12 / 26
12 火事と事故
しおりを挟む
「大変だにゃん!」
連休初日の日曜の朝、リビングに男爵が走って来た。手にはポータブルテレビを持っている。相変わらずのにやにや顔だが慌てていると七三子にもわかった。
ポータブルテレビはニュースの映像を流していた。暗闇に炎と黒い煙が禍々しく広がっていた。
『……のアパート七草荘の一階から火が出て木造モルタル建てのアパート一棟が全焼しました。消防の調べでは火元は一階の空室ではないかと見られています。なおアパートの住人全員とは連絡がとれており、負傷者はありません』
七三子の目は映像に釘づけになった。燃えているのは明らかに自分が住んでいたアパートだった。ちらっと隣の部屋のおばさんの顔が見えた。途方に暮れて立ちすくむ姿に七三子もまた茫然となっていた。
「いつなの、これ……」
「午前4時だにゃん」
火元の一階の空室というのは、七三子の住んでいた二階の部屋の真下だった。築40年余りのアパートは全室満室というわけではなかった。
「昨日のうちに出ていて正解だったな」
槇村がつぶやいた。
姉が結婚した後引っ越して3年お世話になったアパートだった。大家さんは隣の敷地に住んでいる80歳近い老婆だった。顔を合わせると家庭菜園の野菜をお裾分けしてくれた。ニュースを見た感じでは大家さんの家には被害はないようだった。
「大家さんとこにお見舞いに行きます」
「今朝火事に遭ってすぐというわけにはいかないだろう。あっちもいろんな対応でてんてこ舞いだ。それよりお姉さんに連絡しといたほうがいいんじゃないか」
確かにそうだった。姉がこのニュースを知ったら驚くに違いなかった。
七三子は姉に無事だと電話した。槇村の話はいくらなんでも急すぎると思ったので言うつもりはなかった。
が、途中で槇村が電話を奪った。
「私、七三子さんとお付き合いをさせていただいている槇村と申します。今、七三子さんは私の所有する不動産の部屋でお預かりしています。近いうちにご挨拶に伺いたいので、よろしくお願いします」
所有する不動産の部屋。嘘ではないが、正確でもない。
姉は驚いたが、「所有する不動産」という言葉で、槇村の経済力に安堵したようだった。
『近いうちといわず、今日にでもおいでください。お仕事お休みなんでしょ』
姉は強引だった。恐らく妹の相手をできるだけ早く自分の目で見極めたいと思っているのだろう。
こうして七三子は槇村とともに挨拶に行くことになったのだった。
その直後に火災のニュースを見た事務長から七三子の安否を確認する電話があった。七三子は無事であること、引っ越した後で家財は無事だったことを報告した。
朝食後、槇村の車で姉の家へ向かった。
埼玉の姉夫妻は槇村を一目見て気に入ってしまった。
「会場を間違えて、私が参加していた別の婚活イベントの会場に妹さんがおいでになったものですから」
と馴れ初めをでっち上げたが、姉は怪しまなかった。義兄も槇村と趣味のDIYの話で盛り上がっていた。
なんといっても上場会社のサラリーマンという肩書が、姉夫妻を信用させてしまった。槇村の車が堅実なイメージのあるメーカーのセダンタイプの車であったことも好印象を与えたようだった。
唯一不機嫌だったのは姉の8か月になる男児だった。槇村が玄関に入ってきた途端、ぎゃあと火のついたように泣き出し、家の中にいる間、ずっとぐずっていた。
「おかしいわね。こんなにぐずるなんて。熱はないみたいなんだけど」
純真な子どもにはまがまがしいものがわかるらしいと七三子は思ったものの、それは言わないでおいた。
姉の家を辞した後、マンションに戻り今度はネット回線でイギリスのロンドン郊外に住む槇村の両親と対面した。日本時間は夕方、イギリスは早朝である。
槇村の話では両親も魔法使いと魔女だということだった。だが、見た限りでは普通の品のいい六十代の夫婦だった。
父親の両親も魔法使いと魔女で、父方の祖父はイギリス人、祖母は日本人だということだった。
二人は七三子が一般人だと知ると驚いていたが、息子が選んだなら大丈夫だろうと言った。
『七三子さん、柊人をよろしくね』
『柊人、七三子さんを大切にするんだぞ』
姑と舅の挨拶はありきたりだが、七三子にとってはありがたかった。親と呼べる人ができるのだから。
12月末に日本に帰る、入籍は先にしてもいいが、仲間を集めての披露宴をするようにと言われた。
通話が終わった後、七三子はつぶやいていた。
「顎って遺伝するんだ」
それを聞き逃す槇村ではなかった。
「割れ顎はな、顎えくぼという言い方もあるんだ。海外じゃセクシーだと言われてる」
「ここ、日本です」
七三子はその場でくすぐりの刑に処せられた。いつの間に手に入れたのか、槇村はガチョウの羽根を手にしていた。
「ちょっと甘やかすとすぐ調子に乗りやがってええ」
「ひゃあ、やめ、ひゃああ、くすぐった!」
顎の下や脇、足の裏をくすぐられて、七三子はひいひい笑った。おなかがまた痛くなった。
「いい加減にしてくださいにゃん」
男爵がお茶を持って来た。槇村はガチョウの羽根を七三子の首から離した。
七三子は息を整えながらソファから起き上がった。
「奥様、苦しそうですにゃん」
「ったく、怒るか、この程度で」
男爵が怒っている? 七三子はその表情を見た。笑っているような顔がいつもと違い、少しだけ目がつり上がっているように見えた。こんな表情もあるのかと見つめる七三子を見て男爵が目尻を少し下げたように見えた。
「奥様、大丈夫ですかにゃん」
「大丈夫。男爵、心配してくれてありがとう」
男爵の顔が一瞬真っ赤になったように見えた。
「奥様! 奥様、大好きにゃん!」
そう言うと飛び上がるようにキッチンに行き、今度はケーキを持って来た。
「チーズケーキ、お召し上がりくださいにゃん!」
「男爵、おまえなあ……」
槇村は呆れたように使い魔を見た。男爵は小躍りして、キッチンに向かった。
七三子は男爵がいてくれてよかったと思った。槇村と二人だけなら、また縄が現れてもおかしくない。
「あんまり使い魔に情をかけるなよ」
槇村はガチョウの羽根を弄びながら言う。
「お礼言っただけです」
「奴らは魔法使いや魔女に使われる存在だ。礼なんぞ必要ない。契約しているだけなんだ」
「冷たくないですか、それ」
「冷たい? それが普通だ。そんな甘い考えだから、男に金をせびり取られるんだ。普通逆だぞ。女が男から金を巻き上げるもんだ」
自分はやはり甘いのだろうかと七三子は思う。自分のために一生懸命してくれる人に対してお礼を言うのは当然だと思う。人間同士でもそうなのだから、人間ではない存在ならなおさらだろう。契約と言うけれど、人の形をとっているなら、人と同じ情があってもおかしくない。情を持つ者に対して、情をかけるのはいけないことなのだろうか。
「使い魔は使い魔と割り切らないと後悔することになる」
それだけ言って槇村は仕事の書類を作るからと寝室横の書斎らしい部屋に入った。
七三子はねっとりとした濃厚な味のチーズケーキを食べた。こんなにおいしい物ばかり食べたら太ってしまうのではないかと心配しながら。
夕食後のコーヒーを飲んでいると、槇村が尋ねた。
「中里ちづえを知ってるか」
唐突に槇村の口から出た名前だった。なぜ、槇村はその名を知っているのだろうか。
「知ってます。職場の先輩で、仕事を教えてもらいました。でも、亡くなりました」
「知ってたか」
槇村が指ぱっちんをすると、テーブルの上に大きな茶封筒が現れた。
「この写真の女だな」
茶封筒から出した写真はまさしく彼女のものだった。しかも隣に立っているのは。
「福田先生……」
どう見ても二人の距離は恋人同士のそれだった。彼女は葬儀の遺影よりも明るく微笑んでいた。
一体、二人はいつどこでと思った時、あっと気付いた。彼女が亡くなる1年半ほど前に、高校に異動になったことを。
「旅先で借りたレンタカーに乗ったまま港の岸壁から海に落ちて死んだそうだな」
「……はい」
最初に着任した法人室でちづえから3年間みっちり仕事を教わった。七三子が小学校に異動した年、ちづえは高校に異動した。以降は学園合同の研修会や忘年会等で会うくらいで疎遠になっていた。
彼女の訃報を知った時の衝撃は今思い出しても胸が苦しくなってくる。七三子は葬儀の時のちづえの両親の憔悴しきった顔を思い出していた。七三子には両親はいない。だが、ちづえの両親の苦しみが尋常のものでないことは想像できた。
彼女が学校の金を使い込みしていたのではないかという疑惑があったことを七三子は高校の事務室に異動してから知った。50万円ほど計算が合わなかったという。彼女の死は事故ではなく、自殺ではないかという噂もあったらしい。彼女の死で真相は有耶無耶になったとも。以来、学園全体の会計システムが見直され、使い込みは事実上不可能になっている。
「まさか……」
「その、まさかだ。彼女は福田に貢いでいた。学校の金を使い込んでな」
「そんな……」
「真面目な職員で、浪費をしている証拠もなかった。貯金もほとんどない上に、ブランド物も持ってないしギャンブルもやっていなかったからな。結局有耶無耶だ」
「ちづえさんが……」
信じられなかった。死んだちづえが福田に貢ぐために、学校の金に手をつけていたとは。使い込み自体何かの間違いだと思っていたのに。
槇村は別の写真も見せた。ホテルに入っていく男女の写真だった。男の背格好は福田によく似ていた。女は知らない顔だった。
「こっちは今の愛人だ。付属病院の看護師だ。産婦人科だというから、恐らく女房の付き添いで病院に行って知り合ったんだろうな」
七三子は福田が妻と二人幸せに生活していると思っていた。そう思えばこそ、結婚披露宴で福田の幸せを願うことができたのだ。それなのに愛人がいるなんてひど過ぎる。自分も含めた披露宴に出席した人々を侮辱しているも同然だと七三子は思う。
「どうしてそんなことを」
「金だ」
槇村は親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。
「福田は株の取引きでたびたび損失を出している。証券取引口座を調べると、信用取引で結構な損失を出してる。だが、中里ちづえが死んだ前日に、追加保証金が入金されてる。その前日に追加保証金に50万円足りない預金が彼女の通帳から引き出されてる」
「追加保証金て何ですか」
「信用取引をするには委託保証金を証券会社に担保として差し入れなきゃならない。現金や株でな。株が値下がりすれば担保の価値が下がる。足らなくなった保証金を追加で入れる必要がある」
「なんだかよくわからないですけど、要するにちづえさんの預金を保証金を払うために使ったってことですか」
七三子にとって株取引など想像もつかない世界の話だった。ただ、ちづえの金を福田が奪ったということだけは理解できた。
「まあ、結論から言えばそうなる」
「ひどい……」
お金のために福田はちづえと交際していたなんて。そのせいでちづえが自らの命を絶ったのかもしれないのに。
「おまえも、もしかしたら中里ちづえと同じことになっていたかもしれないな」
「私は自殺なんかしません。だって両親からもらった命なんだから」
「勘違いしてないか。中里ちづえは自殺じゃない。たぶん殺人だ」
槇村の持つ写真を七三子は見つめた。福田の隣で幸せそうに微笑むちづえがそこにいた。
「彼女は母親に結婚を考えている男性がいると言っていたそうだ。旅行に行く前にな。名前は言わなかったそうだが。彼女は福田と結婚できると思っていたんだ。旅先のホテルの予約はシングルルームだった。ただ、レンタカーに男性が一緒に乗っているのを目撃されている。警察は男性を参考人として探したが、結局わからなかったそうだ」
その男性が誰か、想像はつく。
「どうして、そんなこと」
「たぶん別れ話のもつれだろうな。男が別れを告げ、女はそれなら使い込みまでして貢いだことを上司に訴えるとでも言ったのかもしれないな。借金まみれの職員が女に貢がせていたなんて、とんでもない醜聞だからな」
「それで、人を殺すんですか」
七三子にはまだ信じられなかった。
「ああ、殺す。己の欲望を満たすためなら、人の命なんぞ何とも思わない人間はいる。おまえには人間は皆善意の塊にしか見えないかもしれないがな、俺を除いたら」
「まるで悪魔……」
「そうだ。まあ、悪魔の方がましかもな。悪魔はちゃんと人間と契約するからな。魂を代価にして」
「でも」
七三子はそれでも信じたかった。
「でも、福田は違う、か? 違わないな。今朝の火事、おかしいと思わないか」
「火事って、まさか」
七三子は愕然とした。槇村は今朝のアパートの火事は福田が関係していると思っているのだろうか。
「たぶん、あいつはおまえはおとなしいから当分は次の男はできないと思ってたんだろうな。うまくやれば、またやけぼっくいに火がついて、金を搾り取れると思ってたんじゃないか。ところが、俺がおまえのそばに現れた。どうすると思う? おまえが俺にあいつの話をするかもしれないと思うだろうな。理事の姪の女房に二股がばれるかもしれないと思ったら、どうすると思う?」
「そんな……」
七三子はこれまで交際した男性に前の男性の話は自分からしたことがなかった。福田にも話していない。それなのに、福田は七三子を信じていなかったとは。
「おまえの引っ越しは職場の誰も知らなかったはずだ。福田もおまえがまだいると思って……。真下の部屋ならすぐに火は上に燃え移る。木造だからな。」
木造だからこそ、住人は皆、火についてはいつも用心していた。大家さんは漏電がないか、年に一度業者に検査をしてもらっていた。そんなアパートの空き室から火が出るなんてありえない。放火でない限りは。
だが、それにしても、話が飛躍し過ぎではないか。
「ウソよ」
「嘘ならいいけどな。だが、その看護師も金をせびられてるようだぞ。女房は資産家の娘じゃないらしい。理事は資産家だが、その妹の結婚相手は普通の会社員だ。姪は従って資産らしい資産を持っていない。あてが外れたんだろうな。この上、二股がばれ、おまえから奪った金のことを知られたら、最悪離婚だ。慰謝料だの養育費だの取られたらたまったもんじゃあるまい」
「もう、いい加減にして!」
七三子は立ち上がった。
「指輪のことは許せないけれど、人を殺すなんて……そんなの、信じられない」
「信じる、信じないはおまえの自由だ。だが、これは使い魔たちが調べてきたことだ。あいつらは嘘はつかない」
誠心誠意料理を作る男爵たちが調べた。その事実が七三子を打ちのめした。
それでは、福田は本当に中里ちづえから金と命を奪ったというのか。そして、七三子からも金だけでなく命を奪おうとしているのか。
あまりにも非道だった。まるで悪魔だと思った。目の前には魔法使いがいるし、ヴァルプルギスの夜にはインキュバスという淫魔がいた。彼らのほうが悪の本家本元のはずなのに。
同じ人間、それも恋人だった福田のほうが人とも思えない行動をしているなんて。
「まるで悪魔みたい」
「人間だからだ。人間ほど振れ幅の大きなものはないだろうな」
限りなく神に近いような善人もいれば、悪魔と遜色ない悪人もいる。その間に大勢の濃淡様々な善と悪に染まった人々がいる。
七三子は比較的善良な人々の中で育ってきていると思っている。だから福田のことも何かの間違いだと思いたかった。
けれど、男爵らが調べたと言われたら嘘と否定できなかった。
不意に二股や指輪の話どころではない恐怖が七三子を襲った。
ガタガタと震えている七三子の肩をいつの間にか立ち上がった槇村がそっと抱いた。
「おまえは俺が守る」
震える肩を抱く温かさは七三子の恐怖を溶かしていくようだった。
連休初日の日曜の朝、リビングに男爵が走って来た。手にはポータブルテレビを持っている。相変わらずのにやにや顔だが慌てていると七三子にもわかった。
ポータブルテレビはニュースの映像を流していた。暗闇に炎と黒い煙が禍々しく広がっていた。
『……のアパート七草荘の一階から火が出て木造モルタル建てのアパート一棟が全焼しました。消防の調べでは火元は一階の空室ではないかと見られています。なおアパートの住人全員とは連絡がとれており、負傷者はありません』
七三子の目は映像に釘づけになった。燃えているのは明らかに自分が住んでいたアパートだった。ちらっと隣の部屋のおばさんの顔が見えた。途方に暮れて立ちすくむ姿に七三子もまた茫然となっていた。
「いつなの、これ……」
「午前4時だにゃん」
火元の一階の空室というのは、七三子の住んでいた二階の部屋の真下だった。築40年余りのアパートは全室満室というわけではなかった。
「昨日のうちに出ていて正解だったな」
槇村がつぶやいた。
姉が結婚した後引っ越して3年お世話になったアパートだった。大家さんは隣の敷地に住んでいる80歳近い老婆だった。顔を合わせると家庭菜園の野菜をお裾分けしてくれた。ニュースを見た感じでは大家さんの家には被害はないようだった。
「大家さんとこにお見舞いに行きます」
「今朝火事に遭ってすぐというわけにはいかないだろう。あっちもいろんな対応でてんてこ舞いだ。それよりお姉さんに連絡しといたほうがいいんじゃないか」
確かにそうだった。姉がこのニュースを知ったら驚くに違いなかった。
七三子は姉に無事だと電話した。槇村の話はいくらなんでも急すぎると思ったので言うつもりはなかった。
が、途中で槇村が電話を奪った。
「私、七三子さんとお付き合いをさせていただいている槇村と申します。今、七三子さんは私の所有する不動産の部屋でお預かりしています。近いうちにご挨拶に伺いたいので、よろしくお願いします」
所有する不動産の部屋。嘘ではないが、正確でもない。
姉は驚いたが、「所有する不動産」という言葉で、槇村の経済力に安堵したようだった。
『近いうちといわず、今日にでもおいでください。お仕事お休みなんでしょ』
姉は強引だった。恐らく妹の相手をできるだけ早く自分の目で見極めたいと思っているのだろう。
こうして七三子は槇村とともに挨拶に行くことになったのだった。
その直後に火災のニュースを見た事務長から七三子の安否を確認する電話があった。七三子は無事であること、引っ越した後で家財は無事だったことを報告した。
朝食後、槇村の車で姉の家へ向かった。
埼玉の姉夫妻は槇村を一目見て気に入ってしまった。
「会場を間違えて、私が参加していた別の婚活イベントの会場に妹さんがおいでになったものですから」
と馴れ初めをでっち上げたが、姉は怪しまなかった。義兄も槇村と趣味のDIYの話で盛り上がっていた。
なんといっても上場会社のサラリーマンという肩書が、姉夫妻を信用させてしまった。槇村の車が堅実なイメージのあるメーカーのセダンタイプの車であったことも好印象を与えたようだった。
唯一不機嫌だったのは姉の8か月になる男児だった。槇村が玄関に入ってきた途端、ぎゃあと火のついたように泣き出し、家の中にいる間、ずっとぐずっていた。
「おかしいわね。こんなにぐずるなんて。熱はないみたいなんだけど」
純真な子どもにはまがまがしいものがわかるらしいと七三子は思ったものの、それは言わないでおいた。
姉の家を辞した後、マンションに戻り今度はネット回線でイギリスのロンドン郊外に住む槇村の両親と対面した。日本時間は夕方、イギリスは早朝である。
槇村の話では両親も魔法使いと魔女だということだった。だが、見た限りでは普通の品のいい六十代の夫婦だった。
父親の両親も魔法使いと魔女で、父方の祖父はイギリス人、祖母は日本人だということだった。
二人は七三子が一般人だと知ると驚いていたが、息子が選んだなら大丈夫だろうと言った。
『七三子さん、柊人をよろしくね』
『柊人、七三子さんを大切にするんだぞ』
姑と舅の挨拶はありきたりだが、七三子にとってはありがたかった。親と呼べる人ができるのだから。
12月末に日本に帰る、入籍は先にしてもいいが、仲間を集めての披露宴をするようにと言われた。
通話が終わった後、七三子はつぶやいていた。
「顎って遺伝するんだ」
それを聞き逃す槇村ではなかった。
「割れ顎はな、顎えくぼという言い方もあるんだ。海外じゃセクシーだと言われてる」
「ここ、日本です」
七三子はその場でくすぐりの刑に処せられた。いつの間に手に入れたのか、槇村はガチョウの羽根を手にしていた。
「ちょっと甘やかすとすぐ調子に乗りやがってええ」
「ひゃあ、やめ、ひゃああ、くすぐった!」
顎の下や脇、足の裏をくすぐられて、七三子はひいひい笑った。おなかがまた痛くなった。
「いい加減にしてくださいにゃん」
男爵がお茶を持って来た。槇村はガチョウの羽根を七三子の首から離した。
七三子は息を整えながらソファから起き上がった。
「奥様、苦しそうですにゃん」
「ったく、怒るか、この程度で」
男爵が怒っている? 七三子はその表情を見た。笑っているような顔がいつもと違い、少しだけ目がつり上がっているように見えた。こんな表情もあるのかと見つめる七三子を見て男爵が目尻を少し下げたように見えた。
「奥様、大丈夫ですかにゃん」
「大丈夫。男爵、心配してくれてありがとう」
男爵の顔が一瞬真っ赤になったように見えた。
「奥様! 奥様、大好きにゃん!」
そう言うと飛び上がるようにキッチンに行き、今度はケーキを持って来た。
「チーズケーキ、お召し上がりくださいにゃん!」
「男爵、おまえなあ……」
槇村は呆れたように使い魔を見た。男爵は小躍りして、キッチンに向かった。
七三子は男爵がいてくれてよかったと思った。槇村と二人だけなら、また縄が現れてもおかしくない。
「あんまり使い魔に情をかけるなよ」
槇村はガチョウの羽根を弄びながら言う。
「お礼言っただけです」
「奴らは魔法使いや魔女に使われる存在だ。礼なんぞ必要ない。契約しているだけなんだ」
「冷たくないですか、それ」
「冷たい? それが普通だ。そんな甘い考えだから、男に金をせびり取られるんだ。普通逆だぞ。女が男から金を巻き上げるもんだ」
自分はやはり甘いのだろうかと七三子は思う。自分のために一生懸命してくれる人に対してお礼を言うのは当然だと思う。人間同士でもそうなのだから、人間ではない存在ならなおさらだろう。契約と言うけれど、人の形をとっているなら、人と同じ情があってもおかしくない。情を持つ者に対して、情をかけるのはいけないことなのだろうか。
「使い魔は使い魔と割り切らないと後悔することになる」
それだけ言って槇村は仕事の書類を作るからと寝室横の書斎らしい部屋に入った。
七三子はねっとりとした濃厚な味のチーズケーキを食べた。こんなにおいしい物ばかり食べたら太ってしまうのではないかと心配しながら。
夕食後のコーヒーを飲んでいると、槇村が尋ねた。
「中里ちづえを知ってるか」
唐突に槇村の口から出た名前だった。なぜ、槇村はその名を知っているのだろうか。
「知ってます。職場の先輩で、仕事を教えてもらいました。でも、亡くなりました」
「知ってたか」
槇村が指ぱっちんをすると、テーブルの上に大きな茶封筒が現れた。
「この写真の女だな」
茶封筒から出した写真はまさしく彼女のものだった。しかも隣に立っているのは。
「福田先生……」
どう見ても二人の距離は恋人同士のそれだった。彼女は葬儀の遺影よりも明るく微笑んでいた。
一体、二人はいつどこでと思った時、あっと気付いた。彼女が亡くなる1年半ほど前に、高校に異動になったことを。
「旅先で借りたレンタカーに乗ったまま港の岸壁から海に落ちて死んだそうだな」
「……はい」
最初に着任した法人室でちづえから3年間みっちり仕事を教わった。七三子が小学校に異動した年、ちづえは高校に異動した。以降は学園合同の研修会や忘年会等で会うくらいで疎遠になっていた。
彼女の訃報を知った時の衝撃は今思い出しても胸が苦しくなってくる。七三子は葬儀の時のちづえの両親の憔悴しきった顔を思い出していた。七三子には両親はいない。だが、ちづえの両親の苦しみが尋常のものでないことは想像できた。
彼女が学校の金を使い込みしていたのではないかという疑惑があったことを七三子は高校の事務室に異動してから知った。50万円ほど計算が合わなかったという。彼女の死は事故ではなく、自殺ではないかという噂もあったらしい。彼女の死で真相は有耶無耶になったとも。以来、学園全体の会計システムが見直され、使い込みは事実上不可能になっている。
「まさか……」
「その、まさかだ。彼女は福田に貢いでいた。学校の金を使い込んでな」
「そんな……」
「真面目な職員で、浪費をしている証拠もなかった。貯金もほとんどない上に、ブランド物も持ってないしギャンブルもやっていなかったからな。結局有耶無耶だ」
「ちづえさんが……」
信じられなかった。死んだちづえが福田に貢ぐために、学校の金に手をつけていたとは。使い込み自体何かの間違いだと思っていたのに。
槇村は別の写真も見せた。ホテルに入っていく男女の写真だった。男の背格好は福田によく似ていた。女は知らない顔だった。
「こっちは今の愛人だ。付属病院の看護師だ。産婦人科だというから、恐らく女房の付き添いで病院に行って知り合ったんだろうな」
七三子は福田が妻と二人幸せに生活していると思っていた。そう思えばこそ、結婚披露宴で福田の幸せを願うことができたのだ。それなのに愛人がいるなんてひど過ぎる。自分も含めた披露宴に出席した人々を侮辱しているも同然だと七三子は思う。
「どうしてそんなことを」
「金だ」
槇村は親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。
「福田は株の取引きでたびたび損失を出している。証券取引口座を調べると、信用取引で結構な損失を出してる。だが、中里ちづえが死んだ前日に、追加保証金が入金されてる。その前日に追加保証金に50万円足りない預金が彼女の通帳から引き出されてる」
「追加保証金て何ですか」
「信用取引をするには委託保証金を証券会社に担保として差し入れなきゃならない。現金や株でな。株が値下がりすれば担保の価値が下がる。足らなくなった保証金を追加で入れる必要がある」
「なんだかよくわからないですけど、要するにちづえさんの預金を保証金を払うために使ったってことですか」
七三子にとって株取引など想像もつかない世界の話だった。ただ、ちづえの金を福田が奪ったということだけは理解できた。
「まあ、結論から言えばそうなる」
「ひどい……」
お金のために福田はちづえと交際していたなんて。そのせいでちづえが自らの命を絶ったのかもしれないのに。
「おまえも、もしかしたら中里ちづえと同じことになっていたかもしれないな」
「私は自殺なんかしません。だって両親からもらった命なんだから」
「勘違いしてないか。中里ちづえは自殺じゃない。たぶん殺人だ」
槇村の持つ写真を七三子は見つめた。福田の隣で幸せそうに微笑むちづえがそこにいた。
「彼女は母親に結婚を考えている男性がいると言っていたそうだ。旅行に行く前にな。名前は言わなかったそうだが。彼女は福田と結婚できると思っていたんだ。旅先のホテルの予約はシングルルームだった。ただ、レンタカーに男性が一緒に乗っているのを目撃されている。警察は男性を参考人として探したが、結局わからなかったそうだ」
その男性が誰か、想像はつく。
「どうして、そんなこと」
「たぶん別れ話のもつれだろうな。男が別れを告げ、女はそれなら使い込みまでして貢いだことを上司に訴えるとでも言ったのかもしれないな。借金まみれの職員が女に貢がせていたなんて、とんでもない醜聞だからな」
「それで、人を殺すんですか」
七三子にはまだ信じられなかった。
「ああ、殺す。己の欲望を満たすためなら、人の命なんぞ何とも思わない人間はいる。おまえには人間は皆善意の塊にしか見えないかもしれないがな、俺を除いたら」
「まるで悪魔……」
「そうだ。まあ、悪魔の方がましかもな。悪魔はちゃんと人間と契約するからな。魂を代価にして」
「でも」
七三子はそれでも信じたかった。
「でも、福田は違う、か? 違わないな。今朝の火事、おかしいと思わないか」
「火事って、まさか」
七三子は愕然とした。槇村は今朝のアパートの火事は福田が関係していると思っているのだろうか。
「たぶん、あいつはおまえはおとなしいから当分は次の男はできないと思ってたんだろうな。うまくやれば、またやけぼっくいに火がついて、金を搾り取れると思ってたんじゃないか。ところが、俺がおまえのそばに現れた。どうすると思う? おまえが俺にあいつの話をするかもしれないと思うだろうな。理事の姪の女房に二股がばれるかもしれないと思ったら、どうすると思う?」
「そんな……」
七三子はこれまで交際した男性に前の男性の話は自分からしたことがなかった。福田にも話していない。それなのに、福田は七三子を信じていなかったとは。
「おまえの引っ越しは職場の誰も知らなかったはずだ。福田もおまえがまだいると思って……。真下の部屋ならすぐに火は上に燃え移る。木造だからな。」
木造だからこそ、住人は皆、火についてはいつも用心していた。大家さんは漏電がないか、年に一度業者に検査をしてもらっていた。そんなアパートの空き室から火が出るなんてありえない。放火でない限りは。
だが、それにしても、話が飛躍し過ぎではないか。
「ウソよ」
「嘘ならいいけどな。だが、その看護師も金をせびられてるようだぞ。女房は資産家の娘じゃないらしい。理事は資産家だが、その妹の結婚相手は普通の会社員だ。姪は従って資産らしい資産を持っていない。あてが外れたんだろうな。この上、二股がばれ、おまえから奪った金のことを知られたら、最悪離婚だ。慰謝料だの養育費だの取られたらたまったもんじゃあるまい」
「もう、いい加減にして!」
七三子は立ち上がった。
「指輪のことは許せないけれど、人を殺すなんて……そんなの、信じられない」
「信じる、信じないはおまえの自由だ。だが、これは使い魔たちが調べてきたことだ。あいつらは嘘はつかない」
誠心誠意料理を作る男爵たちが調べた。その事実が七三子を打ちのめした。
それでは、福田は本当に中里ちづえから金と命を奪ったというのか。そして、七三子からも金だけでなく命を奪おうとしているのか。
あまりにも非道だった。まるで悪魔だと思った。目の前には魔法使いがいるし、ヴァルプルギスの夜にはインキュバスという淫魔がいた。彼らのほうが悪の本家本元のはずなのに。
同じ人間、それも恋人だった福田のほうが人とも思えない行動をしているなんて。
「まるで悪魔みたい」
「人間だからだ。人間ほど振れ幅の大きなものはないだろうな」
限りなく神に近いような善人もいれば、悪魔と遜色ない悪人もいる。その間に大勢の濃淡様々な善と悪に染まった人々がいる。
七三子は比較的善良な人々の中で育ってきていると思っている。だから福田のことも何かの間違いだと思いたかった。
けれど、男爵らが調べたと言われたら嘘と否定できなかった。
不意に二股や指輪の話どころではない恐怖が七三子を襲った。
ガタガタと震えている七三子の肩をいつの間にか立ち上がった槇村がそっと抱いた。
「おまえは俺が守る」
震える肩を抱く温かさは七三子の恐怖を溶かしていくようだった。
1
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる