照と二人の夫

三矢由巳

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三 閉門

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 変わらぬ日々が続くと思っていた。
 けれど、時は少しずつ動いていた。地震で傷んだ城の壁や石垣が補修され、壊れた家々が修理され、新たに家が作られていく。
 江戸では公方様が亡くなり、後を継いだのは幼い子だという話であった。
 また、富士山が噴火しただけでなく、浅間山も噴火し、周囲に被害をもたらしていた。阿蘇もあの地震の二年後に大きな噴火を起こし、香田角にも灰を降らせていた。
 少しずつ降り積もる灰のように、時は積もっていた。
 照の心にも、孫右衛門の心にもまた、気づかぬうちに互いへの思いが積もり始めていた。





 宝永八年春、祝言を挙げてから四年。相変わらず子はできなかった。ただ、薪や米、味噌を無駄なく使うのには慣れてきた。
 孫右衛門が薪の無駄使いをするなと口にすることもなくなった。
 この年、竹之助が殿様とともに江戸に上った。病弱な竹之助は十七歳にしてやっと江戸に行けることになったのである。
 殿様にはまだ子どもがいない。もし、このままなら、恐らく竹之助を世継ぎにするのではないかと、人々は噂していた。そうなれば、守役の父小田切仁右衛門の権勢はますます盛んになると、照の周囲では囁かれていた。よい嫁をもらったものと男たちは羨望の目を孫右衛門に向けた。
 だが、孫右衛門も照も、竹之助のことを意識していなかった。孫右衛門は相変わらずこつこつと仁右衛門に仕えていた。照は姑とともに宇留部家の家事の切り回しに追われていた。
 竹之助の話を近所の内儀に向けられても、殿様にお子ができれば一番と言って、話を切り上げた。内儀は、照に子がないことを思い出し、それ以上の話をしなかった。
 秋になった。
 ある夜、姑は孫右衛門と照を呼んだ。一体改まって何事かと照が思っていると、姑は小さな壺を二人の前に置いた。

「これは手内職やら何やらでためた銭。これで、大久間おおくま出湯いでゆに行きなされ」

 大久間の出湯は子宝の湯と言われていた。
 照は頬を赤らめた。孫右衛門はいつもと変わらぬ顔に見えた。

「孫右衛門はここ数年、まとまった休みをとっておらぬであろう。照さんも嫁いでから一度里帰りをした他は家を空けて外に泊まったことがない。たまには二人水入らずで湯に入ってくればよい」

 姑の温かい言葉は照にとって嬉しかった。が、一方では、そのような気遣いをさせてしまったことが申し訳なかった。

「母上、せっかくですが、さような気遣いはご無用です」

 冷水を浴びせかけるような孫右衛門の言葉に、照は仰天した。母親の好意を無にするなんて、いくらケチであってもひど過ぎた。姑の顔には落胆の色が浮かんだ。

「旦那様、あんまりです。お母様がせっかく」

 孫右衛門はちらと照を見た。

「世間はどう見ると思う。竹之助様のことで、宇留部の者は浮かれておると思われるぞ」

 まさかここでそれを言うかと、照は孫右衛門の深謀遠慮ぶりに鼻白む思いであった。
 姑はああっとため息をついた。

「世間は甘くはない。やっかみというのは恐ろしいものだ。母上、その銭はご自分のためにお使いください」

 けんもほろろとはこのことかと思うばかりの孫右衛門の言葉であった。
 孫右衛門が自室に行ってしまった後、照は姑に申し訳ありませんと頭を下げた。
 姑はまあまあと頭を上げさせた。

「何も照さんが謝ることじゃないんだから」
「でも、お母様のせっかくのお気持ちを」
「照さんは、大久間の出湯に行ったことはあるの」
「子どもの頃に竹之助様の湯治にお供した父について行ったことがあります」

 広い湯船で兄の角兵衛とはしゃいで、母に叱られたことがあったと思い出した。

「私も祝言の後に行ったことがあるの。孫右衛門を授かったのはその後。だから、いいと思ったのだけれど」

 さすがは子宝の湯である。

「まったく、孫右衛門ときたら。あ、そうだわ、そういうことね」

 姑は何かに気付いたかのように叫んだ。

「お母様、何か」

 照は姑の表情にいくぶんか笑みが混じっていることに気付いた。

「照さん、わかったわ。あの子ったらまあ」
「何がわかったのですか」

 姑は笑っていた。

「出湯の風呂場はどこも男も女も一緒でしょ。たぶん、照さんを他の男衆に見られたくなかったのよ」

 思いもよらぬ姑の言葉であった。
 確かにどこの旅籠はたごの湯も男女混浴だった。中は湯気が立ち込めていてはっきり見えないのだが。
 それに住まいには風呂がないから、照は湯屋を毎日ではないが利用している。そこも混浴である。といっても照が行く時は姑や近所の女達と一緒である。男たちがじろじろ見ても、年かさの婦人が一声、なに見てるのと言えば、不愉快な視線はたちまちに消えてしまう。

「出湯は近くの湯屋と違って、いろいろな者がいるから。孫右衛門は気が気でないんでしょ。まったく悋気にも困ったもの」

 孫右衛門のやきもちは今に始まったことではないものの、照はさすがに呆れた。

「世間にやっかまれるとか言ってるけど本当は照さんを他の男に見せたくないんだわ。なんて子だろう」

 それではなおさら孫右衛門が発言を撤回して大久間に行くなどと言うことはあるまい。
 恐らくここ当分は湯治になど行けぬと照は覚悟した。
 実際、照が孫右衛門と湯治に行くことはなかった。





 翌年の夏五月、殿様が江戸から戻って来た。
 といっても照の暮らしに変化はなかった。梅酢にカビが出ないか、そちらが心配だった。
 宇留部の家の梅干しは小田切の梅干しより塩が薄かった。梅干しは塩が多ければ多いほど保存がきく。恐らく小田切の梅干しは梅の目方の四割以上の塩を使っているだろう。だから梅酢にカビがつく心配はない。だが、宇留部のものは二割に満たない。それでもちゃんと梅干しになるのだが、気を付けないと梅酢にカビが浮くことがあった。
 嫁いだ最初の年に毎日見ていなかったせいで、カビの発生に気づかず、色鮮やかなカビを泣きたい思いで取って、梅を焼酎で洗い、梅酢を煮立てて漬け直したことがあった。
 孫右衛門は梅干しなど子どもでも漬けられると、照に説教したものだった。
 以来、この時期は梅酢の点検だけは念入りにしていたのだった。
 幸い梅酢にカビは浮くことなく、土用干しの日を迎えることができた。
 照は姑とともにざるに梅を広げて三日三晩干した。
 あとは甕に三ヶ月も寝かせておけば味がなじむ。出来上がったら、所用で江戸に向かう者に四分の一ほど託して舅に送るのだ。
 照にとって、それは故郷を離れ一人江戸で暮らす舅への心を込めた故郷の味の贈り物だった。





 秋、収穫の時期の孫右衛門は忙しい。小田切家の知行地の収穫と年貢の計算で、帰りが遅くなるのだ。
 実家の小田切家では長月晦日の紅葉の宴で演ずる能の支度にあれこれ忙しいようだった。母からは、たまには家に顔を見せるように言われるが、照は冬支度があってそれどころではない。能も紅葉も祝言以来縁のないものになっていた。
 衣服や夜具の支度だけでなく、畑でとれた菜っぱの漬け物作りなど年々照に任せられる仕事は増えていた。足腰の痛みを我慢する姑を見ていれば、照はじっとしているわけにはいかなかった。
 そういうわけで、紅葉の宴の後に起きたことを知ったのは、十月の二日のことだった。
 先日もらった豆の礼に梅干しで作った練り梅を持って沖津家に行くと、沖津の妻は岡部のなぜなに小僧の話を聞きましたかと言う。
 照は、あの少々落ち着きのない岡部新右衛門とかいう者のことかと思った。同じ師匠に歌を習っているが、やたら団子や餅を歌に詠むので、師匠が呆れていたものだった。

「なにか宴でしくじりでも」

 噂では、能の「岩船」でシテの龍神を演じると聞いていた。殿様の前で失礼なことをしたのではあるまいか。

「ご存じないのですか」

 沖津の妻は驚いて大きな目で照を見つめた。

「竹之助様が世継ぎになれぬかもしれぬのに」
「どういう意味ですか」

 照には沖津の妻の言うことの意味がわからなかった。

「なぜなに小僧は、啓悌院様の落としだねだったのですよ。岡部家に預けられていたのですって」

 思いもかけぬ話であった。今の殿様の父親啓悌院は十四年前の元禄十一年の秋に亡くなっている。竹之助様が最後の子どもだと皆思っていたのだ。

「啓悌院様がお亡くなりになった後に生まれたとか。ご生母の身分が低いので、憚って身の上を偽って岡部家で育てられたという話ですよ」

 まったく知らぬ話であった。小納戸役の兄なら詳しいことを知っているかもしれなかった。
 いや、それよりも孫右衛門のほうが詳しいはずである。家老に仕えているのだから。だが、昨日帰宅した後、一切仕事の話は愚か岡部のおの字も口にしていなかった。
 沖津家を出た照はその足で実家に向かった。が、途中で足止めされた。目の前を殿様を乗せた馬とお供が辰巳町へと歩みを進めていた。岡部家は辰巳町にある。用向きはわからぬが、恐らくそこへ向かっているのであろう。
 大手町の実家に着くと、お供も連れずに一人で来たのかと母はあきれ顔だった。
 それでも、こちらから尋ねる前に、紅葉の宴の夜からの次第を語った。
 能が終わった後、岡部新右衛門が殿様と兄弟の対面をし、その夜から城に上がったこと。翌日、岡部家の下女が行方知れずになり、辰巳町の者が総出で探し、今朝になって見つかり、昼頃に岡部家に戻って来たこと、かいつまめばそれだけの話であった。
 が、母はいちいち感想をさしはさむので、話は長くなった。

「こう言ってはなんだけれど、あの下女に新右衛門殿はちょっかいを出していたのかもしれませんよ。子どもだと思っていたけれど、啓悌院様の血筋なら、何があってもおかしくはありません」

 話は結局こういう結論に落ち着いた。照にとってはどうでもいいことだった。それよりも問題は竹之助の処遇であろう。小田切家にとってはそれが問題のはずである。

「それでお世継ぎはどうなるのですか」

 母の表情が少しだけ曇った。

「それがわからないんです。考えてみれば、竹之助様はまだ江戸で公方様にお目見えなさってないのですよ。でも、旦那様は何もおっしゃらないし」

 父は城での出来事で差し障りのないようなことは家族に話すが、この件については話していないらしい。ということはやはり差し障りのある事、つまりお世継ぎという御家の大事に関わることなのだろう。
 照は少しばかり不安を覚えたが、同時に孫右衛門の恐れるやっかみを受けることがなくなると思うと気持ちが軽くなってきた。だからといって大久間の出湯に行けるはずもないのだが。
 何より病弱な竹之助の負担が軽くなるのは悪いことではない。近くで暮らしていたからわかるのだが、竹之助に殿様の仕事がやり遂げられるとは思えなかった。
 こう言ってはなんだが、岡部新右衛門など少々叩かれても蹴られても平気そうなふてぶてしい体格と面構えをしていた。
 照は夕食の支度があるからと、引き留めようとする母の袖を払うようにして帰宅した。
 姑に早速伝えた。
 姑はまあと言ったが、さほど驚いてはいないように見えた。照には意外だった。

「岡部のもらい子はただ者ではないとは思っていましたが。お世継ぎはことによると」

 やはり姑も同じことを考えているようだった。

「でも、照さんはもう宇留部の者。気にしなくとも大丈夫ですよ。小田切様の娘だからうちに来てもらったわけではないのだから」
「それは、どういうことでしょう」

 思いもかけない姑の言葉だった。照は自分が家老の娘だから選ばれたのだとばかり思っていた。取り柄のない自分は親の身分だけしか頼りになるものはないのだから。
 姑は言った。

「孫右衛門があなたを選んだんですよ。今だから話すけれど、仕事で小田切様の屋敷に伺った時に、あなたを見て元気のいい娘だと思ったと。それで小田切様にお許しをいただいて」

 元気のいい娘。美しいとか可愛いとか賢そうとかではない。けれど、嫌な感じはなかった。照は時おり夜に見せる孫右衛門の眩しげに自分を見るまなざしを思い出していた。あのまなざしに籠る熱は初夜からいささかも変わることはなかった。
 その夜、照は孫右衛門の差し伸べる両手に、初めて自分から身体を寄せた。孫右衛門は少しとまどっていたが、それでもいつものように照を力強く抱き締めた。照もまたその力に応えるように孫右衛門の背を撫でた。
 その夜を境に照は孫右衛門との夜を待ち焦がれるようになった。
 孫右衛門が吝嗇なのは変わらなかったけれど。





 年が明け、二月半ばに殿様は江戸へ旅立った。岡部新右衛門も従った。
 旅立った後で、沢井家に身を寄せていた岡部家の下女が懐妊していることがわかった。相手が新右衛門であることは明白だった。城下は噂でもちきりだった。気の早い者は、襁褓むつきのための木綿の反物を献上した。すると、それに倣い多くの町人が反物や銭を献上した。ついこの間まで城下で下女をしていた少女が殿様の血を引く方の御子を産むというのは、めでたい話であった。皆、この幸運にあやかりたいと思ったのであろうか。
 けれど、照にとっては他人事であった。今の孫右衛門との生活に満たされていた。
 初夏、壺の中で上がった梅酢を見ながら、今年もよい梅干しができますようにと祈った。
 閏五月の頃、兄の角兵衛に婿入り話が持ち上がった。学問一筋の兄を見込んでの話で、小田切家の人々は皆喜んだ。当の角兵衛だけが、相手があんまりいい人過ぎて己には勿体ないと気が進まぬ顔であった。
 照はいい話ではないかと思い、安堵した。
 六月になると、江戸から国許に、岡部新右衛門が公方様に御目見えしたとの知らせが届いた。無論、もう岡部ではなく山置やまおく新右衛門隆礼たかゆきなのだが、皆岡部のなぜなに小僧という呼び名になじみがあったせいか、誰も若殿様などと呼ばなかった。
 けれど、孫右衛門だけは城の内外で若殿様と口にした。照も姑もそれにならった。実際、新右衛門のほうが竹之助よりは殿にふさわしいと照は思っていた。
 ただ、小田切の家に寄ると、母は岡部の倅と言っていた。やはり、竹之助が世継ぎになれぬことがよほど悔しいのであろう。照はしばらくは仕方あるまいと思った。
 その年は江戸からの早飛脚が多かった。
 啓悌院様の奥方様が亡くなり、さらに隆成たかしげ様が亡くなった。殿様の義母と異母弟の死ということで、城下では歌舞音曲・普請作事の停止が続いた。
 静かな城下が賑やかになったのは九月の半ば。沢井家で、例の下女が女児を産んだのである。
 ふと、照は信之助のことを思い出していた。今は江戸の屋敷で働いているということだった。下女は沢井家の養女ということになったらしい。恐らく、権力は小田切から沢井に移るだろうと照は予感していた。だが、それで今の生活が大きく変わることはあるまいと思っていた。孫右衛門なら照を守ってくれるはずだった。





 その知らせは突然のことだった。
 十月の初めだった。珍しく定時に城から戻って来た孫右衛門は着替えもせぬまま、照と姑を自室に呼んだ。

「江戸から城代様に急ぎの文が届いた。小田切様の次男次右衛門が不祥事に関わりがあったとのこと。竹之助様付きの小姓石田彦十郎と坂下兵伍も連座している。それにつき、小田切様、石田様、坂下様は謹慎をお申し出になり、城代様がお許しになった」

 兄が一体何をしたのか。照は尋ねようとした。が、先に孫右衛門が言った。

「詳しいことはわからぬ。いかなるお沙汰が出たかは別便で届くはず。照もそれまではなるたけ外に出ぬように」

 江戸で何があったのか孫右衛門にもわからぬらしかった。ただわかっていることは兄が不祥事を起こしたということだけである。
 恐らく他の者も同様であろう。妹の照から事情を聞こうとする者も多いはずである。歌塾に行けば、質問攻めに遭うことは想像できた。孫右衛門の言うように、外出を控えたほうがいいのは照にも理解できた。
 謹慎している親に会いたいと思ったものの、それで外出してもまた面倒がありそうで、照は不安を抱えながら家の敷地の中だけで数日過ごした。
 小田切仁右衛門の用人である孫右衛門も登城はしなかった。が、知行地の代官らと打ち合わせの必要があったので、昼間彼らを家に呼んで、あれこれと指示をしていた。
 夕刻、小田切家に行き依頼された用事を済ませて帰宅すると、孫右衛門は照に両親も長兄も角兵衛も無事だと伝えた。それが照にとって不安の中での唯一の光だった。
 夜の床では、孫右衛門は照に行為を強いることはなかった。照もそんな気分にはなれなかった。それでも少しだけ人肌が恋しく、そっと胸にすがってみた。孫右衛門は照の背中をゆっくりと撫でた。それだけで照は眠れた。





 十日もせぬうちに決定的な知らせがもたらされた。
 珍しく午後日の高いうちに小田切家に行った孫右衛門が一刻もせぬうちに戻って来た。
 照と姑を前に孫右衛門は先日と同じように告げた。

「先ほど小田切様のお宅に伺った。しかしながら目付の命令ということで入ることができなかった」

 目付。次兄の次右衛門が起こした不祥事はただ事ではなかったらしい。照は次に続く言葉を覚悟した。

「中老の沢井様のお宅に参り、事情を伺うことができた。次右衛門殿は江戸で病死なさったとのこと。ただ不埒の振舞があったとのことで、小田切家には百日の閉門、御家老に隠居の沙汰が下された。昨夜帰着した石田彦十郎は玄龍寺預かり、石田家は百日の閉門、坂下兵伍は押し込め、坂下家は謹慎とのこと」

 若く健康な次右衛門が病死するはずはなかった。不埒の振舞があり、父が隠居、百日の閉門ということは恐らく死罪相当のことがあったのだと照にもわかる。

「照さん、大丈夫」

 姑の気遣う言葉に照はうなずいた。だが、その顔色は正直だった。孫右衛門はゆっくりと口を開いた。

「照、少し休め」

 初めて聞く「休め」という言葉だった。けれど、その言葉に甘えていいのか、照にはわからなかった。
 重い空気の中、照はその場に座り込んだまましばらく動けなかった。
 その夜、照は眠れなかった。隣にいる孫右衛門もやはり眠れぬようだった。けれど、孫右衛門は照に手を差し伸べなかった。照にとっては有難かった。次兄の死や実家のこの先のことを思い悩んでいる照はとてもではないが孫右衛門の欲望に応える気にはなれなかった。今の事態が落ち着いたら、孫右衛門の望みに思う存分応えようと照は思っていた。





 翌日江戸の舅からの文が届いた。
 一読した姑は何を馬鹿なと叫び、先に目を通していた孫右衛門に文を投げるように返した。初めて照は姑の怒りの表情を見た。

「孫右衛門殿、まさか、かような馬鹿げたことをなさろうなどとは考えてはおりませんな」

 照は何が書かれていたのかと孫右衛門を見た。だが、孫右衛門は答えなかった。代わりに姑が震える声で言った。

「照さんを離縁せよと。小田切次右衛門の身内を当家に置くわけにはいかぬと。あんまりじゃ」

 孫右衛門はなおも黙っていた。だが、その顔には明らかに苦悩の色が見えた。
 これまで照は孫右衛門の不機嫌な顔はたくさん見ていた。けれど、今の孫右衛門の表情は見たこともないような様々な色を帯びていた。怒り、悲しみ、苦しみ、そして時折照を見つめる目に溢れる情。孫右衛門は直面したことのない様々な感情のるつぼの中でもがいているように見えた。
 実家の罪咎が原因で離縁される。それは珍しい話ではなかった。罪人の身内が妻であれば、出世に差し障ることもあるのだ。
 照は気付いていた。孫右衛門は家督を相続した後は勘定方で出世して家中の財政の立て直しを考えているのではないかと。孫右衛門の家の支出を切り詰める能力はもっと規模の大きな家中の財政でも発揮できるのではないかと思えた。
 他の役目と違い、勘定方の出世は能力によるところが大きい。いつぞやの沖津の妻への言葉を思い出すまでもなく、孫右衛門はささいなことで立身の道を断たれることを恐れているようだった。
 だが、自分が妻である限り宇留部家は小田切家の身内ということになる。閉門が解けた後、家督を継いだ長兄が家老になれるとは考えられない。恐らく小納戸役を解かれ別の職に異動することになろう。小田切家はもう以前には戻れないのだ。となれば宇留部家はこのままでは小田切家と共倒れになってしまう。
 恐らく孫右衛門は己の野心と自分への情の間で悩んでいるのだろうと照は思った。家を守りたい父に従うべきか、照を思う母の立場に立つべきかということにも。
 どちらを選ぶにしろ、孫右衛門は苦しむことになる。
 照は決めた。もがき苦しんでいる孫右衛門に選択させるわけにはいかなかった。自分が言えばいい。それに小田切の両親のことも心配だった。閉門された家に戻って少しでも両親や兄達を助けたかった。
 何より子どものいない自分はいつ離縁されてもおかしくなかった。これまでの日々が幸運過ぎたのだ。
 次兄の件がなくとも、いずれこの日は来たのではあるまいか。

「旦那様、照を離縁してくださいませ」

 姑は顔を青ざめさせた。

「照さん、気を遣わなくてもよいのですよ」
「いや、照が言うのですから、帰しましょう」

 孫右衛門は抑揚のない声で言った。そして自室に一人入った。
 半刻もせぬうちに孫右衛門は一枚の書状を持って来た。

「これで、そなたは宇留部孫右衛門とは一切関わりない。誰に嫁ごうと構わぬ」

 照はそれを受け取ると姑に一礼した。

「お世話になりました」

 照は嫁入り道具は後で運んでくれと言い、とりあえず必要なものだけを下女に持たせて、暗くなるとすぐに宇留部家を出た。
 小田切の屋敷の門前で警備をしていた目付の部下は人を入れることはできぬと言ったが、離縁されたのでこの家に戻ったと照が言うと、すぐに上の者に話をして中に入れた。
 家族は皆驚いた。母は宇留部の人々は冷たいと泣き喚いた。照は大袈裟だと思いながら、母をなだめた。
 こんなことは世間にはよくあることと言って。




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