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さすらい

3 産業革命と吸血鬼

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「きれい……」

 コンホンの夜景に甲板に立つカロリーネはそれ以上の言葉を発することができなかった。
 横に立つクロードも何も言わず、同じ景色を眺めていた。山の麓から中腹にかけて輝く灯火は旅人たちの心を慰めるに足る温かな光を放っていた。



 二人は北ミャーロッパの国々に十年ほど滞在した。それからナストリアの都ウイースに行った。カポレオンが戦いに敗れた後、ミャーロッパの新体制を協議するウイース会議に来る各国の代表の顔を見たいとクロードが言ったのである。
 二人は、各国の代表が招かれた舞踏会に何食わぬ顔で紛れ込み、談話やダンスの輪に加わった。カロリーネはクロードや北ミャーロッパで知り合った吸血鬼仲間から教わった語学力を発揮して、社交を楽しんだ。
 「会議は踊る、されど進まず」と評された会議は十か月近く続き、その間、カロリーネは北ミャーロッパの某国の伯爵夫人という触れ込みでウイースの社交界を遊泳したのだった。
 カポレオンが追放先の島から逃亡したという騒ぎが起きたものの、三か月後の戦いで敗れ、ミャーロッパは平穏を取り戻したかに見えた。
 だが、クロードに言わせると、もう前の世紀とは何もかも変わってしまっていた。フロランは王政に戻ったが、自由の味を知った市民は昔の市民ではなかった。他のミャーロッパ諸国もまた同様である。
 さらに蒸気機関の発明が社会を変えつつあった。鉄道の路線が延びるたびにクロードはなんたることだと呟いた。
 前世紀末からの産業革命も進み、インガレスは「世界の工場」とまで呼ばれるようになった。
 ミャーロッパはクロードの知る「古き良き時代」ではなくなっていた。
 だが、カロリーネにとって、変化は喜ばしいものだった。工業化によって繊維製品は安価になった。海外から輸入される食品の種類も増えた。カロリーネはウイースの有名ホテルでデザートに供されるショコラーデのトルテを口にするたびに、カカオの輸入が増えたことに感謝した。



 二人はミャーロッパ各地を転々とした。
 ついには、地挟海を蒸気船で渡り、エプジト、インデス、コンホンまで旅した。強い日差しを吸血鬼でなくとも皆避けたので、二人が昼間甲板に上がってこなくても不審に思う者はなかった。
 コンホンに到着したのは夜だった。
 夜景を堪能した後、クロードは言った。 

しん国との戦いでインガレスはこの地を手に入れたのだ」

 ウイース会議から三十年たっていた。
 クロードはインガレスに対して好感情を持っていなかった。フロラン人として生まれたからというよりは、後天的なものに起因していた。
 ことに、コンホンを手に入れたインガレスのやり方が気に食わないらしかった。その点はカロリーネも同意できた。
 インガレスはインデスから輸入した阿片を宸国に売り、宸国は銀で支払い、その銀でインガレスはインデスから阿片を買っていた。無論、阿片は麻薬だから宸国では禁制の品だった。インガレスは禁制の阿片の密貿易で富を得ていたのである。その結果、宸国では阿片が広まり、国民の健康は甚だしく悪化し、風紀も悪くなった。
 阿片の蔓延に怒った宸国の役人がインガレス商人の阿片を没収し処分したのをきっかけに、インガレス人は宸国から退去、インガレスは宸の港を砲撃し戦争となった。結果、武力に勝るインガレスは宸を破り、不平等な条約を結んで戦争を終わらせた。その際、コンホンもインガレスに九十九年の期限で割譲された。
 麻薬を密輸出して暴利をむさぼったインガレスが、宸国の阿片取締に逆切れした揚句の戦争だというのが、クロードには許せないらしかった。他国の国民を苦しめる麻薬を売買するなど紳士のやることではないとクロードは嫌悪をむき出しにした。

「インガレス人が蒸気機関を作ったせいだ。蒸気船が増えれば、ジルパンも危うい」

 カロリーネにとって、ジルパンがインガレスのものになるなど、とんでもない話だった。
 ジルパンはカロリーネにとって夢の国だった。
 革命やカポレオンの戦争によるミャーロッパの混乱で、ジルパンの言葉を学ぶ機会を逸したが、カロリーネは行く先々でジルパンの情報を得ていた。ジルパンに行ったことのあるボージルトという学者の屋敷を訪ねたこともあった。ボージルトはジルパンから多くの動植物の標本を持って来ていた。すべて見ることはできなかったが、興味深い話は聞けた。
 それは御伽話の国のようだった。
 人々は木と紙でできた家に住み、夜明け前に起きて陽が沈むと寝てしまう。米と魚と大豆原料の食品だけを食べて、重い荷の載った車を引いたり、人を乗せた駕篭を担ぐ。時には書状の入った箱を背負い一日に五十キロも走る。
 将軍の住まいも大名の住まいも庶民の住まいも、部屋に家具は多くなく、窓は大きく開かれ清潔である。庶民は狭い庭に鉢を置き花をめでる。将軍や大名も同じように鉢植えの木や花をめでている。
 こんな国がインガレスのものになっていいはずがないとカロリーネは思う。



 コンホンへの旅から戻った二人はフロランの都パロの郊外に仮住まいを定めた。
 マリイ夫妻とルイーズ夫妻はカロリーネ達の旅行には同行せず、仮住まいの館で主の帰りを待っていた。

「お帰りなさいませ、伯爵様」

 今回はナストリアのヴァッケンローダー伯爵夫妻というのが二人の名である。
 クラウディウス・ヨーゼフ・フォン・バッケンローダーとカロリーネ・カミラ・マリア・フォン・ヴァッケンローダーという大層な名まえの二人は、今回はウイースにいた時のように社交界には入り浸らず、穏やかに暮らすことにしていた。すでに一緒になって五十年余り、二人は姿こそ若いが老夫婦のような心境を迎えていた。
 出迎えた四人に旅の土産を渡した。その中には各地の風景写真もあった。無論、鏡に映らぬ二人の写真はない。
 クロードは忌々し気に言い放った。

「写真等が広まっても、我らには何の益もない」

 カロリーネはそうかしらと思った。写真で見知らぬ土地を見ることができるのは素敵なことだった。現に目の前で旅先の写真を見ているマリイもルイーズも喜んでいる。
 写真をちらちらと見ていたジャンは言った。

「確かに、映らないことで人に怪しまれては困ります」
「であろう。そなたらも用心せよ。今はまだ写真を撮影するのに時間がかかるが、恐らく早く撮影できるようになったら、何でもかんでも撮る輩が増えるに決まっている」

 そうかもしれない。でも、写真を見るのは楽しいとカロリーネは思う。クロードには言わないけれど。



 クロードは以前にもまして、産業革命を憎んでいるようにカロリーネには思えた。
 蒸気機関車に乗っても、蒸気船に乗っても、便利だとは言いながら風情がないと必ず口にした。写真技術の発達についても、画家が失業してしまうと嘆いた。
 カロリーネにとって、技術革新は素晴らしいものだった。蒸気機関の発達のおかげで世界中の物資が前世紀よりも速く大量に輸送されるようになった。輸入される陶磁器、織物、食品はカロリーネが人であった頃よりも質量ともに豊かになった。
 だから、クロードのように技術の革新を憎む気にはなれなかった。写真は不安だったが、写真機を持っている人間は今のところ少なく、気を付ければ撮影される恐れはなかった。
 それに、クロードの財産の一部は技術革新に関わる事業に融資している銀行に預けているので、利子だけで十分暮らしていけた。今の豊かな生活は産業革命のおかげと言ってもよかった。 



「それは世代の違いというものですねえ」

 髪を結いながら、テレーズは言った。

「世代?」
「ええ。旦那様はもう四百歳過ぎ、五百歳も目の前ではありませんか。奥様はまだ百年も生きておいでにはならないでしょう」

 確かにそうだった。クロードはフロランとインガレスが百年に渡って戦った時代のことをよく話す。フロランの救国の聖女にも実際に会っていると言っていた。

「あの時代からすれば、この数十年の変化は少々激しうございますからね」
「そうかもしれないわね」
「激し過ぎてついていけないのですよ。マリイもルイーズも近頃は何もかも速くなってしまったと嘆いていますからね」

 世代の違いは確かにある。だからといってカロリーネはクロードを老いているとは感じない。カロリーネも共に年をとっているのだから。ただ、何かと不機嫌になることの多いクロードを見ていると、気分がもやもやするのだ。
 とはいえ、もう過去のような暮らしには戻れない。新聞や小説を読んだり、コーヒーを飲んだり、甘いケーキを食べたりといった日常がなくなったら、カロリーネの楽しみは半減する。発達した印刷技術、輸入される食品、嗜好品など、すべては技術の恩恵だった。
 結局、クロードはこれからも不機嫌な顔で蒸気機関の恩恵を受けることになるのだろう。忌々しいと言いながら。


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