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11 元カレの嘘

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 仕事を終えて朝車を降りた場所に行くと、すでにセダンから降りた槇村が待ち構えていた。今朝と違い、きちんとした背広姿である。
 生徒や職員の姿は見えなかった。

「飯食って買い物だ」

 ぶっきらぼうにそれだけ言われて助手席に乗った。すぐに車は動き出した。
 後部座席には誰もいなかった。

「男爵は留守番ですか」
「ああ。職場の人間に見られなかったか?」
「いいえ。今朝は出勤には少し早かったから。生徒のほうが早いんです」
「そうか。飯は和食だけどいいか」
「はい」
「男爵は洋食ばかり作るんだ。バターの消費量見たら、ぞっとするぞ。俺の中性脂肪とコレステロールを上げてどうする気だ、まったく」
「魔法じゃどうにかできないんですか」
「できるもんか。それに自己管理も魔法使いには大事なんだ。太ると箒、じゃなかった掃除機で飛ぶのも一苦労だ」

 太った槇村を想像し、七三子はおかしくなった。あの顎はどんな感じになるのだろうか。

「おい、今妙なこと考えなかったか」
「妙なことは考えてませんけど」
「じゃ、何考えてた?」
「太った槇村さ、じゃなくて柊人さん」

 槇村は沈黙した。七三子はまずかったかなと思う。

「そんなに妙な感じじゃないと思います。貫録がついて。顎の割れ目も目立たなくなるんじゃないかと」
「おまえなあ……。今夜もくすぐるから覚悟しておけ。そうだ、くすぐり用に羽根でも買うか。手が疲れるしな」
「羽根って、何の羽根ですか。トンボの羽根とか?」
「はあ? トンボ? おい、トンボのでくすぐったいと思うか」
「それじゃニワトリとか。募金の羽根」
「小さいな。ガチョウの羽根だろうな。それから筆もいいぞ」
「筆をそんなことに使ったら、罰が当たります」
「はあ?」

 罰が当たる。まるで老人のようなことを言う七三子だと槇村は思った。
 だが、罰が当たるのは七三子ではない。七三子を苦しめた人間だ。
 車は高速に入った。アクセルを踏んで加速する。
 七三子は目を丸くしていた。

「90キロ!」

 速度計を見て叫んだ。

「おい、この程度で騒ぐな」
「だって、90ですよ。100キロとかなったらどうすれば」
「どうもしない!」

 そうこうしているうちに、高速を降りて着いたところは都内の一角。車をパーキングに停めて5分ほど歩くと、黒板塀に囲まれた粋な風情の小店があった。看板は掲げていないので、店と言われなければわからないだろう。
 七三子は槇村の後をついて千鳥打ちの飛び石を踏みながら店に入った。
 普通の住宅のような引き戸を開けるとお待ちしていましたと和服の婦人が出迎えた。
 そこで履き物を脱いで案内されたのは六畳ほどの小部屋だった。
 七三子は掛け軸や一輪挿しの花活けを見て、これは普通の店ではないと思った。

「料亭ですか」
「そこまで格式ばってはいないよ」

 そうは言ってもやはり普通ではない。
 運ばれてきた御膳の上の黒い漆塗りの御碗や薄青い模様の入った陶器の皿などを見れば、安い店ではないとわかる。
 中身の野菜や魚もよくよく吟味された食材のようで、七三子は一口食べてこれはふだん食べているものとは違うと思った。

「お高いんですよね」

 水菓子のメロンを口にしながら言った。

「それなりにはな」
「払います。自分の分」
「いやいい」
「でも、奢られるのは困ります」
「貯金通帳の残高が5ケタしかないのに払わせるわけにはいかない」

 七三子はぎょっとした。バッグには通帳を入れていなかったはずだが。





「七三子」

 メロンを先に食べ終わった槇村は言った。

「おまえ、嘘をついてるよな。運がいい? ウソはやめてくれ」
「嘘じゃないです。私、運いいですから。両親はいないけど、姉がいますし」

 七三子はフォークを置いた。槇村はその目のまっすぐな視線に驚いたものの続けた。

「おまえの父親はお前が4つの時に冬山で遭難して救助されたが、その時の捜索費用で1000万の借金ができた。おまえが小学校入学前に父親は酔っ払いの喧嘩に巻き込まれて刺し殺された。殺した男は刑務所に入ったが、慰謝料を一銭も払わないうちに中で病死した。母親は病院で看護師として懸命に働いておまえ達を育てた。中学校2年の時、母親は難病にかかり、おまえと姉は交代で母親の看病をした。姉は就職したばかりで結局、おまえの肩に看病の負担がかかることになった。
 母親が亡くなった後は父親の残した借金や病気の治療費や葬儀の費用の借金の返済でおまえの奨学金は消え、姉と2人苦しい生活を続けた。新聞配達や皿洗いをしながら学校を続け、借金を返した時は姉は20過ぎていた。それでも2人でささやかに暮らし、姉は結婚した。おまえもいくつか恋をしたが、うまくいかず、挙句の果てに福田に金を巻き上げられ」
「違います!」

 七三子は叫んでいた。

「父が死んだとき、父の友達はいろいろ助けてくれました。母の仕事先も見つけてくれたし。病気になった時も父の友達の大学の先生たちがすぐに入院させてくれたんです。最期まで治療もしてくれたし。アルバイト先の新聞販売所のおじさんは新聞をただで読ませてくれたし、冬寒い朝、配達を終えたらぜんざいを食べさせてくれたこともあったし。皿洗いをしたレストランの親方はまかないを食べさせてくれました。好きなだけ食べていいよって言ってくれた。恋だって、皆優しかった。福田先生だって、清らかな身体でお嫁に来て欲しいって。私がわがまま言ったから、私のせいでダメになったんです」
「金は? 金を奴に渡しただろ」

 槇村は七三子を見据えた。七三子は槇村を見つめゆっくり口を開いた。

「なぜ、そんなこと知ってるんですか」
「調べた。爪に火を点すように貯めた金を全部巻き上げられたんだろ」
「福田先生には、借金をしている弟さんがいて、返済を肩代わりしないといけなかったんです」
「福田には確かに弟がいるが、堅気のサラリーマンだ。IT関係の仕事で今シアトルで働いてる。借金なんぞ一銭もない」
「うそ……」

 七三子は知らない話だった。

「嘘だと思うなら、福田に聞いてみればいい。大方、おまえは借金で大変だと聞いて自分達の苦労を思い出して同情して金を渡したんだろ。だが、奴の借金の理由は相場だ。信用取引で借金を作ったんだ。おまけに婚約指輪も買わなきゃいけなかったしな。婚約指輪300万するらしいぞ。おまえ別れる1か月くらい前に300万渡さなかったか? その頃、奴は指輪を注文してるんだ。理事の姪のな」
「嘘……。弟さんがハワイで盲腸の手術して日本の健康保健がきかなくて、退院するためには300万払わないとダメだからって……」

 七三子の顔は蒼白だった。

「付きあってた半年の間に700万も貢がせるとは大した野郎だ。そんな奴悪魔にもいねえよ」
「嘘……」
「ウソじゃない。使い魔たちに調べさせた。男爵だけが使い魔じゃないんだ」
「就職してから、ずっと貯金してきたのに……」

 毎月少しずつ給料から天引きで貯めてきた貯金だった。姉の結婚出産のお祝いを人並みに貯金から出すことができた時、どれほどうれしかったことか。
 福田がこれで少しでも助かるなら構わないと思っていたのに。

「確かにおまえの周囲にはいい人がたくさんいたと思うが、悪い奴もいたんだ。無理矢理、皆いい人だなんて思う必要はない。医者にしたって、最期まで治療するのがいいとは限らない。未承認の薬とか使ってそれで治療費かさんだんだろ」
「お母さんは自分のデータが後の人の役に立つからって……」
「おまえの母親らしいな。他人の心配ばかりして。借金だって返せなかったら自己破産て手もあるのにな。それができなかった。真っ当だけど、それで背負わなくてもいい苦労を子どもにまでさせるってのはな」
「お母さんのこと、悪く言わないで」

 七三子は涙を堪えて言った。

「悪いというんじゃないんだ。だが、子どもを守るにはもっと狡くなってもよかったと俺は思う。おまえの母親は狡くなれなかった、それだけのことだ」

 槇村は立ち上がり、向かいにいる七三子のそばに行くと、隣に胡坐をかいた。七三子は顔をそむけた。
 信じたくなかった。使い魔がそんなことを調べられるとは思えない。

「ウソを言ってるのはあなたでしょ」
「ウソだったらいいけどな。あいにく、使い魔は皆正直者でな。嘘の報告はしないんだ。通帳の額は俺が調べた。やり方は企業秘密だ」
「猫にどうしてわかるの……」
「使い魔だから。あいつらも魔力を持ってるんだ。それを使えば、人の心の中にあるものを引き出すことができる。だから、男爵は、おまえのことを気に入ってるんだ。おまえの心が好きだと奴は言う。参ったな。猫に横恋慕されるとは」

 槇村は笑う。七三子には笑えない。
 信じていたものが崩れ去った。最後だけを除いて美しい思い出だけしかないと思っていた恋だった。
 それが、醜く厭わしいものに変わってしまった。
 自分が弟の借金返済を助けたから、借金が無くなって福田は理事の姪と結婚できたのだと思っていたのに。
 二股かけられただけでなく、金をだまし取られ、その一部は結婚相手に贈る婚約指輪になってしまった。
 嘘だと思いたいけれど、槇村がここで嘘を言っても、彼には何の利益もないのだった。七三子に憎まれるだけのことなのだから。
 嘘ではないなら、どうすればいいのか。七三子は途方に暮れていた。
 お金が手元に帰って来るとは思えない。平気で福田は嘘を言ったのだ。そんな人間が七三子に言われて素直に金を返すわけはない。
 ただ、許せないのは指輪だった。自分の金で買った指輪が他の女性の物になっているというのは、理屈ではなく気分が悪かった。

「七三子、どうしたい? 金を取り返したいか」

 槇村の声が聞こえた。

「取り返せるんですか?」
「おまえが望むなら取り返す」
「指輪……。指輪だけは嫌! 私のお金で買った指輪を付けてるなんて……」

 槇村はうなずいた。

「わかった。指輪を取り返そう。だが、取り返してどうする? サイズも違うし、付けるのは」
「捨てます。私の手で」
「え?」

 槇村は前方をまっすぐ見つめる七三子の澄んだ目に気付いた。

「捨てます。どこか遠くの海に」

 その瞬間、槇村柊人は七三子の目に光るものが涙だけではないことに気付いた。哀しみ、怒り、悔い、恨み、そういったものを越えた強い意志を感じた。

「忘れないと前に進めないからな」

 槇村は七三子の言葉を思い出していた。同時に、七三子の目に輝く意志に強く惹かれるものを感じていた。





 店を出た後、槇村は高級ブランドの婦人服店に七三子を連れて行った。

「着るものだけでも変えたら気分が変わるから。なんでも買っていい。慰謝料だ」

 そう言われたが、さすがに慣れない店での買い物というのは二の足を踏む。
 だが、さすがにブランド店である。店員はそんな七三子が気を遣わないように、上手に似合う商品を勧めていった。
 スーツ、ワンピース、靴、バッグ、ストッキング、ランジェリー。
 どれもふだんなら贅沢過ぎて手が出ない物だったが、福田の件によるショックが大きいせいか、次から次へと七三子は選んでいった。

「俺が金持ちなら、オーダーメードの店に連れて行くところなんだが、今はこれで勘弁してくれ」

 店を出た後、そう言われたものの、買い物の総額はたぶん百万を超えているだろう。
 こんなことは一度きりにしないと買い物依存症になってしまうなと七三子は思った。  

「不思議なんですけど、シンデレラの魔法使いみたいなことはできないんですか」

 車に乗った後で七三子は尋ねた。

「あれは一時的なもので後には残らない。仕事してる途中で魔法が解けたら大変だろ」

 確かにそうだった。

「それじゃ自前だったんですか、ガラスの靴は」
「そうだろうな」
「それと年収600万であのマンションに住んだり、こんな買い物したり、おかしいです。やっぱりお金を魔法で作ってるんじゃないですか」

 七三子の疑問に槇村はあっさり答えた。

「マンションは、親父の会社の所有でね。俺はあそこの管理を任されてる。あ、部屋じゃないぞ。一棟丸ごとね。だから親父の会社からも給与をもらってる。こづかいは株で作ってる」
「どうして、サラリーマンしてるんですか、おかしいです」
「塩化カルシウムを売りたいからだ」
「変な理由……」

 七三子にはいよいよ槇村が理解できなかった。

「会社には人がいるから。自営業だと、どうしても知り合いが魔法使い関係だけになりがちなんだ」
「そのほうが楽なんじゃないですか」
「楽でもないぞ。普通の感覚がなくなる」

 槇村に普通の感覚があるんだろうかと七三子は思ったが、ふだんの生活でやたらめったら魔法を使わないのも、そういう感覚があるからかもしれなかった。

「それに魔法使いや魔女は孤立すると危険なんだ。昔、ヨーロッパで魔女狩りがあった時も、集団から孤立した人間が標的にされやすかったんだ。村のはずれの森に住んでる変わり者とか、村の集まりに参加しない者とかな。サラリーマンなら、その点集団に属しているから」

 魔女狩りなどない現代だというのに、槇村は用心深いようだった。

「でも、お金持ちのサラリーマンも結構目立つと思いますけど」
「最初から、親が資産家だと言ってるから、誰も怪しまないんだ。実際、親父が不動産と株で食ってるし。その人脈もあるから、仕事も割と楽させてもらってる」
「なんだか、ずるいですね」
「そうか。利用できるものは何でも利用する、それだけだ」

 槇村は車のスピードを上げた。

「明日から連休だな」

 不意に言われた。そうだったと七三子は思い出した。





 槇村のマンションに行くと、リビングや寝室とは別の部屋に案内された。
 七三子は目を疑った。アパートにあった家具や道具が置かれていた。といってもさほど多くはないのだが。

「これ、どうして……」
「運んだ。俺と一緒に住めばいい」
「困ります。通勤が……」
「ここは駅から徒歩3分だ。前住んでたとこは駅から徒歩20分。電車の時間が長くなるが、朝食は男爵が作るから、起きる時間は今と同じで大丈夫だ。そうそう、アパートは解約した。電気もガスも水道もな。電話携帯しか持ってなかったんだな」

 魔法使いの魔法にやられたと七三子は思った。親切な大家さんに挨拶もしないで解約したのは申し訳なかった。
 七三子は荷物の入った段ボールを確認するために開けた。槇村も手伝った。

「台所の道具だけど、味噌漉しや土鍋はなかったから、うちで使おう。服はどうする? それ高校のジャージーだろ、着るのか」
「着ます。部屋着ですけど」
「おい、まじで? 本当に高校のジャージー部屋着にするのがいるんだ」
「え? しませんか」
「しない、普通。っていうか入らないぞ。おまえ入るのか、胸も」
「入ります」
「胸張って言うことか」

 確かにそうかもしれないと七三子は思う。だが、経済的な身体だとも思っている。

「俺が部長になったら部下が家に遊びに来るかもしれないだろ。その時に部長夫人が高校のジャージー着て出迎えたらと想像してみろ」

 そう言われると反論できない。

「家で着るものも買わないとな。ジャージーは禁止だ」





 その夜も同じベッドで寝たが、くすぐられることもキスされることもなかった。
 槇村はただ寄り添っているだけだった。
 やはり家でいつも着ている量販店で買ったルームウェアでは色気も何もあったものではないからだろうと思っているうちに七三子は眠りに落ちていた。
 槇村はそれを確認すると、リビングに行き、使い魔たちの新たな報告を受けた。

「で、こいつどうします?」

 声の主は身長190センチ近いスキンヘッドの男、ニシキヘビの使い魔である。今は人の形をしているので、蛇を連想させる柄のシャツに光沢のある素材を用いた黒いパンツ姿である。

「まあ待て、子爵。いい考えがある。おい、男爵先走るんじゃないぞ」

 男爵の目はかっと見開かれていた。

「けど、許せないにゃん」
「許さなくていい。だが、慌てると逃げられる」
「確かにそうですね」

 灰色のゆるやかなケープで全身を覆った中年の女性はうなずき男爵の顎の下を撫でた。男爵はのどをごろごろと鳴らした。

「伯爵夫人、引き続き観察を続けてくれ」
「御意」

 そう言うと女性は姿をフクロウに変えると、開いた窓から夜空へ飛び立った。




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