ヴァルプルギスの夜に恋して

三矢由巳

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17 罠

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 梅雨入りが近くなった。
 あれから警察からの連絡はなかった。他の職員が警察から話を聞かれたという噂も聞かない。
 槇村も仕事が多忙のようで、七三子が眠っている間に帰宅する日が続き、福田の話をする間もなかった。
 一体、どうなったのだろうかと七三子は思ったものの、福田に訊くわけにもいかぬまま、1週間ほどが過ぎた。
 中間考査の結果が出て部活が再開され、学校はいつものにぎやかさを取り戻した。





「明日から海外に出張だ」

 火曜日の夜、珍しく夕食前に帰って来た槇村はそう言うと指を鳴らした。目の前にスーツケースが現れ、すぐにワイシャツや下着がクローゼットから列をなして収納されていった。

「どちらに」
「上海とマレーシア。来週の月曜に帰って来る」
「そんなに遠くに」
「いつものことさ。留守の間、男爵以外の使い魔にも来させる。紹介しよう」

 いつの間にか、槇村の後ろに男と女が跪いていた。

「こっちが子爵。ニシキヘビの使い魔だ」

 蛇。七三子はあとずさりそうになったが堪えた。槇村よりも背の高いスキンヘッドの子爵は蛇を連想させる柄のシャツに光沢のある素材を用いた黒いパンツ姿であった。むっつりとした顔の子爵は立ち上がり軽く会釈した。

「そっちは伯爵夫人。フクロウの使い魔だ」

 灰色のケープで全身を覆った女性は表情を変えず西洋の貴族の女性がするように膝を軽く折って挨拶をした。

「よろしく」

 二人とも男爵同様、表情が読みにくかった。それでも多少の喜怒哀楽はあるに違いないから、七三子はよく観察しようと思った。

「もし何かあったら、俺の名を呼べ」

 中国やマレーシアにいて、聞こえるものだろうか。七三子には半信半疑だった。

「おいおい、何心配してる? たった5泊6日のことだ。奴に気を付けさえすればいい。こいつらも近くにいる」
「学校にまで来るんですか」
「学校なら蛇やフクロウがいても、不思議はないだろう」
「フクロウはともかく、蛇は気を付けないと見つかったら大変です。捕獲器が事務室にあるんですよ」
「そんなのに捕まるようなヘマはしないがな」

 槇村の言葉にわずかに伯爵夫人の頬が緩んだように見えた。笑っていると七三子は思った。
 子爵は相変わらずむっつりとしていた。





 槇村が出張に出た夜、七三子は広いベッドで初めて一人で過ごした。自分の部屋の布団でもよかったが、なんとなく槇村の寝室にいたかった。槇村の匂いをつけておかないと、もし他の魔法使いや悪魔に会った場合、まずいような気がしたのである。魔界ガイドを読んだせいかもしれない。ガイドには魔族や魔法使いの眷属は匂いが薄れると、他の魔族に目を付けられるとあった。
 使い魔たちは男爵以外は黙ってリビングの片隅にいた。子爵は座って雑誌を読んでいた。伯爵夫人は刺繍に精を出していた。何を作っているのか聞くと表情を変えずに「呪いの刺繍です」と答えた。次からは尋ねないほうがいいような気がした。
 七三子が寝室に入ると、彼らはリビングから姿を消した。マンションの周辺で七三子を守っていたのである。





 土曜日は朝から蒸し暑かった。6月1日からと決まっているので、エアコンはまだ使えない。生徒も教職員もハンカチやタオルが手放せなかった。
 1時を回り、終業時間になった事務室は遅番の七三子を除いて皆退勤した。
 本来なら来週の金曜日の遅番だったのだが、今日予定の事務員の子どもが保育園で熱を出したので交代したのだった。
 槇村は出張なので七三子の帰りを待っていらいらすることもないだろうと引き受けた。
 その代わり、槇村には遅番になったことをメールした。槇村はまめにメールをよこしていた。今朝はもうすぐマレーシアに入国するとあった。七三子もしないわけにはいかなかった。
 土曜日の遅番は5時終了なので、七三子は魔界ガイドを開いた。勿論カバー付きである。
 デパートの包装紙で作ったカバーを見た槇村は文庫本カバーを買ってやると言ったが、文庫本本体と同じ値段かそれより高いカバーは勿体ないと七三子は断ったのである。
 その時の槇村のなんとも苦り切った顔は魔法使いらしくなかった。
 今日読むのは魔界の組織。魔界のトップはルシファーで、ベルゼビュート・アスタロトとともに三人の支配者の一人だと言う。支配者が三人ともトップというわけではなく、代表がルシファーということらしい。その辺の細かい事情はわからないが、魔界にもいろいろと複雑な事情があるのかもしれなかった。
 インキュバスの名もあった。男性型の夢魔で女性型はサッキュバス。襲われる人間の理想の異性像に姿を変えるというのは納得できた。
 午後4時頃まで、来客も生徒の怪我の報告もなく、七三子はガイドを予定まで読み進められた。





 内線の着信音が鳴り響いたのは4時13分。液晶表示を見ると社会科準備室からだった。

「はい、事務室です」

 福田でなければいいと思った。

『社会科教室に蛇が出たので、捕獲器を持って来てもらえませんか』

 福田の声だった。七三子は冷静に対応しようと深呼吸した。

「はい。生徒はいますか。パニックになったりしてませんか」

 蔦のからまった校舎の壁や生垣に蛇が出没するので、学校には捕獲器があった。

『今、部活中で生徒は教室の外に出しています』

 生徒が廊下にいるのなら捕獲器を持って行っても問題はあるまい。

「わかりました。すぐに参ります」

 福田はフランス文学研究会の顧問だった。5人しかいないマイナーな会だが、研究発表を毎年文化祭でやっていた。外国語大のフランス語科に入学した卒業生もいてそれなりに実績もあった。
 七三子は事務室の奥の倉庫に入った。捕獲器は1か月ほど前にも使っていたので、場所はわかっていた。
 捕獲器を見つけ、事務室の鍵を締めて、社会科教室に向かった。
 事務室のある本館と渡り廊下でつながった特別教室棟の3階にある社会科教室まで3分。
 3階に上がる途中で、生徒たちに出くわした。顔色のよくない女子生徒をかかえるように女子が二人両脇にいた。

「どうしたの?」
「ヘビが教室に出て、気分が悪くなったので外に」

 養護教諭は退勤したので保健室は使えない。が、薄暗い校舎にいるよりは明るい外にいるほうがましかもしれなかった。

「足元気を付けて」

 七三子は急いだ。蛇を早く捕まえなければ。
 社会科教室のドアをノックした。

「捕獲器持って来ました」

 そう言って中に入った。福田が教卓のほうから歩いてきた。生徒はいないようだった。どうやら今日は3人だけで活動していたらしい。
 相変わらずの福田の美貌だが、七三子は直視できなかった。槇村の話や警察の聴取を思えば今の状況はあまり好ましいことではない。
 とにかくさっさと用事をすませて出て行きたかった。

「蛇はどちらですか」

 福田も蛇が苦手らしく、顔色がよくないように見えた。

「今、あのカーテンの陰です」

 指差したのは、窓の両脇に寄せられたカーテンだった。
 七三子はそっと近づいた。捕獲器は伸縮式の棒で、約1・5メートルまで伸びる。つまり蛇にそこまで近づかないといけない。
 だが、近付いても蛇らしい生き物の姿は見えない。

「いませんね……」

 気付いた時には遅かった。
 背後から身体を羽交い絞めにされていた。身動きが取れず、七三子は足をじたばたさせるしかなかった。

「何するの!」
「警察に何を話した?」

 ぞっとするような冷たい声だった。

「離して!」
「何を話した」
「知らない。警察なんか」

 そこでやっと七三子は大学の女子学生対象の講習会で教わった護身術を思い出した。両腕を万歳するように伸ばして身体を下げ捕獲器を放り投げた。

「いて!」

 捕獲器が当たったのか、福田が後ろに下がった。その隙を見て七三子は福田から離れ教室の入り口に向かって走った。

「待て」

 福田は七三子の背中に体当たりした。七三子はその場に倒れ込んだ。背中の痛みに耐えながら振り返り足元に立つ福田を見た。その顔は悪鬼のようだった。七三子の知らない福田の顔だった。

「福田先生、私遅番なんです。事務室に戻らないといけないんです」

 七三子はなんとか穏便に事を済ませたかった。仮にも今は勤務時間なのだから。

「事務室は鍵締めてるんでしょう。それにこの時間になれば来訪者もいない。部活もそろそろ終わりだ」

 福田は落ち着いていた。
 どうやら解放してくれそうもないらしい。理由を知りたかった。

「どうしてこんな真似するんですか。私、何かいけないことをしたんでしょうか」

 七三子の声に福田は眉を顰めた。

「いい加減、とぼけるのはやめた方がいい。君がいけない。警察に話したの君だろ?」

 福田は警察が彼を調べていることに気付いたらしい。だが、恐らく七三子だけが警察の調べを受けているはずはなかろう。
 福田の目が冷たく七三子を見据えた。

「私のことをいろいろ嗅ぎまわっていたのはわかっている。アパートの焼け跡に二人でいたのもそういうことだろう。まったく、君があそこを出ていたとはね。こちらの計画がまるでわかっていたようだな」
「まさか、あなただったの!」

 七三子は衝撃で叫んでいた。やはり、あのアパートの火事は福田の仕業だったのかと。

「変装していたから監視カメラではわからないだろうけどね。まったく君は運がいいよ。自分でもそう言ってたけど、本当にそうだったんだな。だけど、それも今日までのことだ」

 ニヤリと笑った顔はまるで悪魔のように見えた。




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