会の変動があれば大いに影響を受ける。昔のように地方の館に引きこもって暮らしてばかりもいられないのである。
現に商人のアレックス・ダドリーも、郷紳のトマス・キャメロンもドンロリアの金融街の動きに詳しく、生き馬の目を抜く資本主義社会で日々糧を得ていた。
カロリーネ自身もクロードの遺産の株や債券の配当で生活しているから、どうしても経済の動きには敏感にならざるを得ない。
「アメロバニアの内戦以来インデスの綿花の価格が高騰してる」
「まだアメロバニアの綿花の生産は元に戻らないのかしら」
「奴隷解放で、労働者が減ってるからな」
アメロバニアは西大海を隔てた西の大陸にあり、ミャーロッパからの移民が建国した国である。移民たちは先住民を追いやって開拓を進め西へと拡大し、インガレスからの独立戦争に勝利し国家を樹立した。国土は広く地下資源の埋蔵量も豊富と言われ、この先どれだけ豊かになるか想像もつかぬ国であった。
その国で奴隷解放をめぐり内戦が起こったのが六年前のことである。終わったのは一昨年のことで解放を訴えた大統領側が勝利した。だが、その後、大統領は暗殺された。カロリーネは野蛮な国だと思った。奴隷制については、カロリーネは肯定できなかった。召し使う者にはそれなりの報酬と休暇を与えるべきで、それがたとえ使い魔であっても同様だと、クロードも言っていた。
「そうそう、知ってるか。アメロバニアの内戦で使われずに大量に残ったスタンリー社の銃、それがどこに売られたか」
アレックスは自慢げに語る。
「どこだ? フロランか?」
トマスは興味深々である。カロリーネは銃の行方には興味はなかった。
「フロランもだが、ジルパンさ。あの国では近々内戦が起きるともっぱらの噂だ」
カロリーネは危うく、紅茶のカップを落としそうになった。
「それは、本当なの?」
「ああ。あの国は腹切りの国だが、銃も結構出回ってるらしい。主に政府軍が購入しているそうだ。インガレスと戦ったサツマがチョウシュウと手を結んで政府を倒そうとしているので、それに対抗するためだと事情通の奴が話してた」
「御婦人とデザートを食べながら話すことじゃないな」
トマスはカロリーネの狼狽を見てアレックスをたしなめた。
「いえ、いいわ。それで、今ジルパンはどうなってるの? フロランに居る時、政府の外交使節を見たけど内戦が迫っているようには見えなかった」
カロリーネはアレックスからできるだけ多くの情報を引き出そうと思った。
ジルパンのことについて、カロリーネはこれまでも知りうる限りのことを調べていた。アメロバニアの太平洋艦隊のベル提督率いる黒船の来航をきっかけにジルパンは諸外国に扉を開き、ついには修好通商条約を結んだ。いくつかの港も開かれた。これによってジルパンの物が今まで以上にミャーロッパやアメロバニアに輸入されるようになった。
館を焼かれた時に失われたジルパンの精緻な版画より多くの版画をカロリーネはそれによって入手した。旅する人々やフジという赤い山の風景画、タコと戯れる女漁師や人のように二本足で立つ猫たちの絵、鮮やかな化粧を施した俳優の肖像等、ミャーロッパの絵画とは違い遠近法や人の骨格を無視した絵は力に溢れ、生きる喜びを感じさせた。
さらには、ミャーロッパにジルパン政府の外交使節団が訪れた。
初めて見たのはパロでのことだった。背丈はさほど高くはないが、不思議な形に結った髪と衣裳は版画と同じだった。彼らはいずれも胸を張り、目はつり気味で口を引き結んでいた。
その気迫に、カロリーネは感嘆すると同時に一体どんな味の血が流れているのか興味を持った。
カロリーネはクロードがいなくなってから週に一人の血を吸っていた。死なぬ程度に血をもらうには、田舎よりも都会が都合がよかった。人が多いし、警察の目の届かぬ裏通りは油断さえしなければ、血を吸う相手を探すには事欠かなかった。たまに危険なこともあるが、逃げるにも迷路のような都市の道路は便利だった。
フロランの警察は有能であったものの、裏通りの娼婦の取締については緩かった。深くマントをかぶったカロリーネが袋小路の奥で男の首に犬歯を立てているのを見ても、さほどうるさくはなかった。彼らは娼婦の過剰なサービスだと思い目くじらは立てなかった。
ただ、都会の人間の血の味は少し田舎より落ちる感じはあった。クロードとともにいる頃は田舎の人間の血を吸っていたが、さほどまずいとは思わなかった。ウイースにいる頃も郊外での吸血が多かった。だが、都会の人間の血を吸うようになると、食欲を減退させる味に出くわすことが増えた。
空気が悪いせいなのか、それとも食べ物がよくないのか。
クロードは恐らくカロリーネにおいしい血を飲ませたいと思い、田舎暮らしをしたのかもしれないと今になって思えてくる。
だから、ジルパンという国への興味だけでなく血の味への興味もあって、カロリーネは彼らのことが気になるのだ。
ホテルに三日ほど滞在した後、カロリーネ達はアレックスの所有する郊外の屋敷に移った。希望の条件の屋敷が空くまでそこに滞在する予定である。アレックス自身はふだん市内の家に住んでいるので支障はなかった。広い屋敷はテレーズとカールだけでは掃除もままならないので、通いの使用人五人が炊事、掃除、洗濯を担当した。
アレックスやトマスの手配で逗留中、舞踏会や劇場に行けたので退屈することはなかった。その合間にインガレスの外務省関係者の出席するパーティの招待状を手に入れ、ジルパンやその周辺の情勢も探った。
その結果、アレックスの話の裏付けが取れた。ジルパンの政府は数年前に大臣クラスの政治家が登城の折に暗殺されて以降、威信が損なわれ、有力諸侯が政府に反発し独自に武器を輸入し軍備を整えているとのことだった。政府はそれに対抗しフロラン人の軍事顧問を雇い兵制を変革しているが、有力諸侯の動きを牽制できていないようだった。
かつてアルベルト・ゼーマンはジルパンは御伽の国ではないと言っていた。ジルパンでもかつてのフロランの革命のような血生臭い争いが起きる恐れがあった。もはや、御伽の国ではない、ミャーロッパ諸国と同じような国なのだと、カロリーネはたおやかな娘達が花を見るさまが描かれた版画を見ながら思った。
その夜も、カロリーネはアレックスらと劇場に出かけた。だが、なんとなく客席がざわついていた。いつもの開演前のざわつきとは違い、なぜか、皆背後にあるボックス席を見上げている。
「さては、ジルパンの若者達だな」
アレックスの言葉にカロリーネは振り返った。明らかにミャーロッパ人ではない顔つきの者達がボックス席に並んでいた。皆神妙な顔つきだった。
ジルパン政府が派遣した留学生の話はカロリーネも聞いていた。新聞でも読んでいた。だが、実際に顔を見るのは初めてだった。着ている物は民族衣装ではなくインガレス人の着ている物と同じで髪も結ってはいなかった。そのせいか、パブリックスクールに在籍している子どもくらいの年齢に見えた。
「ずいぶん若いのね」
「二十を越した者も結構いるらしいけど」
「中には妻子持ちもいるらしい」
失礼かもしれぬと思いながら、カロリーネはボックス席を凝視した。目はいいのでオペラグラスまで使う必要はなかった。
同じような顔に見えるが、よく見れば顔立ちや雰囲気が違っていた。
その中にひときわ目を引く顔立ちの若者がいた。
細い身体に青白い顔をしていて、いかにも身体は虚弱そうだった。だが、目だけは輝いていた。隣にいる男に話しかけられて一瞬だけ微笑んだ時に白い歯が見えた。きれいだとカロリーネは思った。たおやかな乙女を描いた版画を思い出させる表情だった。
ふとアルベルト・ゼーマンのことを思い出した。皮肉屋の癖に亡くなる前に見せた侵し難い高貴な姿は、どこか少年に似ていた。
もしあの時、首筋に歯を立てていたら、彼が隣にいたかもしれないと思う。いや、彼のことだから、カロリーネを恨むかもしれない。結局、恋などには発展しえない間柄だった。それでよかったのだと思う。この少年もただの通りすがりなのだ。
カロリーネは間もなく幕が開く舞台に目を向けた。
それ以後もカロリーネはたびたび留学生らと遭遇した。といっても活動時刻が違うので、夕刻以後であったが。
彼らは若者らしい溌剌さに満ちていた。無用な言葉は口にしないが、そのまなざしは好奇心に満ちていた。
時折聞こえるジルパンの言葉は、すぐには意味のわからぬものもあった。
「べらぼうめ」
アルベルトの教えてくれた単語にもない言葉を口にした若者は少し癖のある話し方をしていた。これは地方の言葉なのだろう。アルベルトがサツマとエドでは同じ国とは思えぬ言葉を使っていると言っていた。
気になったので、ネルランドにいる医師のハンスに手紙を書くついでに尋ねてみることにした。医学生だったハンスも今や母校の大学で教鞭を執る身となっていた。
二週間後、返事が来た。
『私も知らない言葉だったので、同じ大学で東洋文化研究をしているファン・リール教授に尋ねたところ、それはエドの言葉だそうです。人を罵倒する際に使う言葉で主に町人が使うようです。恐らくその言葉を発した留学生は政府の下級役人もしくは金で身分を買った町人の子息ではないかと思います。政府は身分の低い若者でも優秀であれば抜擢する方針なのでしょう。それだけジルパン政府も必死なのではないでしょうか』
カロリーネは言葉の意味以上に、ハンスの推測に驚いた。最後の一文とアレックスの話を総合すれば、やはりジルパンの内乱は避けられぬのかもしれない。
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