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10 俺の名前を言ってみろ
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リビングのソファでのキスの後、七三子は風呂に入るように言われた。着替えがないと言うと、用意するからと言われた。他の女の人の置き土産ならいりませんと言うと槇村は魔法使いに任せろと笑った。
たぶん、今夜も昨夜のようなことをされるのかと思うと憂鬱だったが、身体の奥は期待していることに七三子は気付いていた。でも、たぶん駄目だろうと思う。
さっきのキスでも電流のような刺激はなかったのだから。
風呂場も玄関同様広かった。湯舟は大きく、シャワーもすぐにお湯が出た。七三子の住む部屋のシャワーとは大違いだった。
念入りに洗って広い洗い場から出ると、新しいバスタオルとショーツと丈の長いキャミソールが用意されていた。ブラジャーがないのは何かの意図があるのだろうかと不思議だったが、とりあえず身につけた。
外を伺うようにして脱衣所から出ると、目の前に槇村がいた。
「待ちくたびれたぞ」
すでにビキニパンツ一枚だということはその言葉通り待ちくたびれたのだろう。
「5分で出るから、そっちの部屋で待ってろ」
そっちの部屋と指差した部屋のドアは少し開いていて光が漏れていた。
槇村が風呂場に行った後、七三子はその中に入った。ベッドルームだった。
キングサイズというらしい広いベッドで、赤ワイン色の上掛けがかかっていた。昨夜のことを思い出す。
今なら逃げられるかもしれない。
だが、七三子は結局逃げなかった。逃げても追いかけてくるはずだし、そうなればもっとひどい目に遭うかもしれない。
あきらめが良過ぎるのかもしれないと七三子は自分でも思うが、どうしようもない。
子どもの頃から、あまりにも七三子一人の手に余ることばかりが七三子の身の上には起きていた。何もしないでじっと嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったのだ。嵐が吹き飛ばしてしまったものを惜しむゆとりなどなかった。吹き飛ばされたものは仕方ない。あきらめて飛ばされなかったものだけをかき集めて生きるしかなかった。
5分きっかりで槇村は入って来た。腰にタオルを巻いているだけの姿だった。当然下は何もつけていないだろう。
ベッドに腰掛けていた七三子はつくづく昨夜のことがなければと思う。ああいう人だと知らないで会っていたら、今の気持ちはもっと穏やかでいられるのにと。
「私、明日も仕事なのでお手柔らかにお願いします」
「土曜日だろ?」
「うちは土曜日も午前中は授業やってますから」
「事務も出るわけ?」
「はい。」
「そうか。まあいい。今朝も普通に目が覚めただろ。体力回復の魔術使うから」
やはりそういうことかと七三子は思い出した。あれだけのことをされても仕事が普通にできたのはそういうことだったのだ。
「だけど、今夜は魔術は使わない。媚薬も無しだ」
縄が出てこないとわかっただけでほっとした。
「おい、よかったって顔してるけど、いいのか」
槇村は七三子の表情があからさまに安堵の色を見せていることに気付いたようだった。
「だって、縄で縛られませんから」
槇村は吹き出した。
「それか。けど、薬がないから、何にも感じないんだぞ」
「それはいつものことだし」
「変な奴」
そう言うと槇村は七三子の横に腰掛けて身体を引き寄せた。
どきりとしたが、うっすらと香る汗の匂いが昨夜のことを思い出させた。
だが、今夜は昨夜のようなことにはならないだろう。あんな恥ずかしい姿をさらすことはないと思うと気が少し楽だった。
結局、その後、昨夜のように舌を入れるキスや愛撫をされ、挿入もされたが、七三子は昨夜のようにはならなかった。
さすがに七三子からじっと見上げられる形になった槇村も驚いていた。
「すまん」
何度か中で動かした後でそう言うと、七三子から陰茎を抜いた。すぐに陰茎は通常の形態に戻った。
「すみません」
七三子はそう言うと、槇村に背を向けた。
「つい見ちゃうんですよね。不思議な感じがして。どうしてこんなに必死なんだろうって」
「最後まで出来た奴は凄いな。俺は感じてない女には出せない」
槇村は背後から抱き締めた。おなかの上で組まれた両手に、七三子は少しだけ心拍数が上がったような気がした。
「痛いとかは?」
「それはないです」
「誰かに小さい頃、虐待とかされたことは?」
「ないです。それ他の人にも聞かれたことがあるんですけど」
「虐待を受けると人格が分かれることがあるらしい。虐待の衝撃から自己を守るために」
「もしそうなら、私、昨夜、そうなって欲しかったです」
七三子の言葉が少しだけ槇村に突き刺さった。
「結婚したくなくなったでしょ?」
「いや」
両方の胸の上に掌が載った。
「挑戦のしがいがある」
「挑戦?」
「簡単にできたら面白くないだろ」
槇村は魔法使いでなんでもできるから、自分が物珍しいだけだろうと七三子は思う。
「それに、おまえを振った奴らと一緒にされるのは御免だ」
「はあ?」
おかしなことを言うと七三子は思った。
「少なくとも俺は奴らとは違う。おまえを素で感じさせるようにしてやる。媚薬を使えばいつでもできるかもしれないが、それじゃ面白くないからな」
「面白いとかそういう問題じゃないですけど」
「確かにな。本当になんにも感じないのか」
さっきから、槇村の手は七三子の乳房や乳首をあれこれと弄っているのだが、七三子の呼吸に乱れはない。
「えっと、なんだか触られてるのはわかるんですけど、気持ちいいとかそういうのは……」
「だけど、乳首は立ってるぞ。ということは、反応しないわけじゃないんだ」
「そうかもしれませんね」
「なんか、興奮してきた」
「あの、それならさっきの続きを。出したほうがいいんじゃないですか」
槇村は吹き出した。冷静な顔で言われると、やる気にもなれない。
「ったく変な女だ」
「すみません」
とは言ったものの、七三子は槇村も変だと思う。昨夜に比べて大人しいのだ。
「もしかして、昨夜は槇村さんも媚薬を飲んでたんですか」
「いや。昨夜は祭りだから少し羽目外したけどな。祭りとそうでない時は違って当然だ。生活にもメリハリがないとな。あ、槇村さんてのやめろ。俺の名前を言ってみろ」
言わないと縄が出るとは思わないが、身体をまさぐられている状態で否とは言えない。
「柊人さん」
「よろしい。さん付けなくてもいいぞ」
そう言うと槇村は背後からうなじに口づけた。くすぐったくて七三子は肩を震わせた。
「感じるのか」
「くすぐったいです」
「どうなってるんだろうな。変な身体だ」
七三子に言わせれば、槇村のほうが変わっている。快感を感じない女に興味を持つなんて。
「そうだ、くすぐりっこだ」
そう言うと槇村は七三子の脇に指を入れた。
「ひゃ、ちょっとなにするんですかあ!」
七三子はくすぐったくて笑ってしまった。
「いやあ、やめてください!」
「やめない」
槇村は顔色一つ変えず七三子の脇だけでなく腹や足の裏をくすぐった。
七三子はじっとしていられず身体をのたうちまわらせた。
「ひいいやあ!」
あんまり笑い過ぎて腹が痛くなってきた。
「ひどい、何考えてるんですかあ!」
「結構敏感だな」
はあはあと息をしている七三子を抱き寄せた。
七三子は槇村の汗の匂いを嗅いでいた。不快な匂いではなかった。
「おまえ、何、くんくんしてるんだ?」
槇村は七三子の様子に少し驚いていた。
「匂い嗅いでるんです。なんだか不思議ですよね。昨日と少し違う感じがして」
「男爵みたいだな」
「お父さんもこんな匂いしたのかなと思って」
「……お父さんて……俺のこといくつだと思ってる」
「そういえば、私の年知らないですよね。私は」
「29歳。免許証で見た。7月3日生まれで七三子って安直過ぎないか」
「でも、耳で聞くといい名前ですよ。海や湖の波みたいで。柊人さんは何歳なんですか」
「33」
「よかった。魔法で若いふりしてるんじゃないんですね。本当は100歳とかだったらどうしようと思いました」
「あいつ、福田はいくつだ」
「32ですけど。どうしてそんなこと訊くんですか」
「おまえは過去にしたいだろうけれど、おまえと同じ職場にいる限り、俺にとっては過去じゃないんだ」
七三子は槇村の考えがわからなかった。
「福田先生は結婚なさってるし、お子さんも生まれるんですよ。私なんかに手出しするわけありません。奥様は美人だし、なんといっても理事の姪御さんだし」
「人がいいにもほどがある。ああいう手合いはな、おまえみたいな立場の弱い逆らえない人間を利用するんだ」
「立場が弱いとか逆らえないとか、そんなことないです」
「本当にそうなのか。昨夜、おまえに言ったはずだ。あの薬は本能を目覚めさせるんだ。それも日常で抑えられているものをな。おまえは俺にケツ顎野郎と言ったな。ふだん、思っていても男性に言えないことがあるからじゃないか」
また傷が抉られたような気がして七三子は顔をそむけた。
「おまえには親がいない。姉は別居している。一人暮らしで、勤め先は子どもの頃から親しんだ学園。ここを出たら誰も知り合いがいない。立場弱すぎだろ。おまけにまだおまえはあいつのことをあきらめきれない。俺だったら、たっぷり利用させてもらうぞ。尻の穴まで」
「わかったふうなこと言わないで」
七三子の声は小さかったが、槇村には聞こえた。
「俺はおまえと結婚するんだぞ。わかってるか」
「そこまでして会社で出世したいんですか」
「ああ。出世したい。会社を塩化カルシウムのシェアナンバー1にしたい」
「変な魔法使い」
「変で結構。変ていうのは俺にとっては褒め言葉だ」
七三子は笑ってしまった。本当におかしな人だ。
「結婚して出世して営業部長になって、塩化カルシウムをバンバン売ってやるんだ」
「営業部長ですか」
「ああ、社長になると月一のサバトにも出られなくなるからな」
槇村は魔法使いの社会と人間社会を天秤にかけて一番つり合いの取れる地位まで登りたいと思っているようだった。
「だから、七三子を自分の欲望のために利用する人間は俺にとっては敵なんだ。俺の出世を邪魔するんだからな」
「あの、柊人さんも自分の欲望のために私を利用してませんか」
七三子の突っ込みに槇村はむっとした顔になった。
「俺の欲望が満たされる時は、おまえが素面で喜びを感じる時だ。利用とかじゃない」
七三子は槇村を見上げた。槇村は七三子を穴が開くほど見つめていた。
目を合わせるのが怖くて目をつぶった。顔が近づくのがわかった。
唇に厚い唇が当たった。唇だけの口づけは穏やかなものだった。七三子はこれだけでいいのにと思う。
これ以上のものは望まない。昨夜のような刺激が毎晩あったらたまったものではない。
「寝るか」
唇が離れた後、槇村は言った。その言葉とほぼ同時に七三子は眠りに落ちていた。
槇村は毛布と掛布団を七三子に掛けると、起き上がった。
寝室を出てリビングに行くと、指を鳴らした。
目の前に現れたのは猫姿の男爵とニシキヘビとフクロウだった。
「これより命ず」
二匹と一羽は槇村の指示を受けると即座にその場から姿を消した。
槇村本人もまた、寝室横の小部屋に入りパソコンを開き、何やら調べ始めた。
七三子が目覚めたのは、槇村のベッドの上だった。
時計は5時30分。まずい。今から家に帰って着替えて職場に間に合うかどうか。
枕元にあった下着と昨日着ていたスーツを着てリビングに出た。
「おはよう」
槇村が昨日のソファでコーヒーを飲んでいた。
休日なのでオフホワイトのポロシャツにオリーブ色のチノパンという格好である。
「おはようございます。帰らせていただきます」
「飯食っていけばいい。車で家まで送る」
「でも……」
「電車じゃ間に合わないだろ」
「ごはんだにゃん」
男爵がスープとバターロールパンと目玉焼きをトレイで運んで来た。
「男爵がせっかく作ったんだ」
男爵のにっこり笑ったような顔を見ると食べないとは言えなかった。
「ありがとう、男爵」
「どういたしましてにゃん。奥様のためならなんでもしますにゃん」
「奥様……」
七三子は気が動転しそうだった。奥様だなんて。恥ずかし過ぎる。
「男爵、おまえ、俺にはそんなこと言わないよな。御主人様のためならなんでもしますなんて言ったことないよな」
槇村はぎろりと男爵を睨んだ。男爵は首をかしげた。
「男爵は言う必要がないから言わないだけで、そう思ってるんでしょ」
七三子の言葉に男爵はうなずいた。
「そうですにゃん。奥様のおっしゃる通りにゃん」
男爵はそそくさとキッチンに向かった。
「おまえ、すっかり男爵に気に入られたな」
槇村は七三子をじっと見つめた。その視線がひどく気恥ずかしかった。
朝食の後、槇村は七三子をアパートまで送っただけでなく、身支度を終えた七三子を学園の近くまで送った。
仕事が終わる時間に迎えに来るからと言い残して。
槇村が生徒が通らない頃合いを見計らってくれたので、途中まで生徒や職員と会うことはなかった。
「おはようございます」
学校の近くまで来ると、昨日猫を連れて来た男子生徒が後ろから挨拶した。
「おはよう」
「猫、飼い主が見つかったんですね」
七三子の横に立った生徒はにっこり笑う。
「ええ。見つけてくれたおかげよ」
本当は連れて来て欲しくなかったが、生徒には罪はないからそう言った。よく見ると、小ざっぱりした感じで、優しそうな顔をしている。
「名前が男爵っていうのよ。料理が上手で」
言いかけて、七三子はしまったと思った。
「飼い主さんが料理が上手でね」
慌てて言い直した。
「榊原君!」
後ろから来た女生徒が少年に声をかけた。七三子は速足でその場から遠ざかった。
「あ、ちょっと……」
榊原少年は七三子を追おうとしたが、少女に捕まった。
「おっはよう! 朝っぱらから、事務のおばさん相手に何の話?」
「ちょっとごめん」
少年は少女の手をふりほどいて、七三子を追ったが、背が低いので他の生徒の姿に紛れて見えなくなってしまった。
「はあ……あの猫、なんかやばかったんだけどな。事務員さんにはもっとやばいものが憑いてるような」
神社の宮司の息子の榊原少年は七三子にまとわりつくものの匂いを敏感に感じていた。何の匂いかはわからないが、どこかまがまがしいものが少年の感覚を刺激するのだ。
七三子が槇村の車から降りるのを見た生徒はいない。だが、見た男が一人いた。
男は七三子の後方を素知らぬ顔で歩いていた。
「おはようございます、福田先生」
「おはよう」
女子生徒の声ににこやかに答えた福田であったが、目は笑っていなかった。あの男は一体、七三子の何なのか。
たぶん、今夜も昨夜のようなことをされるのかと思うと憂鬱だったが、身体の奥は期待していることに七三子は気付いていた。でも、たぶん駄目だろうと思う。
さっきのキスでも電流のような刺激はなかったのだから。
風呂場も玄関同様広かった。湯舟は大きく、シャワーもすぐにお湯が出た。七三子の住む部屋のシャワーとは大違いだった。
念入りに洗って広い洗い場から出ると、新しいバスタオルとショーツと丈の長いキャミソールが用意されていた。ブラジャーがないのは何かの意図があるのだろうかと不思議だったが、とりあえず身につけた。
外を伺うようにして脱衣所から出ると、目の前に槇村がいた。
「待ちくたびれたぞ」
すでにビキニパンツ一枚だということはその言葉通り待ちくたびれたのだろう。
「5分で出るから、そっちの部屋で待ってろ」
そっちの部屋と指差した部屋のドアは少し開いていて光が漏れていた。
槇村が風呂場に行った後、七三子はその中に入った。ベッドルームだった。
キングサイズというらしい広いベッドで、赤ワイン色の上掛けがかかっていた。昨夜のことを思い出す。
今なら逃げられるかもしれない。
だが、七三子は結局逃げなかった。逃げても追いかけてくるはずだし、そうなればもっとひどい目に遭うかもしれない。
あきらめが良過ぎるのかもしれないと七三子は自分でも思うが、どうしようもない。
子どもの頃から、あまりにも七三子一人の手に余ることばかりが七三子の身の上には起きていた。何もしないでじっと嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったのだ。嵐が吹き飛ばしてしまったものを惜しむゆとりなどなかった。吹き飛ばされたものは仕方ない。あきらめて飛ばされなかったものだけをかき集めて生きるしかなかった。
5分きっかりで槇村は入って来た。腰にタオルを巻いているだけの姿だった。当然下は何もつけていないだろう。
ベッドに腰掛けていた七三子はつくづく昨夜のことがなければと思う。ああいう人だと知らないで会っていたら、今の気持ちはもっと穏やかでいられるのにと。
「私、明日も仕事なのでお手柔らかにお願いします」
「土曜日だろ?」
「うちは土曜日も午前中は授業やってますから」
「事務も出るわけ?」
「はい。」
「そうか。まあいい。今朝も普通に目が覚めただろ。体力回復の魔術使うから」
やはりそういうことかと七三子は思い出した。あれだけのことをされても仕事が普通にできたのはそういうことだったのだ。
「だけど、今夜は魔術は使わない。媚薬も無しだ」
縄が出てこないとわかっただけでほっとした。
「おい、よかったって顔してるけど、いいのか」
槇村は七三子の表情があからさまに安堵の色を見せていることに気付いたようだった。
「だって、縄で縛られませんから」
槇村は吹き出した。
「それか。けど、薬がないから、何にも感じないんだぞ」
「それはいつものことだし」
「変な奴」
そう言うと槇村は七三子の横に腰掛けて身体を引き寄せた。
どきりとしたが、うっすらと香る汗の匂いが昨夜のことを思い出させた。
だが、今夜は昨夜のようなことにはならないだろう。あんな恥ずかしい姿をさらすことはないと思うと気が少し楽だった。
結局、その後、昨夜のように舌を入れるキスや愛撫をされ、挿入もされたが、七三子は昨夜のようにはならなかった。
さすがに七三子からじっと見上げられる形になった槇村も驚いていた。
「すまん」
何度か中で動かした後でそう言うと、七三子から陰茎を抜いた。すぐに陰茎は通常の形態に戻った。
「すみません」
七三子はそう言うと、槇村に背を向けた。
「つい見ちゃうんですよね。不思議な感じがして。どうしてこんなに必死なんだろうって」
「最後まで出来た奴は凄いな。俺は感じてない女には出せない」
槇村は背後から抱き締めた。おなかの上で組まれた両手に、七三子は少しだけ心拍数が上がったような気がした。
「痛いとかは?」
「それはないです」
「誰かに小さい頃、虐待とかされたことは?」
「ないです。それ他の人にも聞かれたことがあるんですけど」
「虐待を受けると人格が分かれることがあるらしい。虐待の衝撃から自己を守るために」
「もしそうなら、私、昨夜、そうなって欲しかったです」
七三子の言葉が少しだけ槇村に突き刺さった。
「結婚したくなくなったでしょ?」
「いや」
両方の胸の上に掌が載った。
「挑戦のしがいがある」
「挑戦?」
「簡単にできたら面白くないだろ」
槇村は魔法使いでなんでもできるから、自分が物珍しいだけだろうと七三子は思う。
「それに、おまえを振った奴らと一緒にされるのは御免だ」
「はあ?」
おかしなことを言うと七三子は思った。
「少なくとも俺は奴らとは違う。おまえを素で感じさせるようにしてやる。媚薬を使えばいつでもできるかもしれないが、それじゃ面白くないからな」
「面白いとかそういう問題じゃないですけど」
「確かにな。本当になんにも感じないのか」
さっきから、槇村の手は七三子の乳房や乳首をあれこれと弄っているのだが、七三子の呼吸に乱れはない。
「えっと、なんだか触られてるのはわかるんですけど、気持ちいいとかそういうのは……」
「だけど、乳首は立ってるぞ。ということは、反応しないわけじゃないんだ」
「そうかもしれませんね」
「なんか、興奮してきた」
「あの、それならさっきの続きを。出したほうがいいんじゃないですか」
槇村は吹き出した。冷静な顔で言われると、やる気にもなれない。
「ったく変な女だ」
「すみません」
とは言ったものの、七三子は槇村も変だと思う。昨夜に比べて大人しいのだ。
「もしかして、昨夜は槇村さんも媚薬を飲んでたんですか」
「いや。昨夜は祭りだから少し羽目外したけどな。祭りとそうでない時は違って当然だ。生活にもメリハリがないとな。あ、槇村さんてのやめろ。俺の名前を言ってみろ」
言わないと縄が出るとは思わないが、身体をまさぐられている状態で否とは言えない。
「柊人さん」
「よろしい。さん付けなくてもいいぞ」
そう言うと槇村は背後からうなじに口づけた。くすぐったくて七三子は肩を震わせた。
「感じるのか」
「くすぐったいです」
「どうなってるんだろうな。変な身体だ」
七三子に言わせれば、槇村のほうが変わっている。快感を感じない女に興味を持つなんて。
「そうだ、くすぐりっこだ」
そう言うと槇村は七三子の脇に指を入れた。
「ひゃ、ちょっとなにするんですかあ!」
七三子はくすぐったくて笑ってしまった。
「いやあ、やめてください!」
「やめない」
槇村は顔色一つ変えず七三子の脇だけでなく腹や足の裏をくすぐった。
七三子はじっとしていられず身体をのたうちまわらせた。
「ひいいやあ!」
あんまり笑い過ぎて腹が痛くなってきた。
「ひどい、何考えてるんですかあ!」
「結構敏感だな」
はあはあと息をしている七三子を抱き寄せた。
七三子は槇村の汗の匂いを嗅いでいた。不快な匂いではなかった。
「おまえ、何、くんくんしてるんだ?」
槇村は七三子の様子に少し驚いていた。
「匂い嗅いでるんです。なんだか不思議ですよね。昨日と少し違う感じがして」
「男爵みたいだな」
「お父さんもこんな匂いしたのかなと思って」
「……お父さんて……俺のこといくつだと思ってる」
「そういえば、私の年知らないですよね。私は」
「29歳。免許証で見た。7月3日生まれで七三子って安直過ぎないか」
「でも、耳で聞くといい名前ですよ。海や湖の波みたいで。柊人さんは何歳なんですか」
「33」
「よかった。魔法で若いふりしてるんじゃないんですね。本当は100歳とかだったらどうしようと思いました」
「あいつ、福田はいくつだ」
「32ですけど。どうしてそんなこと訊くんですか」
「おまえは過去にしたいだろうけれど、おまえと同じ職場にいる限り、俺にとっては過去じゃないんだ」
七三子は槇村の考えがわからなかった。
「福田先生は結婚なさってるし、お子さんも生まれるんですよ。私なんかに手出しするわけありません。奥様は美人だし、なんといっても理事の姪御さんだし」
「人がいいにもほどがある。ああいう手合いはな、おまえみたいな立場の弱い逆らえない人間を利用するんだ」
「立場が弱いとか逆らえないとか、そんなことないです」
「本当にそうなのか。昨夜、おまえに言ったはずだ。あの薬は本能を目覚めさせるんだ。それも日常で抑えられているものをな。おまえは俺にケツ顎野郎と言ったな。ふだん、思っていても男性に言えないことがあるからじゃないか」
また傷が抉られたような気がして七三子は顔をそむけた。
「おまえには親がいない。姉は別居している。一人暮らしで、勤め先は子どもの頃から親しんだ学園。ここを出たら誰も知り合いがいない。立場弱すぎだろ。おまけにまだおまえはあいつのことをあきらめきれない。俺だったら、たっぷり利用させてもらうぞ。尻の穴まで」
「わかったふうなこと言わないで」
七三子の声は小さかったが、槇村には聞こえた。
「俺はおまえと結婚するんだぞ。わかってるか」
「そこまでして会社で出世したいんですか」
「ああ。出世したい。会社を塩化カルシウムのシェアナンバー1にしたい」
「変な魔法使い」
「変で結構。変ていうのは俺にとっては褒め言葉だ」
七三子は笑ってしまった。本当におかしな人だ。
「結婚して出世して営業部長になって、塩化カルシウムをバンバン売ってやるんだ」
「営業部長ですか」
「ああ、社長になると月一のサバトにも出られなくなるからな」
槇村は魔法使いの社会と人間社会を天秤にかけて一番つり合いの取れる地位まで登りたいと思っているようだった。
「だから、七三子を自分の欲望のために利用する人間は俺にとっては敵なんだ。俺の出世を邪魔するんだからな」
「あの、柊人さんも自分の欲望のために私を利用してませんか」
七三子の突っ込みに槇村はむっとした顔になった。
「俺の欲望が満たされる時は、おまえが素面で喜びを感じる時だ。利用とかじゃない」
七三子は槇村を見上げた。槇村は七三子を穴が開くほど見つめていた。
目を合わせるのが怖くて目をつぶった。顔が近づくのがわかった。
唇に厚い唇が当たった。唇だけの口づけは穏やかなものだった。七三子はこれだけでいいのにと思う。
これ以上のものは望まない。昨夜のような刺激が毎晩あったらたまったものではない。
「寝るか」
唇が離れた後、槇村は言った。その言葉とほぼ同時に七三子は眠りに落ちていた。
槇村は毛布と掛布団を七三子に掛けると、起き上がった。
寝室を出てリビングに行くと、指を鳴らした。
目の前に現れたのは猫姿の男爵とニシキヘビとフクロウだった。
「これより命ず」
二匹と一羽は槇村の指示を受けると即座にその場から姿を消した。
槇村本人もまた、寝室横の小部屋に入りパソコンを開き、何やら調べ始めた。
七三子が目覚めたのは、槇村のベッドの上だった。
時計は5時30分。まずい。今から家に帰って着替えて職場に間に合うかどうか。
枕元にあった下着と昨日着ていたスーツを着てリビングに出た。
「おはよう」
槇村が昨日のソファでコーヒーを飲んでいた。
休日なのでオフホワイトのポロシャツにオリーブ色のチノパンという格好である。
「おはようございます。帰らせていただきます」
「飯食っていけばいい。車で家まで送る」
「でも……」
「電車じゃ間に合わないだろ」
「ごはんだにゃん」
男爵がスープとバターロールパンと目玉焼きをトレイで運んで来た。
「男爵がせっかく作ったんだ」
男爵のにっこり笑ったような顔を見ると食べないとは言えなかった。
「ありがとう、男爵」
「どういたしましてにゃん。奥様のためならなんでもしますにゃん」
「奥様……」
七三子は気が動転しそうだった。奥様だなんて。恥ずかし過ぎる。
「男爵、おまえ、俺にはそんなこと言わないよな。御主人様のためならなんでもしますなんて言ったことないよな」
槇村はぎろりと男爵を睨んだ。男爵は首をかしげた。
「男爵は言う必要がないから言わないだけで、そう思ってるんでしょ」
七三子の言葉に男爵はうなずいた。
「そうですにゃん。奥様のおっしゃる通りにゃん」
男爵はそそくさとキッチンに向かった。
「おまえ、すっかり男爵に気に入られたな」
槇村は七三子をじっと見つめた。その視線がひどく気恥ずかしかった。
朝食の後、槇村は七三子をアパートまで送っただけでなく、身支度を終えた七三子を学園の近くまで送った。
仕事が終わる時間に迎えに来るからと言い残して。
槇村が生徒が通らない頃合いを見計らってくれたので、途中まで生徒や職員と会うことはなかった。
「おはようございます」
学校の近くまで来ると、昨日猫を連れて来た男子生徒が後ろから挨拶した。
「おはよう」
「猫、飼い主が見つかったんですね」
七三子の横に立った生徒はにっこり笑う。
「ええ。見つけてくれたおかげよ」
本当は連れて来て欲しくなかったが、生徒には罪はないからそう言った。よく見ると、小ざっぱりした感じで、優しそうな顔をしている。
「名前が男爵っていうのよ。料理が上手で」
言いかけて、七三子はしまったと思った。
「飼い主さんが料理が上手でね」
慌てて言い直した。
「榊原君!」
後ろから来た女生徒が少年に声をかけた。七三子は速足でその場から遠ざかった。
「あ、ちょっと……」
榊原少年は七三子を追おうとしたが、少女に捕まった。
「おっはよう! 朝っぱらから、事務のおばさん相手に何の話?」
「ちょっとごめん」
少年は少女の手をふりほどいて、七三子を追ったが、背が低いので他の生徒の姿に紛れて見えなくなってしまった。
「はあ……あの猫、なんかやばかったんだけどな。事務員さんにはもっとやばいものが憑いてるような」
神社の宮司の息子の榊原少年は七三子にまとわりつくものの匂いを敏感に感じていた。何の匂いかはわからないが、どこかまがまがしいものが少年の感覚を刺激するのだ。
七三子が槇村の車から降りるのを見た生徒はいない。だが、見た男が一人いた。
男は七三子の後方を素知らぬ顔で歩いていた。
「おはようございます、福田先生」
「おはよう」
女子生徒の声ににこやかに答えた福田であったが、目は笑っていなかった。あの男は一体、七三子の何なのか。
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こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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