西の女吸血鬼は美味なる血を持つ東の若侍に恋をした

三矢由巳

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東の国を見た男

東の国を見た男

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 クロードが灰になって後、カロリーネ達は東ミャーロッパ経由で北ミャーロッパの知り合いを訪ねてクロードのことを知らせた。皆一様に驚き、今後のカロリーネのことを心配してくれた。中には一緒に暮らさないかと誘う者もいたが丁重に断った。
 一年余り過ごした後、カロリーネはネルランドに行くことにした。かねてから学びたかったジルパンの言葉を勉強するためである。マリイとルイーズは連れ合いを亡くし元気がないので、知り合いに世話を頼み、テレーズを連れて行くことにした。
 女だけでは心もとないので、地元の大型犬を使い魔にした。カールと名付け一通りの礼儀を教えてみると、勇敢で忠誠心に篤い紳士となった。
 ネルランドへの旅の途中でボージルトを訪ねたカロリーネはジルパンの情勢の変化を知らされた。
 ジルパンでは国を開くべきだという意見を述べる学者が出てきたということだった。が、政府はそれを許さず、大勢の者が獄に繋がれたと語った。ネルランド語に優れた弟子も捕われの身となったとボージルトは嘆いていた。
 一方、インガレスと宸の戦争の結果を受けて、国の守りを固めるべきと大名達が考えるようになっているらしかった。



 カロリーネはボージルトの紹介でネルランドに住む元商館長の屋敷を訪問した。ボージルトから手紙を受け取っていた元商館長は北ミャーロッパから来たというヴェランデル伯爵夫人の訪問を歓迎した。
 ジルパンの話を聞いた後、語学の教師を紹介して欲しいと依頼すると、元商館長は近くに住む元部下を紹介した。元商館長は、今のジルパンの政権は商館長が妻子を伴い赴任することを認めていないが、いずれは許可せざるを得ないだろう、その際には女性の通訳が必要とされるかもしれないと言った。要するに、カロリーネにも通訳としてジルパンに行く機会があるかもしれないということだった。通訳になるかどうかはわからないが、本格的に学べるとカロリーネは喜んだ。



 その男、アルベルト・ゼーマンは四十にもならぬ顔色の良くない痩せた男だった。
 カロリーネの顔と元商館長の紹介状を交互に見ながら、怪訝な顔をした。

「本気ですか、あなた?」
「ええ。もう何年も勉強したくてたまらなかった」

 アルベルトは応接間の本棚から紙の束を取り出した。

「これ、わかりますか? ジルパンで使われている文字のほんの一部です。あの国には無数の文字があるのですよ」

 まるで魔法の呪文のように綴られた多数の文字に、カロリーネは目を見張った。

 ジルパンの版画で文字は見たことがあった。だが、目の前に広げられた紙にはそれ以上に多種多様な文字が並んでいた。

「これはいろは、四十七文字あります。ひらがなとカタカナの二種類。それから宸の文字を取り入れた漢字。これは数限りなくあります。私も五百字程度はなんとか覚えました。ですが、支配者階級である武士は子どもの頃から千字を覚えます」

 文字の多さはカロリーネの想像を絶していた。同時にこれは挑戦する価値があるかもしれないと思った。自分には時間が限りなくあるのだ。

「分かりました。覚えます」

 カロリーネの返事にアルベルト・ゼーマンはあきれ顔だった。この夫人はどうかしていると。
 どうせ、一回授業をしたらそれで諦めるだろうと思った。たんまり授業料はもらえそうだが、頭の悪い伯爵夫人を相手にするのは時間の無駄だった。
 アルベルトは読みを振ったひらがなの表を渡し、次回までに覚えてくるように言った。カロリーネはわかりましたと言って、その日の謝礼だけを渡して帰宅した。



 港町の一角の住宅を借りているカロリーネはすぐにひらがなの猛勉強を始めた。くねくねと曲がった文字は区別がつきにくかったが、クロードと勉強したように幾度も声に出して読んだ。
 テレーズは着替えも忘れてわけのわからない文字を読んでいる女主人の姿に驚いた。

「あんな奥様見た事がない」
「いいじゃないですか。初めてお目にかかった時と比べたら、ずっと目が輝いておいでで」

 北ミャーロッパでの寂しげなカロリーネの姿が最初の記憶となっているカールにとって、生き生きとした表情を見ることができるのは嬉しかった。



 一週間後、アルベルトは完全にひらがなをマスターしたカロリーネに絶句した。どうやら伯爵夫人は本気らしい。ならば、こちらもそれに応えねばならない。
 ジルパンで手に入れた子ども向けの教科書を取り出した。

「これはジルパンの寺子屋と言われる市民の初等学校で用いられる往来物と呼ばれる教科書です。今後はこれを使って講義をします」

 カロリーネは嬉しくて思わず叫んでいた。

「まあ、素敵!」

 その喜びようにアルベルトは驚いた。

「一体、あなたはなぜジルパンの言葉を学びたいのですか」
「行ってみたいから。ジルパンは御伽の国のような国なんですもの」

 アルベルトは冷笑を浮かべた。

「あなたは何もわかっていない」
「どういう意味?」

 カロリーネはアルベルトを不思議そうに見つめた。

「ジルパンは御伽の国などではありません」

 アルベルト・ゼーマンはカロリーネの考えを否定した。

「でも、木と紙の家に住んで、慎ましく暮らし、花や木を身分の隔てなく愛でているのでしょう」
「ええ。でも、木と紙の家は火をつければすぐ燃える。毎年のようにエドでは火事が起きて何千人も死んでいる。そのたびに大工や材木屋がぼろ儲けし、貧しい者は苦しい暮らしをしている。中には娘を売る親までいる。売られた娘は一日に何人もの客をとらされ死ねば寺に投げ捨てられる。どこが御伽の国ですか」

 それはカロリーネの知らなかった話であった。娼婦が寺に投げ捨てられるなんて、想像もつかない。

「彼らはいつ火事が起きるかわからないから、宵越しの金は持たぬとその日暮らしをしている。家具が家に少ないのは火事が起きたら持って逃げることができないから。馬はいるのに馬車はなく、人力で人を運ぶしかない」
「あんなに見事な版画を作るのに」
「ええ。その点は大したものです。でもね、政府を風刺する版画を作れば捕まり、手に鎖を何日もかけられるんですよ。自由なんてないんです。政府を動かすのは武士という職業軍人で、彼らはいつも腰に二本の刀を差している。己の名誉を汚されたら、その刀で名誉を挽回する。妻を寝取られた男は刀で妻と間男を斬る。処刑される時は自分で自分の腹を裂く。野蛮そのものです」

 刀を差していることは知っていた。腹を切ることも。だがそれを野蛮な行為だとカロリーネは思っていなかった。

「野蛮なんて。誇り高いからではないのですか」
「そりゃ自分達ではそう言うでしょう。でもね、結局は彼らは武力で解決しようとするんです。彼らの武力を恐れて民衆は誰も逆らわない。たまに農民が反乱を起こしますが、鎮圧され首謀者は死刑になるんです。拷問で死ぬ者だっている。御伽の国なんて笑わせないでください」

 カロリーネは俯いた。そんなこと知りたくもなかった。

「本当の姿を一度御自分の目で確かめたらいい。私の目には野蛮な国に見えましたが、あなたが見たら御伽の国に見えるかもしれません」

 皮肉めいた言い方になってしまったが、これで語学を諦めるならその程度のものだろう。アルベルトには貴族の道楽に付き合う気も暇もなかった。
 が、カロリーネの闘志は燃え上がった。この男の言葉だけで諦めたくない。

「わかりました。この目で確かめます」

 カロリーネは力強い視線でアルベルトを見つめた。

 カロリーネは、ますますジルパンの言語習得に熱中した。
 一か月もすると、簡単な単語を漢字でも書けるようになった。
 アルベルトもさすがに彼女の熱心さを知るにつれ、皮肉めいたことを言えなくなった。個人的に教授している若者達に追いついたので、彼らと同じ授業を受けさせることにした。
 若者達は当初、伯爵夫人の道楽と思っていたが、語学に関しては自分達よりも詳しく熱心だとわかると、同じ語学を学ぶ仲間として遇した。
 カロリーネにとっては初めての体験だった。子どもの頃は姉妹とともに家庭教師に個人的に教えを受け、長じてはクロードの教えを受けていた彼女は異性と共に学習するという経験がなかった。しかも三人は医学生、商人、船乗りであったので、講義の後でカフェに寄ってそれぞれの仕事の話を聞くのは興味深かった。無論、カロリーネも各国を旅して得た見聞を彼らに語った。ただし、年齢がわからぬように遠い過去の話はしなかったが。
 気が付くと一年がたっていた。



 その日は寒く雪が落ちてきそうな重たげな雲に覆われた空模様であった。
 カロリーネがアルベルトの家に着くと、下女が慌てた顔で出て来た。

「申し訳ありません。旦那様の具合がよろしくないので、今日はお休みです」

 若いのに何の病であろうかと思っていると、医学生のハンスがやって来た。

「先生の具合が? 医者には診せましたか」
「いえ。寝ていればよくなると」
「それはよくない」

 ハンスはそう言うと、止める下女を押し切って中に入った。カロリーネもついていった。
 ハンスとカロリーネの来訪にアルベルトは驚き帰るように言った。だが、ハンスはさっと枕元に行き、顔色を観察した。元々よくない顔色はいつも以上に青白かった。ハンスはしばらく手首を握って脈をとった。

「脈が速い。胸に痛みはありませんか」
「まるで医者気取りだな」

 無理をしているとわかる口調だった。

「前にもこんなことがあったのではありませんか」
「はい、こんな天気の日にはよく」

 下女が代わりに答えた。アルベルトは下女を軽く睨んだ。下女は平然とした顔だった。

「旦那様、強情もいい加減になさいませ」
「やれやれ。これはもう治らないんだ。医者も匙を投げてる。だから、放っておいてくれ」
「先生、困ります。僕らには先生が必要なんです」

 カロリーネもハンスと同じ気持ちだった。御伽の国ではないジルパンの別の姿を教えてくれた師を失いたくなかった。
 けれど、彼の命が危ういことは誰の目にも明らかだった。



 その夜遅く、カロリーネはアルベルト・ゼーマンの家を再び訪れた。見舞いだと言って下女に金を握らせて部屋に通してもらった。

「何の用ですか。授業は中止と」

 起き上がろうとするアルベルトをカロリーネは制した。

「先生、先生はまだまだやりたいことがたくさんあるのでしょう」
「それは……人は皆そうです。だが、死は必然です」

 カロリーネは枕元に立ち囁いた。

「もし病で死なずに済むとしたら?」

 アルベルトは怪訝な顔になった。

「私の病気はもう治りません。死なずに済むなんてありえない」
「ありえたとしたら?」
「まさか」

 アルベルトは笑みを浮かべた。カロリーネは冗談にされたくはなかった。

「冗談じゃないんです。私なら、先生を死なせない」
「マダム、あなたは医者じゃない。慰めてくれる気持ちはわかるが、自分がそう長くないことはわかっています。ライアン大学のハルトマン教授に君達のことを頼んでいます」

 カロリーネは言った。

「昔話をさせてください」
「どうぞ」
「昔……娘がいました。娘はある男を好きになり、男も娘を好きになりました。男は娘に永遠の命を与えました。男が娘の血を吸うことで娘は不死の身となったのです。永遠の命を与えられた娘は今も若い姿のまま生きています」

 アルベルトはカロリーネを見上げた。

「私は、その娘とは違う。永遠の命など必要ない。私の命は私のものだが、私のものではない。この身体は神から与えられたものだ。神の定めたもうた命以上の命は必要ない。ましてや、血を吸われてまで生きながらえたいとは思わない。なぜならこの身に流れる血も神の恩寵によるものなのだから」
「病も恩寵ですか?」
「そうです。神がそのように定めたのです。だから逆らうつもりはありません」

 カロリーネにとって、それは理解しがたい考えだった。

「胸の痛みも神の恩寵だと言われるのですか」
「試練もまた神の与えたもうた恩寵です」

 まっすぐ天上まで見通すようなアルベルトのまなざしは侵し難い気高さに満ちていた。
 もしここで弱っているアルベルトの身体を押さえつけ首筋に犬歯を立てれば、たやすく血を吸えるだろう。だが、それだけは決してやってはならぬことだとカロリーネは感じていた。神に逆らった身でも、人の心は踏みにじれない。

「もし、その娘に会ったら訊いてくれませんか。永遠の命を得て幸せなのかと」
「わかりました」
「お休みなさい、良い夢を、マダム」
「お大事に」

 それがアルベルト・ゼーマンとの最後の会話だった。



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