西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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太陽の国から来た男

1 留学生

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 ここで時を少し進め、舞台を東に移そう。
 読者の皆様には、二十世紀初め泰尚たいしょう時代、日ノ本国の東興とうきょう市のある一家の物語をしばしご覧いただきたい。





「おひいさま、大殿様がお呼びです」

 章子ふみこが女学校から戻るとすぐにばあやが部屋にやって来た。父が子どもの頃からいたというばあやは白い髪を丸髷に結い、縞の木綿の着物を着ている。

「はい。すぐに参ります」

 袴と矢絣模様のあわせを脱いで、先日新たに仕立てた袷を着た。いつもなら洋装に着替えるのだが。
 和服、それも絹物を着ていないと祖父は不機嫌なのだ。いくら世が変わっても直参じきさんの家の姫は姫らしくあるべきだと祖父は孫娘らに語っていた。
 祖父の部屋に入ると、いつも世話をしているおきよという老女がいない。人払いをしたらしい。

「章子、そこにお座り」

 珍しく床から身体を起こしていた祖父に言われ、枕元に座った。今日はずいぶんと具合がいいらしい。
 お休みになったほうがいいと言っても無駄なので、何も言わなかった。祖父はこうと決めたら絶対に変えない頑固者だった。

「そなたは、女学校を出たらアメロバニアの大学に留学したいそうだな」

 父から聞いたらしい。父は反対している。たぶん祖父も反対なのだろう。

「アメロバニアでもインガレスでもどこでも行くがよい」

 信じられなかった。祖父が賛成するなんて。一体どうしたことだろう。旧時代の遺物のような祖父が留学に賛成するとは。

「ただし、これから話すことを聞いてから、よくよく考えることだ」

 やはり反対なのだろうか。祖父の目をちらっと見たが、その目から祖父の意思は読み取れなかった。まるでどこか遠くを見つめているようなまなざしだった。そんな祖父を見たことがなくて、少しだけ恐ろしかった。

「あれは、私がまだ二十を過ぎた頃のことであった。御公儀の命を受け雅羅巴ミャーロッパに留学したことがあってな」
「おじい様、ミャーロッパにおいであそばしたことがあるのですか?」

 初めて聞いた話だった。祖父がミャーロッパに留学したことがあったとは。それも旧幕府の時代に。
 政府の仕事で宸やアメロバニアに行ったことがあるのは知っていた。だが、もっと若い頃にミャーロッパに行ったという話は知らなかった。

「そうだ」

 祖父はゆっくりと話し始めた。



 私が二十二の時のことだった。御公儀の命を受けてインガレスに留学することになった。といっても、大政奉還のために二年足らずで帰国せねばならなくなったから、さほど勉強のほうはできなかったがな。
 留学前に選抜試験があった。インガレス語もあった。私は通詞の元で習っておったので、すらすらと書けた。といっても、今のそなたの方がよほどその頃の私より優秀であろうな。
 ともに菖平黌しょうへいこうで学び、海軍伝習所で洋学を学んでいた友人らも選ばれ、取締二名伝習生十四名で横浜から出港したのは十月のことであった。
 二年前に祝言を挙げた妻を両親の元に置いての留学であった。
 インガレスの海軍士官も同行しておった。ラングという名であった。
 横浜を出る前日に、取締役の川島様から渡航免許状をいただいた時のなんと誇らしかったことか。
 夕刻出港し、初めて船の食堂で出た夕食は肉であった。我らに気を遣って米飯も出してくれた。インガレスの士官たちは親切な人々であった。ナイフやフォーク、スプーンの使い方まで教えてくれたのだ。
 まこと、あの旅は驚くようなことばかりであった。実は我らだけでなくミャーロッパで興業をするという旅芸人らも乗っておった。よく船の甲板で練習をしておった。我らは長い船旅の間、彼らにどれほど慰められたことか。幼い少年もいてな。その身の軽いことといったら、猿もかくやというばかりであった。それは見事な宙返りであった。
 それはともかく、長い船の旅であった。
 途中船酔いで皆ひどく苦しんだものだった。取締の川島様は平気な顔であったが、我らは皆船室に閉じこもっていた。食事は脂っこい肉が多くて、我らはシソハイに着いたら魚を買って刺身にしようかと話したものだ。
 体調を壊して血を吐く者もいた。労咳の者もいたのだ。その一人が私と同じ通詞の元でインガレス語を学んでいた石田幾三郎いくざぶろうだった。小普請組の旗本の三男で優秀な男であった。
 幸い船医の手当てがよかったのか、旅の後半は体調がよくなって、船員とよく話していた。一行の中でも語学は一、二を争う力の持ち主であった。
 そうそう、髷はシソハイに着く前に断髪した。その頭で幕府陸軍の制服を着て皆で写真を撮った。
 無論、刺身も食べた。取締の川島様らがシソハイの町でいきのよい魚を見つけてくださったのだ。あれはうまかった。スズキであったかな。よもや異郷で刺身が食えるとは思ってもおらなんだ。
 シソハイで別の船に乗り換え、コンホンへ向かうために南へとさらに進んだ。
 十月の末近くだから、ずいぶんと寒い時期に船出したのに、船は南へ進むので暑くなってきてな。いやはやこの世界はまこと広いものよと思ったものであった。まるで四月頃の陽気であった。
 書物ではわかっていたが、肌で知るというのであろうか、実際にその場所に行くといろんなことがわかるものだ。熱、湿り気、匂い、人々の声、いっぺんに様々なものを感じ取ることができる。
 そなたがアメロバニアに行きたいのも、書物では知ることのできぬものを知りたいからであろう。学問というのは書物で終わるものではないからな。書物の書かれた背景にある人々の考え方を知らねばならぬ。そのためには人々の暮らしを知らねばならぬ。暮らしは気候や地形と密接に関係している。気候といえば、たとえばインガレスの都ドンロリアなど、霧が深くてな。あの霧は人を陰鬱にさせる。



 祖父はそこで話を止めた。
 章子はドンロリアの話を聞きたかったが、祖父が苦しそうに見えたので水差しの水を湯呑に入れて渡した。

「御無理はなさらないでください」
「いや、大丈夫だ。ありがたい、水をいただこう」

 祖父は水を一口飲むと、湯呑を畳の上に置いた。



 水一つとっても味が違う。
 ミャーロッパの水は硬水といってな、あまりうまいものではなかった。洗濯をしても泡が立たぬのだ。あれには驚いた。
 やはり、生国の水というのはうまいものだ。
 ミャーロッパでは水がまずいので、葡萄酒をよく飲む。
 耶蘇の教えで葡萄酒はキリストの血だと言うのは、それだけ葡萄酒をよく飲むからであろうな。
 さて旅の話に戻ろう。
 コンホンに着いた日は船中に泊まったが、船から見えるコンホンの灯火は素晴らしかった。コンホンは平地が少なく山に沿って市街地が開けておるので、山の中腹まで家々の灯りがともってそれは見事であった。ガス燈もすでに海岸にはあったとのことだ。
 ここでまた船を乗り換え、我らはシンガローレに向かった。
 船が赤道に近づくにつれ、暑さはいよいよ募った。日本は冬であったが、我らは暑さのためにだるくて動けなくなってしまった。
 シンガローレ、パナンと進んだ後であった、降誕祭という耶蘇の祭があって、船では余興もあった。ともに旅をしている一座の者が手妻などをした。西洋人らも喜んでおった。言葉はわからずとも芸の見事さはわかるものなのであろう。
 ロイセン島でまた船を乗り換えた。三本マストの大きな船であった。
 アビアラ海を航行中に西洋の新年を迎え、その夜はインガレス人らがダンスパーティというのをやった。
 これまでも同じ船に西洋の婦人らが乗っておったが、男達が実に婦人を丁寧に扱うことには驚いた。まるで姫君に仕えるかのようであった。
 我らはエスズで船を下りた。
 到着した翌日に汽車でカロイに向かった。初めて乗る汽車の速さに我らは驚くしかなかった。まだエスズ運河というものが開通していない時分であったからな。陸路しかなかったのだ。
 カロイでは蒸し風呂に入ったが、やはり国の風呂のほうがよいな。
 そうであった。博物館にも行きミイラというものを見たのだが、あのようないにしえの人の身体を衆人の目にさらすというのはよい趣味とは思えぬ。まるで罪人扱いではないか。墓で穏やかに眠らせてやればよいものを。どうもインガレス人、いやミャーロッパの人々の考えは理解しがたい。親切な一方で亡者にかような仕打ちをするとは。
 カロイからアキレサンドリアまでも汽車であった。歩けば数日かかるところに数時間で到着するのだから汽車というのは大したものだ。
 ただ残念だったのはエスズからアキレサンドリアまで別便で送っていた荷がいくつか錠が壊され中身が盗まれていたことであった。盗人というのは洋の東西を問わぬものらしいが、それにしても我が国の着物や袴、下着を盗んでいかにするつもりであったのか。
 川島様はインガレス人士官の勧めでエプジトに損害賠償を請求しての。結局賠償金はドンロリア到着後に支払われるということになった。



「一体、おいくら請求したのですか」

 お金のことを尋ねるのはいささか下品な気がした。だが、祖父はためらうことなく答えた

「百二十三ぺンドほどであった。その頃でいえば三百七十両ほどであろうか」
「まあ」

 賠償金の多さに章子は目を丸くした。

「川島様は日本に来る外国人も賠償金を吹っ掛けるのだから、これくらい構わぬとおっしゃっていた。愛戸えどからドンロリアまでの船賃も入っておるしな」

 確かに貨物の料金を考えればそれくらいはと思うが、それでも多過ぎるような気がした。
 祖父はニヤッと笑って見せた。

「川島様という方はまこと融通の利く方であった。あの方こそ新政府に必要な方であった」
「今は何をしておいでなのですか」
「政府を離れ、どこであったか学校の校長になられたと聞く」

 そう言った後、祖父はまた湯呑の水を口にした。心なしか、その口振りは寂しげに感じられた。



 これでは、いつまでたってもインガレスには着かぬな。少し急ぐとしよう。
 我らは船で地挟海ちきょうかいを航海し、ジルブラタル海峡を抜け、スビケー湾を通り、ついにインガレスのサウザンプール港に到着した。国をたって二ケ月余りのことであった。
 国の暦では十二月も晦日近かったが、ミャーロッパの暦では二月の初めのことであった。今は暦がミャーロッパと同じになっておるが、どうも慣れぬものだな。
 さて港からドンロリアまでは汽車であった。これも速かった。三十里余りのところを三時間だ。
 すでに夜であったが、ドンロリアの街にはガス燈がともり明るかった。
 駅から馬車でホテルへ行ったのだが、その道中の明るいことといったら愛戸とは大違いであった。
 旅籠はたごも新しく立派な建物でな。宿場の本陣にもあのようなものはあるまいよ。しかもな、エレベーターというのがあった。あれが一番驚いた。
 箱に入ってボーイに何階に行きたいと命じるとすっと箱が上がってその階に行けるのだ。あれは一体どういう仕掛けなのか、皆乗る度にきょろきょろとしていたものであった。
 だが、ホテル住まいは費用がかかる。
 我らは家を借りて、同行の海軍士官ラングとともにそこへ移ることとなった。
 そこで規律正しい生活を送った。朝七時に起き、七時半には朝食、九時より午後一時半まで勉学、その後運動のため散歩し、門限は午後五時。午後六時に夕食、その後授業を受け、午後十時に部屋に戻って翌日の予習をした。寝るのは夜半を過ぎておった。
 勉学の合間には、劇場に芝居を見に行ったり、新聞社や軍の施設を見学した。王立植物園チューガーデン水晶城クリスタルキャッスルにも行った。ビーダーの競馬も見た。
 一緒に船旅をした芸人の興業も見に行った。彼らの芸は異邦でもことのほか喜ばれておった。
 だがな、見に行った我らのほうが見られていたのだ。東の国から来た珍しい生き物であるかのようであった。劇場では芝居ではなくボックス席にいた我らを双眼鏡で見ている者がいたよ。



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