ヴァルプルギスの夜に恋して

三矢由巳

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14 魔法使いとの休日

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 翌日の午後、七三子は七草荘の大家の家を訪ねた。
 大家の春野セリは七三子を見ると、大歓迎してくれた。

「消防や警察に話を聞かれて、もうクタクタだよ」

 そう言いながらもお茶とともに大量の菓子を出してくれた。
 アパートの住人達はセリの持っているもう一つのアパートの空き室に移ってもらったと言う。住人達はひとまず落ち着いたものの、明け方の火事で着の身着のままで逃げて来たため、家財一切失ってしまって皆意気消沈しているらしい。

「布団は近所の布団屋さんが貸してくれたんだけど、服がね。寝巻で逃げてきた人もいるから」

 七三子は一昨日の買い物を思い出した。あの服に費やしたお金がなんだか申し訳なく思えてきた。だからといって店に返品して戻ってきたお金を使ってというわけにはいかない。金は七三子のものではないのだ。

「皆の命が助かっただけでもね」

 とりあえず、七三子は槇村が持たせたお見舞いと書かれた金封をセリに渡した。中身はわからないが、これが皆の助けになればと思う。

「済まないねえ。ありがとう。これ皆に分けるから。本当に人の情が沁みるよ。だってねえ、隣のアパートの人までお見舞い持って来るんだもの。皆、暮らしが大変なのにね。ありがたいよ」

 春野家を出ると、門の前で槇村が呼び止めた。七三子をここまで送った後、近所で時間をつぶしていたらしい。

「現場行くか」

 槇村は七三子の持つレジ袋に気付いた。

「その袋は何だ」
「大家さんの家庭菜園の野菜です。玉ねぎとジャガイモが入ってます」 

 槇村はひょいと七三子の持つレジ袋を手にした。

「ありがとうございます」
「男爵に作らせると、これがお上品なヴィシソワーズとかいうのに化けるんだ。俺は肉じゃがが食いたいのに」
「作ります」
「いいのか。じゃ帰りに醤油を買おう」
「醤油ないんですか」
「ああ。新鮮な魚が手に入ったから刺身にと思ってたら、カルパッチョとやらにされるんだ」

 そんなことを話しているうちに火災現場に着いた。まだ立入禁止の黄色いテープが張ってあるので近くには寄れないが、ほぼ丸焼けで土台と焼け残った太い柱や梁、ゆがんだアルミの窓枠が残っているだけだった。
 七三子はため息をついた。姉と離れての初めての一人暮らし。隣のおばさんや大家さん、一階のおじいさん、皆親切だった。なのに、その生活は一変してしまった。

「さっき、ここで見てたら、隣の家のばあさんが放火らしいと言っていた。大家はなんと?」

 槇村は声を低めて言う。七三子も少し声を控えた。

「漏電じゃないみたいだって言ってました。放火だったらどうしようって。そういう事件て連続することがあるから」

 まだ正式には放火が原因と認定されたわけではないようだが、付近の住民は不安になっているようだった。

「やっぱり、火元は私のいた部屋の真下の空き部屋でした」
「となるとやはり」

 七三子は考えたくなかった。自分を狙って放火など。

「目撃者っているんでしょうか」
「いないらしい。ただ最近は監視カメラがあちこちにあるから、警察がそれを調べているらしい。もっとも犯人もそれを見越して変装くらいはするだろう」





 その時だった。背後に気配があった。

「鬼河原さん、大丈夫だったんだね」

 振り返るのが怖かったが、七三子は勇気を出した。隣には槇村がいるのだ。

「福田先生、どうされたんですか」

 端正な顔の福田幸多こうたがそこに立っていた。

「ニュースで昨日知ってね。事務長には連絡した?」

 返事をしたのは槇村だった。

「ええ。昨日の朝、事務長さんから安否確認がありました」

 福田の顔が微妙に歪んだように見えた。

「あなたは、確かこの前猫を引き取りに来た方ですよね」
「私は槇村柊人と申します。鬼河原七三子の婚約者ですが」

 福田の表情に驚きがありありと見えた。

「婚約者。そうですか」
「アパートを引き払った矢先の火事で私も驚きましたよ。女の一人暮らしは何かと不用心なので、私の部屋へ移ってもらいましてね」
「それじゃ、猫は」
「あれは七三子の匂いを追いかけてきたんでしょう。困った奴です。飼い主を誰だと思ってるんでしょうかね」
「犬みたいな猫ですね。そうですか。おめでとう、鬼河原さん」
「ありがとうございます。先生のところもおめでたいじゃありませんか。そろそろ6か月でしたっけ」
「おかげさまでね」

 あたりさわりのないやり取りだが、七三子は緊張していた。福田に隙を見せてはならないと。

「さて、それじゃ、帰ろうか」

 槇村は七三子の腕をつかんだ。引っ張られるようにして、表通りまで出てから槇村は言った。

「おまえ、不自然過ぎ。あれじゃすぐに疑ってることがわかるぞ」

 言われてみればそうで、七三子は職場にいる時のような対応ができなかった。
 近くのスーパーの駐車場に止めていた車にとりあえず野菜を積んだ後、スーパーで醤油とみりんと料理酒を買った。
 マンションに戻ってキッチンにレジ袋を置くと、男爵が醤油を見て驚いていた。

「これを使うにょか」
「肉じゃがにするから。男爵、キッチン使わせてね」

 珍しく男爵が返事をしなかった。

「おい、男爵。七三子の料理くらい、食べさせてくれ」

 槇村の一言で、男爵はうなずいた。

「わかりましたにゃん」

 男爵は七三子に調味料の場所や冷凍冷蔵庫の中の食品の場所、食器や鍋の置き場所を一通り教えた。
 IHコンロの使い方を教えた後、男爵は言った。

「くれぐれも、コンロはきれいにして欲しいにゃん」

 それを聞いていた槇村はまるで台所を明け渡す姑のようだと笑った。
 七三子はここは男爵にとってのお城なのだと気付いた。

「男爵、貸してくれてありがとう。借りるのは今日の夕ご飯だけだからね。明日の朝からは好きにしていいからね」

 そう言っても男爵は肩を落としたままだった。





「男爵にとっては飯作りが生きがいなんだ」

 そう言う槇村の前には空になった皿と茶碗と汁椀が並んでいた。

「なんだか男爵に申し訳なくて」
「気にするな。明日の朝になればバターたっぷりのパンとポタージュを張りきって出すからな。まだジャガイモあるんだろ」
「はい」
「それじゃ明日はポテトサラダもあるかな」

 七三子は皿を片付けようと槇村の食器に手を伸ばした。すると茶碗は勝手にテーブルの上から離れて空中に行列を作ってキッチンに向かった。

「魔法……」

 七三子は思い出した。槇村は魔法使いなのだ。

「皿洗いはいい。それよりもだ」

 槇村は七三子を見据えた。七三子は動けなくなった。

「問題は福田だ。もしあいつがやったんなら、近いうちにまた動きがあるはずだ。俺のいない場所でな」

 考えたくない事態だった。

「今日、俺が婚約者だとわかって、奴は焦ってるに違いない。近くに身内のいない時ならまだしも、俺がいるから色仕掛けも使えない」
「色仕掛けって……」
「この前、駅まで送られるとこだっただろ。いかにも名残惜しげな顔だったな、おまえ」
「そんなことないです」
「ふーん、ならいい。後で身体に聞くから」

 恐ろしいことを平然と言う槇村だった。

「奴はたぶん職場でアクションを起こすはずだ。平日なら俺も会社だしな。学校っていうところは案外と死角があるもんだ。トイレの裏とか、体育倉庫とか用具室とか。屋上もな」
「最近の学校は屋上出られないようになってます。体育倉庫や用具室の鍵の管理も厳重なんですよ。トイレも周辺もきれいに明るくなってます。それにうち警備員が放課後から朝まで校門に常駐してます」
「正門だけだろ。それに鍵を持ってる人間がいい加減ならどうなる? 奴の教科は世界史だよな。社会科の教室や準備室の鍵を持ってるはずだ」
「地歴の職員、8人いるんですよ。責任者の石井先生は厳しい方ですし」
「だが、悪い奴っていうのはそれでも悪いことをするんだ。いいか、校内で一人になるなよ。この前も事務室に一人だっただろ」
「あれは遅番だったからです。2週間に1度まわってくるんです」
「遅番要注意だな」
「普通に仕事をしていれば、職員室の先生方と接触する機会なんてほとんどないんです」
「懇親会みたいなのはないのか」
「歓迎会はもう終わりました。5月はPTA総会の準備会がありますけど、あれはPTA担当の職員と保護者だけですし。各教科でやったりしますけど、私達は事務ですから」
「ならそっちは大丈夫だな。だが油断は禁物だ。一人になるなよ」
「エネルギー注入もしてもらったから大丈夫です」

 そう言った七三子を槇村は抱き寄せた。

「おまえ、自分で何言ってるかわかってるのか」
「え? 何も変なこと言ってないですけど」
「ホントにおまえ、今年30になるんだよな」
「そうですけど」

 七三子は自分では若くはないと思っている。明らかに10年前と比べてちょっとした傷の治り方が遅くなっているし、肌のきめが粗くなっているように思える。
 だが、槇村にはそう見えなかった。子どものように周囲の善意を信じ、挙句に福田に金を巻き上げられたのに、今度は槇村を信じている姿は呆れるほど子どもだった。人間不信、男性不信になってもおかしくないのに。
 昨夜も普通の女性ならもういい加減にしてとベッドルームを飛び出してもおかしくないほどの槇村の欲望を全身で受け止めていた。
 そんな七三子の健気で本人も気付いていない妖艶な姿は槇村を喜ばせた。
 ケツ顎と言われた顎に口づけされた時は、もう天にも昇りそうな、いや魔法使い的に言えば、地獄に落ちそうなくらい最高の気分だった。
 今もエネルギー注入してもらったからなんて、槇村を狂喜させるようなことを平然と言うのだから困ったものだった。
 彼女の性的な感覚の鈍さに感謝しなければなるまいと槇村は思う。自分だけが彼女のことをすべて知っている、そんな優越感を槇村は感じていた。





 翌日の連休3日目。七三子は前夜から午前いっぱい、夜も日付が変わるまで槇村にベッドや浴室でエネルギーを注入され続けた。
 媚薬はゆっくり長く効くタイプだった。1度だけの服用だったのに、2日以上も効果が持続したのには槇村も驚いていた。
 当然ながら、七三子も連日連夜行為をするのは初めてで、身体が変になるのではないかと思ったが、本当にエネルギーが充填されたのか、連休4日目の朝は普通に寝室から出られた。
 すでに起きていた槇村は七三子を買い物に連れ出した。
 七三子の持ち物や普段着、仕事着、化粧品、身に付けるものすべて、男の槇村から見てももう少しどうにかできないかと思われるレベルだった。
 ブランド物でなくとも、普段使いの物ももう少しなんとかしたかった。
 デパートに着くと、玄関で女性が2人を待っていた。ルリという名でやはり魔女だと言う。

「この前の集まり、私も出たかったんだけど、急に仕事になっちゃって」

 少し派手目の化粧のルリの仕事は看護師だった。仕事の時はこんな化粧はしないのだと言う。

「俺じゃわからんから。ルリは詳しいから」

 槇村はそう言って、書店を回ってくるからと二人と別れた。
 槇村の姿が見えなくなると、七三子は少し心細くなった。デパートで買い物をするなんて年に一度あるかないかだし、わずか数日とはいえずっと一緒にいた男がいないというのは、心もとないのだった。
 おまけに魔女のルリは女の目から見ても魅力的だった。なんだか隣にいるのが恥ずかしくなってくる。
 ルリはそんな七三子にこう言った。

「さ、買い物、買い物。こんなに気前のいいシュウなんてめったにないよ。あいつケチだもんね。だけど、よくあいつがこんな堅気のお嬢さんを選んだもんよね。買い物終わったら話聞かせてね」

 ヒールの音を響かせてルリは歩き始めた。七三子はそれを追っかけた。





 ルリのアドバイスで当座必要な服や化粧品等を揃えた後、二人はデパートの近くのカフェに入った。買ったものは駐車場に運んでもらう手筈になっている。

「つまり、間違って会合場所に来ちゃったんだ」

 七三子の話にルリは同情的にうなずいた。二人は奥まったボックス席にいるので、大声を出さない限り、他の席には会話の内容は聞こえない。

「インキュバスは性質たちが悪いからねえ。あなた運がいいわ。シュウに助けられるんだもの」
「そう思いますか? そうですよね。私、運がいんですよね」
「けど、問題はその後だったでしょ」

 確かにそうだった。昼間に話せる話ではない。

「災難でもあり、幸運でもあり、ってとこだね」

 ルリは察したのかそれ以上は言わなかった。
 その後は仕事の話になった。ルリは驚いたことに暁天大学付属病院で看護師をしていた。外科の主任で、ヴァルプルギスの時は緊急手術が入ったため、休みのところを呼び出されたという。

「大変なんですね、お仕事」
「学校も大変でしょ。生きている人間、それも若い子達を相手にしてるんだし」
「先生方ほどではないです」
「だけど、人間関係とかいろいろ面倒なこともあるわけじゃない? 病院の中なんか、もういろいろあって大変。面白いことは面白いんだけどね」

 七三子は不思議な気がした。魔女という肩書をのぞけば、ルリも同僚達とあまり変わらない。こうして普通に話せるのだ。
 コーヒーを飲み終ったのを見計らったように、七三子の携帯に槇村からメールが入った。

「それじゃ私は帰るから。今夜は夜勤なんだ。シュウによろしく伝えといて」

 そう言ってルリは立ち上がった。

「今日はどうもありがとうございました」

 カフェの前でルリと別れた七三子は待ち合わせ場所のデパート前に戻った。
 槇村の顔を見た時、七三子はほっとしている自分に気付いた。
 こうして少しずつ槇村の居場所が心の中で大きくなっていく。
 こんなことは今までなかったような気がする。福田と交際している時にもこんなことを感じたことはなかった。

「遅いぞ」
「ルリさんと話してたもんですから。よろしくって言ってました。今夜は夜勤だそうです」
「一体何の話してたんだ。ま、いい。飯だ。今日は寿司屋に行くぞ。回る寿司じゃないぞ」
「回らない寿司って値段書いてないんですよね」
「大丈夫だ。値段は書いてある。俺がよく行くところだ」

 そう言うと槇村は七三子に腕を組むように囁いた。七三子はそっと右腕を槇村の左腕にからませた。
 腕を組む、それは単なる腕だけの接触ではない。身体も密着する行為だった。槇村の心臓の鼓動が伝わってきそうだった。
 恥ずかしいけれど、なんだか嬉しくて、七三子は少し俯き加減になった。

「おい、前をちゃんと見ないと危ないぞ」

 七三子は前を見つめた。まぶしいくらい街は光に満ちていた。



 そんな二人を背後からじっと見つめる男がいることに、七三子はまだ気付いていなかった。



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