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22 鬼妻

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 七三子は空腹を感じ、ゆっくりと身体を起こした。

「夕ご飯、どうします?」

 槇村は起き上がると、七三子を背後から抱きしめた。小ぶりの胸が以前より柔らかさを増したような気がした。

「謝りたいことがある」
「何ですか」
「出張に行く前に、おまえに魔法をかけた。もし、おまえに危険が迫って、俺の名を呼べないようなことがあった時のために、おまえ自身の防衛本能を最大限引き出すように。男一人なら軽く投げ飛ばせるくらいになると思ってな」

 だから福田の羽交い絞めから逃げられたのかと、七三子は思った。
 七三子がこちらに身体を向けようとするのに気づき、槇村は腕を離した。七三子はシーツで前を隠して槇村に身体を向け正座し頭を下げた。

「そのおかげで羽交い絞めから逃げられたんですね。ありがとうございます」
「いや、それだけじゃないんだ」
「だけじゃないって……」
「俺たち魔法使いは、魔族と交流することが多い。中には正体を見せない者もいる。正体に気付かないと危険なことがある。念のため正体を隠蔽している封印や魔法を解除する魔法をかけた。普通の人間なら何も起きない」

 正体、その言葉に七三子は言いしれぬ不安を覚えた。なぜだろう。槇村の表情にも硬さが感じられた。

「おまえを見た男子生徒が気分を悪くしたと言ってたな。俺のせいだろうと思っていた。だが、おかしくないか。その生徒は使い魔の男爵を抱きかかえても平気だったんだ。男爵のほうがよほど俺との付き合いが長いのにな。それに、その生徒は神社の跡取りだというじゃないか。キリスト教の神父や修道士ならともかく神社だぞ。たぶん、おまえに憑いてるのは俺じゃない別の何かか、あるいは、俺とのセックスが刺激になって目覚めたおまえ自身に眠る何かだろうと思った。だから黙っておまえに魔法をかけた。許してくれ」

 言われてみればそうだった。榊原少年は猫の男爵を抱きかかえることができた。七三子を見て気分を悪くするなら、男爵に触ることなど不可能ではないか。
 ということは槇村ではなく七三子自身にその要因があると考えるのが自然だろう。
 だが、それを探るために黙って魔法をかけたことを謝るなんて、槇村らしくないと思った。

「許さないって言ったらどうします?」
「許すと言ってくれるまで、おまえを抱く」

 やっぱり槇村は槇村だった。

「それじゃ許します」
「それじゃ?」
「いえ、許します、無条件で」
「よかった」

 槇村の顔から硬さが消えた。

「その魔法で私に憑いてるものがわかるんですか」
「わかることもあるし、わからないこともある。昔、高校の同級生で試したことがある。そしたら狸になった奴がいた。すぐ元に戻した。本人は覚えてない」
「タヌキですか」
「たぶん、祖先が化け狸だったんだろう。本人は普通の男だ。今はオーケストラでパーカッショニストをやってる。大方祖先が腹鼓を打っていたから才能を受け継いだんだろ」

 同級生で魔法を試すとはひどい話である。瀧山も迷惑を被っていたのではないかと、七三子は想像した。
 それはともかく、七三子自身はどうだったのか。

「私の正体わかったんですか。何だったんですか」

 七三子は記憶にない時間のことを思い出していた。たぶん、槇村は見たのだ。七三子の中に眠るものを。

「知りたいか」
「タヌキですか。キツネですか。それともムジナですか。あ、化け猫とか」

 槇村はすぐには口に出せなかった。果たして七三子はどう反応するだろうか。
 七三子は槇村の言葉を待った。何を言われても槇村を責めたくはなかった。亡くなった母(本当は父の従兄の妻だが)は口癖のように言っていた。

『七三子、何があっても人を憎んだり妬んだり恨んだりしてはいけないよ。人を憎み妬み恨んだら鬼になってしまう』

 母は言葉通り人を憎んだり妬んだり恨んだりしなかった。病の床で意識を失うまで、父の葬儀以外は朗らかに笑っていた。七三子と姉の記憶に残る母はいつも明るかった。遺影も笑顔だった。弔問客達は涙しながら、母との楽しい思い出を姉妹に語った。皆に残る母の記憶は笑顔だった。以来、七三子も姉も母の教えを守るようになった。無論、笑えない日もあった。そんな日は誰もいない場所で一人で泣いた。
 だから、槇村に何を言われても笑おうと思った。祖先を恨むのもお門違いだ。タヌキもキツネもムジナも猫も元は小さな弱い生き物だ。タヌキなど人間に捕らえらえて食べられたりしていた。そんな生き物が化けて人になるなんて、健気ではないか。健気なご先祖様を恨むなどできない。

「動物じゃない」
「違うんですか」
「……おまえ、本当に覚えてないんだな」
「はい。気が付いたら目の前に槇村さんがいて。雷も大きいのが2回鳴ったらしいんですけど1回しか聞いてないし」
「鬼だ」

 槇村はあっさりと言った。クイズの司会じゃあるまいし、溜めるのは馬鹿馬鹿しいし時間の無駄だ。
 七三子は首を傾げた。

「あの、もう一度言ってください」
「鬼、だ」
「はあ……」

 七三子は拍子抜けしたような声を発した。
 槇村にとっては意外な反応だった。もっと驚くと思っていたのに。

「おい、鬼なんだぞ」
「鬼って、いくら苗字に鬼が入ってるからって、なんだかひねりがないっていうか」
「ひ、ひねりぃ?」

 そういう問題ではないような気がした。

「おまえ、般若みたいな顔だったんだぞ。角はこんなふうに額に二本生えてるし」

 槇村は両手の人差し指を立てて額の左右にあてた。

「なんだか牛みたい」

 七三子は吹き出してしまった。
 笑いごとじゃないと槇村は思う。

「母の言う通りだったんですね」
「え?」
「母が言ってたんです。人を憎み妬み恨んだら鬼になるから、人を憎んだり妬んだり恨んだりしちゃいけないって。母は知ってたんですね」
「そんなことを……」
 
 七三子を育てた母親は娘が鬼にならぬように育てたのだ。それでも、鬼に化してしまったのは、福田があまりに邪悪だったからだろう。

「鬼になったのはおまえのせいじゃないだろ。おまえは福田のせいで鬼になったんだ。あいつはおまえに酷いことをしたんだ。だから鬼になったことを悔やむことはない。それに、俺のかけた魔法の力もある。たぶん、おまえを育てた母親はおまえが鬼にならないように封印していたんだ。それを俺が魔法で破った」
「それじゃ、この先、私はまた鬼になるんですか」

 槇村の魔法が封印を破ったのだから、それはありえる話だった。

「福田のような奴が現れたらな」
「あなたが私を裏切ったら?」

 七三子の目はまっすぐに槇村を見つめていた。これだと槇村は思った。あの鬼もこんな目をしていた。

「鬼になるだろうな。その時はお手柔らかに頼む。福田にしたようなことは御免被る」
「え? あ、もしかして、あの時のあれって、私がしたっていうこと……」

 白目を剥いて床に仰向けに倒れ失禁していた福田の有様を思い出し七三子はうつむいた。

「まあ、そういうことだ。俺が来た時にはああなってた。でもな、怪我は背中と股間の打撲だけだ」

 股間は打撲などという生やさしいものではなかったが、同性として語るに忍びなかった。

「なんてこと……」

 槇村は立ち上がった。

「やってしまったことは仕方ない。それに、おまえの怒りは正当なものだ。財産を奪われ命まで取られそうになって、憎むな恨むなというのは無理な話だ。そんなことより、腹減っただろ。レストラン予約してるから支度しろ。ここのホテルのオーナーは親父の友人で魔法使いだ。気兼ねはいらない」
「でも……」
「奴は死んだ。俺たちは生きている。だから飯を食わなくちゃならない。それに、さっき言っただろ。俺の子を産んでもらうって。お前はもう少し肉をつけないとな」
「鬼の子が生まれたら」
「別にいいじゃないか。鬼でも魔法使いでも」

 そんなことを話しながら、槇村は指を幾度か鳴らす。そのたびに体液にまみれた七三子と槇村の身体はさっぱりときれいになり、レストランにふさわしい姿になってゆく。
 真紅のシルクのカクテルドレスにベージュのシフォンのストール姿になった七三子は目を丸くして自分の全身を近くの鏡で確認した。
 タキシードの槇村はその背後に立った。
 
「これでいいな。七三子、自信をもて。俺は今まで他の鬼に会ったことはないが、たぶんおまえは鬼一番の美女だ」
「会ったことないのに一番て。まるで1人しか参加してないマイナー競技の県大会で1位になったみたい」

 誉めるにしてももう少し言い方があるだろうと七三子は思う。

「マイナー競技か。たぶん、鬼は減ってるんだろうな。山に住んでるのはどれくらいいるんだ」
「3家族残ってたと思います。一番若いのは60代の夫婦です。でも皆が鬼とは限らないし」
「他は山を下りたのか」
「はい。うちも祖父の代に兄弟姉妹が山を下りたって」

 ということは鬼は全国に散らばっているのかもしれない。彼らは素顔を隠して人に交じって生きているのだろう。誰も憎まず妬まず恨まぬように。

「まあいい。俺はおまえが鬼だろうが狸だろうが、構わない」

 槇村はそう言うと、指を鳴らした。
 次の瞬間、二人はレストランのあるフロアに立っていた。





 レストランに入ると個室に案内された。大きな窓からは港が見えた。すっかり日の暮れた港町の夜景は様々な色の宝石が散りばめられたようだった。
 料理はフレンチのフルコースだった。メインは牛フィレ肉のポワレだった。福田と食べたものよりずっとおいしかった。こうして福田との記憶が上書きされて忘れられていくのだろうと七三子は思う。寂しさを感じないと言えば嘘になる。
 デザートはパッションフルーツのゼリー、それにバニラアイス添えのブルーベリーのケーキだった。
 
「私、パッションフルーツって初めてです」
「ゼリーよりも生のほうがうまい。種ごと食べるんだ」
「種って大きいんですか」
「小さいのがいっぱい入ってる。これはゼリーだから種は取ってる」
「種食べにくいんじゃないですか」
「それがいいんだ」

 そんな会話をしながら初めて食べるゼリーは甘酸っぱかった。
 コーヒーが出たところで、指の鳴る音がして、テーブルの中央に小さな箱が現れた。

「何ですか」

 槇村は箱を手にし蓋を開け、箱の内部を七三子に向けた。
 銀色の指輪だった。トップに輝くのはたぶんダイヤモンドだ。

「パッションフルーツの種より小さいが、一応ダイヤだ。指のサイズは寝てる間に測った。婚約指輪っていうやつだな」

 なんとなくいつもより声が小さい。もしかすると槇村は照れているのだろうか。七三子は自分の想像がなんだかおかしくて笑ってしまった。

「え?」
「ごめんなさい。なんだか声がいつもより小さくて」
「初めてだからな。女に指輪を贈るなんて」
「ありがとうございます。私も初めていただくので、これ以上どう言っていいのか」

 涙が溢れて、それ以上言葉が出なかった。
 指輪に変わってしまった福田に渡した300万円のことは簡単には忘れられない。けれど、七三子には今目の前にある指輪で十分だった。
 槇村は立ち上がり、七三子の席の左に跪き、左手をそっと掴んだ。薬指にはめられた指輪のサイズはぴったりだった。

「太ったらどうしましょう。太らせたいんでしょ?」
「その時は直せばいい」
「お金がかかるんじゃ」
「細かいことを心配するな。おまえはもっと堂々としてろ。鬼一番の美女だろ。俺の鬼嫁、いや正確には俺の鬼妻なんだから」

 槇村はそう言うと、手の甲に口づけた。まるで騎士のように。




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