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太陽の国から来た男
2 恋の始まり
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さて共同生活はなかなか楽しかった。
だが、問題があった。同じ日本人同士が一緒の場所にいては語学力がつかぬのだ。
実はシソハイやコンホンにもすでに日本人が幾人かいた。彼らはそこに一人でおるので、宸国人やインガレス人との会話に不自由しなかった。やはり同じ言葉を話す者がそばにいては異国の会話は上達せぬものらしい。
それに我らは実利的な学問を求めてインガレスに来たのだ。会話は当然だが、政治や工学、兵学の勉強がしたかった。なにしろ、インガレスは産業革命の始まりの国なのだから。すでに佐津間から来た留学生らはしかるべき大学に通い着々と専門知識を身に付けていた。しかるに海軍士官ラングはそこまでの教育を考えていなかった。相応の資金は御公儀から出ておるというのに。我らは皆不満を募らせていた。
そこで我らは徒党を組んで、ラングに直訴した。それぞれをインガレス人の家庭に下宿させ勉学させるようにと。
ラングは驚いたものの、我らの要求をのんだ。
結局、取締の川島様らと十三歳で一番年少の者と労咳の気のある者以外はそれぞれ別々の家庭に下宿することとなった。
私はヒッティングノルのエイムズ家に移った。
偶然にも二町ほど離れたタッカー家には石田が下宿していた。少々身体が弱く労咳で血を吐いたこともあったが、ドンロリアに来てからはずいぶんと健康も持ち直しておったので下宿できたのだ。
エイムズ家もタッカー家も信心深く穏やかな家庭であった。我らはここで勉学に専念できた。たまに会って話すこともあったが、石田はインガレス語でしか話さぬので参った。こちらは久しぶりに同郷の者と会って国の言葉で話したいと思っておるのに。
石田はそういう生真面目な男であったのだ。
インガレスの夏を我らはそれぞれの下宿先で過ごした。
エイムズ家は医師の夫と妻、大学で法律を学んでいる子息、小学校に通う娘の四人家族であった。私は慣れてくると子息のリチャードからインガレスの法律について講義を受けたものだ。娘のリゼットは最初私を恐れていたが、母親と作ったケーキをティータイムに馳走してくれたりした。
ある時、私は石田をエイムズ家のティータイムに招待した。エイムズ夫人が御自慢のプディングをタッカー家にいる方にも食べさせたいと言っていたのだ。
タッカー家は年老いた退役軍人の夫と妻だけの家庭で、どうも食事の量が満足ゆくものではなかったらしい。前にも下宿人がいたらしいが、すぐに出て行ってしまったという。石田は食事の文句を言わなかったが、エイムズ夫人は心配していたのであろう。夫人はよく気の回る人であった。
私は昼食の後、タッカー家に向かった。
六月の午後であったな、あれは。ふと気づいた。エイムズ家の隣の家は空き家だったのだが、家の前に荷車が止められており、男達が荷物を運び入れていたのだ。
どうやら引っ越しだなと思いバラの生垣を見ると、その向こうに人影がちらと見えた。女人のようであったが、すぐにその姿は建物の中に消えた。
後でエイムズ家に挨拶に来るであろうと思い、私はタッカー家に急いだ。
石田は在宅中で喜んで招待を受けると言った。
では三時にと約束して、私はエイムズ家に戻った。隣の家をちらりと見るともう荷車はなかった。
石田は約束の刻限通りに来た。テーブルに並んだエイムズ夫人とリゼットのお手製のプディングやクッキー、サンドイッチを見て、石田は大喜びだった。
あれは見事なものだった。あれほどうまいプディングはあれ以来食べたことがない。
不思議なものだ。日本に帰って、職を得て、交際の必要からレストランで贅沢な西洋料理を人よりも食べているが、記憶に残る食事というのは案外と少ないもの。
シソハイの刺身とこのプディングだけは今も味を思い出せる。
紅茶を飲みながら、石田はエイムズ夫人とリゼットに感謝し、うまいうまいと言っておった。
ティータイムも終わりに近くなった頃であった。日が西に傾き始めていた。
玄関の呼び鈴の音がした。すぐに下女がやって来た。隣に越して来たヴァッケンローダー夫人がご挨拶におみえですと。下女の発音は少々下町の訛りがあったが、その名からしてインガレス人とは思えなかった。
エイムズ夫人も首をかしげておった。隣家はさる商人の所有で、留守の間に人に貸すということはなかったらしい。
それでも、気のいい夫人は下女に客人をこちらへ通すようにと指示した。
夫人はカップを用意し、紅茶を新たに淹れる支度を始めた。リゼットにキッチンからケーキを持って来させた。
そうしているうちに、客人が下女の導きで応接間に入って来た。
その人は葡萄酒の色をしたドレスを着ていた。我らはその色に目を奪われた。さらにドレスの上の高く結われた黄金色の豊かな髪と白い顔に息をのんだ。
異邦人である我らにもミャーロッパの人々の美醜の基準というのはすでに理解できた。その基準で言えば、これは美、それも最上級の美であった。ほっそりとした胴回り、白い肌、青く透き通るような瞳、高過ぎず低過ぎぬ鼻、赤く艶やかな唇、白くきれいに並んだ歯、薔薇色の頬、それらが理想的に配置された顔、何もかもが美し過ぎた。とても日の本にはありえぬ、いやミャーロッパでもめったにないほどであった。
あまりに美し過ぎて不吉ささえ覚えるほどであった。
婦人はエイムズ夫人に小鳥のさえずるような美しい声で今日隣に移って来たと言い、名乗った。
カロリーネ・カミラ・マリア・フォン・ヴァッケンローダーといい、ナストリア帝国の伯爵の未亡人ということであった。
ナストリアと言えばミャーロッパの東方にある。その地で話されているゲマルン語の訛りがあるのか、エイムズ夫人のインガレス語のように早口ではないので聞き取りやすかった。
エイムズ夫人は仰天した。周辺の住宅地は中流家庭の家屋敷ばかりで、隣人が伯爵夫人というのは初めてのことであったのだ。
我らも驚愕した。伯爵というのは大名に匹敵する身分である。その夫人が供も連れず一人で挨拶に来るなど信じられなかった。我らは御尊顔を拝することさえ許されぬ身分であるというのに。
驚く我らに伯爵夫人は微笑みかけた。
「夫亡き後、領地は代官に任せて夏の間こちらで過ごすつもりでお宅をお借りしました。大家のスミス氏は生前の夫と取引があったものですから」
そういう事情があるにしてもと思い、隣にいる石田の顔を見ると、石田はなぜか顔を赤くしていた。労咳が再発して熱でも上がったのではないかと思った。
伯爵夫人はエイムズ夫人の誘いに従い、ともに茶を喫することとなった。
ティーカップを持つ指の白さはエイムズ夫人と同じミャーロッパの女性であろうかと思えるほどであった。
我らは夫人に日の本から留学のためインガレスに来たと言って自己紹介した。
「それでは、あなた方が新聞に載っていたタイクンの国の留学生でしたのね」
我らのことが新聞記事になっていることは知っていた。どこかに見学に行くと、必ず新聞に載るのだ。
「はるばるインガレスまで、さぞや大変な旅であったことでしょう」
「はい、それはもう」
石田の上ずった声に驚いた。石田は確かにインガレスの人々とよく話すが、婦人とはあまり話さなかった。だが、この時の石田は不思議なほど、伯爵夫人と言葉を頻繁に交わしていた。
「さりながら、各地のありさまを見ながらの旅は有益でした。コンホンの夜景もエプジトのミイラも初めて見るものでした」
「まあ、コンホンの夜景を見たのですか。あれは素晴らしかったでしょう。私も夫との旅行で見ました」
伯爵夫人は少し憂いを含んだ表情になった。その表情ですら美しかった。
「申し訳ありません。お亡くなりになった殿様のことを思い出させてしまって」
「いえ、いいの。悲しいけれど、夫といた日々は幸せでしたもの。幸せを思い出させてくれてありがとう」
未亡人は悲しみをこらえるように微笑んだ。その微笑みに、石田は頬を紅潮させていた。
さすがに鈍い私にも、この石田の反応の意味がやっと理解できた。
異郷に学ぶというのは孤独なものである。
気心の知れた仲間がいても、勉学には己一人で立ち向かっていかねばならぬ。家族もおらぬ身ではその厳しさを慰めるかたもない。
しかしながら、もし近くに麗しい女人がいて、ともに語らうことができたならばどれほど心安らぐことか。
だから、私には石田幾三郎の気持ちがわずかだがわかった。けれど、私には妻がいる。妻を裏切ることなどできなかった。
石田にも許嫁がいた。帰国した後に祝言を挙げることになっていると聞いている。
だから、この日の石田の態度は少しばかり許せなかった。
我らは御公儀の命によってインガレスに勉学のために派遣されたのだ。その費用は元は百姓が汗水垂らして作った米を売って得たもの。一文とて無駄にできようか。国のため、民のため、今は勉学に励むべき時なのだ。女人に心動かされるとはあってはならぬことではないか。
だから、伯爵夫人が帰るのを石田が送ろうとしたのを、私は止めた。
「貴婦人を一人で家に帰すのは紳士として忍びない」
彼は毅然とした態度で言った。私は何も言い返せなかった。石田が勉学に関すること以外でこのような態度を見せることはこれまでなかった。
「イシダさんなら大丈夫でしょう」
エイムズ夫人も言った。一刻足らずのティータイムの間に夫人は石田を信頼に足る男と見たのだ。確かに信頼に足る男ではあるが、これは果たしてと思ううちに、伯爵夫人と石田は暇の挨拶をしてエイムズ家を出て行ってしまった。
隣の家までのわずかな距離を二人が歩くだけなのに、私は取り返しのつかないことになってしまったような気がした。
祖父はここで一休みし、湯呑の水を飲んだ。
恐らく、祖父は留学するのはいいが、孤独であるからといって異郷の者と恋に落ちてはならぬと言いたいのであろう。
そんなことであれば、父の心配とさほど変わらない。
きっと、この後、石田氏は伯爵夫人と恋に落ち、留学の目的を忘れ、落ちぶれてしまったのであろう。
祖父に届けられる郵便物をこの部屋まで持ってくるが、その中に石田という名の送り主はいない。祖父に手紙をよこすのはたいていが知り合いの貴顕か、あるいは近づきになりたいという者ばかりである。
石田は祖父に手紙をよこすこともできぬ境遇になってしまったのであろう。
章子は思う。自分を含めこの国の女は平べったい顔で、伯爵夫人のような美貌は持ちえないから、西洋の男が相手にするわけはない。だから、異郷で恋に落ちるなどありえぬと。
「石田様はその後、どうなったのですか」
祖父はその問いに対して、しばらく沈黙していた。
ボーン、母屋の応接間の大きな振り子時計の音が五回聞こえた。
「もう五時か。あまり長話をすると、おきよが心配するな。今日のところはこのあたりにしておこう。そなたも学校の勉強があるのであろう」
章子はありがとうございましたと言って部屋を出た。今日のところということだから、また数日後にでも続きを聞くことができよう。
だが、その夜から祖父は高熱を発して寝付き、章子が話の続きを聞けたのは衣替えの後であった。
だが、問題があった。同じ日本人同士が一緒の場所にいては語学力がつかぬのだ。
実はシソハイやコンホンにもすでに日本人が幾人かいた。彼らはそこに一人でおるので、宸国人やインガレス人との会話に不自由しなかった。やはり同じ言葉を話す者がそばにいては異国の会話は上達せぬものらしい。
それに我らは実利的な学問を求めてインガレスに来たのだ。会話は当然だが、政治や工学、兵学の勉強がしたかった。なにしろ、インガレスは産業革命の始まりの国なのだから。すでに佐津間から来た留学生らはしかるべき大学に通い着々と専門知識を身に付けていた。しかるに海軍士官ラングはそこまでの教育を考えていなかった。相応の資金は御公儀から出ておるというのに。我らは皆不満を募らせていた。
そこで我らは徒党を組んで、ラングに直訴した。それぞれをインガレス人の家庭に下宿させ勉学させるようにと。
ラングは驚いたものの、我らの要求をのんだ。
結局、取締の川島様らと十三歳で一番年少の者と労咳の気のある者以外はそれぞれ別々の家庭に下宿することとなった。
私はヒッティングノルのエイムズ家に移った。
偶然にも二町ほど離れたタッカー家には石田が下宿していた。少々身体が弱く労咳で血を吐いたこともあったが、ドンロリアに来てからはずいぶんと健康も持ち直しておったので下宿できたのだ。
エイムズ家もタッカー家も信心深く穏やかな家庭であった。我らはここで勉学に専念できた。たまに会って話すこともあったが、石田はインガレス語でしか話さぬので参った。こちらは久しぶりに同郷の者と会って国の言葉で話したいと思っておるのに。
石田はそういう生真面目な男であったのだ。
インガレスの夏を我らはそれぞれの下宿先で過ごした。
エイムズ家は医師の夫と妻、大学で法律を学んでいる子息、小学校に通う娘の四人家族であった。私は慣れてくると子息のリチャードからインガレスの法律について講義を受けたものだ。娘のリゼットは最初私を恐れていたが、母親と作ったケーキをティータイムに馳走してくれたりした。
ある時、私は石田をエイムズ家のティータイムに招待した。エイムズ夫人が御自慢のプディングをタッカー家にいる方にも食べさせたいと言っていたのだ。
タッカー家は年老いた退役軍人の夫と妻だけの家庭で、どうも食事の量が満足ゆくものではなかったらしい。前にも下宿人がいたらしいが、すぐに出て行ってしまったという。石田は食事の文句を言わなかったが、エイムズ夫人は心配していたのであろう。夫人はよく気の回る人であった。
私は昼食の後、タッカー家に向かった。
六月の午後であったな、あれは。ふと気づいた。エイムズ家の隣の家は空き家だったのだが、家の前に荷車が止められており、男達が荷物を運び入れていたのだ。
どうやら引っ越しだなと思いバラの生垣を見ると、その向こうに人影がちらと見えた。女人のようであったが、すぐにその姿は建物の中に消えた。
後でエイムズ家に挨拶に来るであろうと思い、私はタッカー家に急いだ。
石田は在宅中で喜んで招待を受けると言った。
では三時にと約束して、私はエイムズ家に戻った。隣の家をちらりと見るともう荷車はなかった。
石田は約束の刻限通りに来た。テーブルに並んだエイムズ夫人とリゼットのお手製のプディングやクッキー、サンドイッチを見て、石田は大喜びだった。
あれは見事なものだった。あれほどうまいプディングはあれ以来食べたことがない。
不思議なものだ。日本に帰って、職を得て、交際の必要からレストランで贅沢な西洋料理を人よりも食べているが、記憶に残る食事というのは案外と少ないもの。
シソハイの刺身とこのプディングだけは今も味を思い出せる。
紅茶を飲みながら、石田はエイムズ夫人とリゼットに感謝し、うまいうまいと言っておった。
ティータイムも終わりに近くなった頃であった。日が西に傾き始めていた。
玄関の呼び鈴の音がした。すぐに下女がやって来た。隣に越して来たヴァッケンローダー夫人がご挨拶におみえですと。下女の発音は少々下町の訛りがあったが、その名からしてインガレス人とは思えなかった。
エイムズ夫人も首をかしげておった。隣家はさる商人の所有で、留守の間に人に貸すということはなかったらしい。
それでも、気のいい夫人は下女に客人をこちらへ通すようにと指示した。
夫人はカップを用意し、紅茶を新たに淹れる支度を始めた。リゼットにキッチンからケーキを持って来させた。
そうしているうちに、客人が下女の導きで応接間に入って来た。
その人は葡萄酒の色をしたドレスを着ていた。我らはその色に目を奪われた。さらにドレスの上の高く結われた黄金色の豊かな髪と白い顔に息をのんだ。
異邦人である我らにもミャーロッパの人々の美醜の基準というのはすでに理解できた。その基準で言えば、これは美、それも最上級の美であった。ほっそりとした胴回り、白い肌、青く透き通るような瞳、高過ぎず低過ぎぬ鼻、赤く艶やかな唇、白くきれいに並んだ歯、薔薇色の頬、それらが理想的に配置された顔、何もかもが美し過ぎた。とても日の本にはありえぬ、いやミャーロッパでもめったにないほどであった。
あまりに美し過ぎて不吉ささえ覚えるほどであった。
婦人はエイムズ夫人に小鳥のさえずるような美しい声で今日隣に移って来たと言い、名乗った。
カロリーネ・カミラ・マリア・フォン・ヴァッケンローダーといい、ナストリア帝国の伯爵の未亡人ということであった。
ナストリアと言えばミャーロッパの東方にある。その地で話されているゲマルン語の訛りがあるのか、エイムズ夫人のインガレス語のように早口ではないので聞き取りやすかった。
エイムズ夫人は仰天した。周辺の住宅地は中流家庭の家屋敷ばかりで、隣人が伯爵夫人というのは初めてのことであったのだ。
我らも驚愕した。伯爵というのは大名に匹敵する身分である。その夫人が供も連れず一人で挨拶に来るなど信じられなかった。我らは御尊顔を拝することさえ許されぬ身分であるというのに。
驚く我らに伯爵夫人は微笑みかけた。
「夫亡き後、領地は代官に任せて夏の間こちらで過ごすつもりでお宅をお借りしました。大家のスミス氏は生前の夫と取引があったものですから」
そういう事情があるにしてもと思い、隣にいる石田の顔を見ると、石田はなぜか顔を赤くしていた。労咳が再発して熱でも上がったのではないかと思った。
伯爵夫人はエイムズ夫人の誘いに従い、ともに茶を喫することとなった。
ティーカップを持つ指の白さはエイムズ夫人と同じミャーロッパの女性であろうかと思えるほどであった。
我らは夫人に日の本から留学のためインガレスに来たと言って自己紹介した。
「それでは、あなた方が新聞に載っていたタイクンの国の留学生でしたのね」
我らのことが新聞記事になっていることは知っていた。どこかに見学に行くと、必ず新聞に載るのだ。
「はるばるインガレスまで、さぞや大変な旅であったことでしょう」
「はい、それはもう」
石田の上ずった声に驚いた。石田は確かにインガレスの人々とよく話すが、婦人とはあまり話さなかった。だが、この時の石田は不思議なほど、伯爵夫人と言葉を頻繁に交わしていた。
「さりながら、各地のありさまを見ながらの旅は有益でした。コンホンの夜景もエプジトのミイラも初めて見るものでした」
「まあ、コンホンの夜景を見たのですか。あれは素晴らしかったでしょう。私も夫との旅行で見ました」
伯爵夫人は少し憂いを含んだ表情になった。その表情ですら美しかった。
「申し訳ありません。お亡くなりになった殿様のことを思い出させてしまって」
「いえ、いいの。悲しいけれど、夫といた日々は幸せでしたもの。幸せを思い出させてくれてありがとう」
未亡人は悲しみをこらえるように微笑んだ。その微笑みに、石田は頬を紅潮させていた。
さすがに鈍い私にも、この石田の反応の意味がやっと理解できた。
異郷に学ぶというのは孤独なものである。
気心の知れた仲間がいても、勉学には己一人で立ち向かっていかねばならぬ。家族もおらぬ身ではその厳しさを慰めるかたもない。
しかしながら、もし近くに麗しい女人がいて、ともに語らうことができたならばどれほど心安らぐことか。
だから、私には石田幾三郎の気持ちがわずかだがわかった。けれど、私には妻がいる。妻を裏切ることなどできなかった。
石田にも許嫁がいた。帰国した後に祝言を挙げることになっていると聞いている。
だから、この日の石田の態度は少しばかり許せなかった。
我らは御公儀の命によってインガレスに勉学のために派遣されたのだ。その費用は元は百姓が汗水垂らして作った米を売って得たもの。一文とて無駄にできようか。国のため、民のため、今は勉学に励むべき時なのだ。女人に心動かされるとはあってはならぬことではないか。
だから、伯爵夫人が帰るのを石田が送ろうとしたのを、私は止めた。
「貴婦人を一人で家に帰すのは紳士として忍びない」
彼は毅然とした態度で言った。私は何も言い返せなかった。石田が勉学に関すること以外でこのような態度を見せることはこれまでなかった。
「イシダさんなら大丈夫でしょう」
エイムズ夫人も言った。一刻足らずのティータイムの間に夫人は石田を信頼に足る男と見たのだ。確かに信頼に足る男ではあるが、これは果たしてと思ううちに、伯爵夫人と石田は暇の挨拶をしてエイムズ家を出て行ってしまった。
隣の家までのわずかな距離を二人が歩くだけなのに、私は取り返しのつかないことになってしまったような気がした。
祖父はここで一休みし、湯呑の水を飲んだ。
恐らく、祖父は留学するのはいいが、孤独であるからといって異郷の者と恋に落ちてはならぬと言いたいのであろう。
そんなことであれば、父の心配とさほど変わらない。
きっと、この後、石田氏は伯爵夫人と恋に落ち、留学の目的を忘れ、落ちぶれてしまったのであろう。
祖父に届けられる郵便物をこの部屋まで持ってくるが、その中に石田という名の送り主はいない。祖父に手紙をよこすのはたいていが知り合いの貴顕か、あるいは近づきになりたいという者ばかりである。
石田は祖父に手紙をよこすこともできぬ境遇になってしまったのであろう。
章子は思う。自分を含めこの国の女は平べったい顔で、伯爵夫人のような美貌は持ちえないから、西洋の男が相手にするわけはない。だから、異郷で恋に落ちるなどありえぬと。
「石田様はその後、どうなったのですか」
祖父はその問いに対して、しばらく沈黙していた。
ボーン、母屋の応接間の大きな振り子時計の音が五回聞こえた。
「もう五時か。あまり長話をすると、おきよが心配するな。今日のところはこのあたりにしておこう。そなたも学校の勉強があるのであろう」
章子はありがとうございましたと言って部屋を出た。今日のところということだから、また数日後にでも続きを聞くことができよう。
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