あなたへの手紙(アルファポリス版)

三矢由巳

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二十 帰って来た男

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「ないごっか、おはんは、け死んだとじゃなかとか」

 黒岩武左衛門は目の前に立つ男の姿に我が目を疑った。
 深編笠を取った顔は、頬はこけ無精ひげが生えていたものの、幼馴染の川原治左衛門その人であった。



 治左衛門は去年の私学校の挙兵に際して、この村の若者ともども西郷隆盛に従い戦い、俘虜の憂き目に遭い大坂で病死したと聞いていた。
 武左衛門は持病の癪で従軍できぬことを悔やみながら、郷里で戦況に一喜一憂していた。
 城山での西郷先生の自裁を知った時は、己がおればさようなことにはさせなかったと一人芋畑の真ん中で号泣した。
 その後に知った幼馴染の死の経緯を聞き、彼は激怒した。
 同じく俘虜となった若者を釈放させるために、偽りの年齢を証言した後、病に倒れたと。しかも釈放された者が近々帰って来ると言う。
 おめおめ俘虜の身となった上に、自分を助けた者が病死したのに己だけがのうのうと生きて帰って来るとは。恥知らずめが。
 黒岩は遺骨も形見の品もない治左衛門の葬儀の場で叫んだ。

『許せん、村川新右衛門ば斬る』

 幼馴染は妹の許婚者でもあった。
 話は尾鰭を付けて広がった。
 それが鹿児島の港に上陸したばかりの村川新右衛門の耳に入ったのは当然だった。
 彼が海路鹿児島を離れたと知ったのは、それから十日ばかり後のこと。武左衛門は狂ったように叫びながら、ユスノキの木刀で庭に据えている鍛錬用の横木を打ち続けた。
 翌日から武左衛門はそれきり、幼馴染のことも新右衛門のことも語らなくなった。
 それから一年余り、明日は妹の祝言の日である。妹を是非嫁にという家からの望まれての縁組だった。武左衛門は妹の幸せのためと承知したのである。
 祝言を前に庭を自ら清めていた武左衛門の目の前の門の脇に立っていたのが旅装の川原治左衛門だった。



「ただいま戻りもした。黒岩さまにお詫びをと思い」
「詫びち、何を詫びることがあろうか。よう、戻ってきた」

 武左衛門はそう言うと門に向かって歩きだした。
 すると、治左衛門は目を伏せた。

「申し訳ございもはん」
「ないを言うとか」

 そう口にした瞬間、武左衛門はすぐに治左衛門の詫びの理由に気付いてしまった。
 妹のことだと。

「ここへ参る途中で、おあき様が祝言ち聞きもした。なしてこげな時に戻ってしもうたか。申し訳ございもはん」

 父のいない家で、武左衛門自身があれこれ祝言の段取りを決めていた。治左衛門のことを忘れて妹が幸せになれるようにと。妹はまだグズグズしていた。たぶん、今日も川原家の墓所に参っているはずである。
 そこへ戻って来た治左衛門は妹の祝言のことを知ってしまったのだ。

「おはんは悪くなか。こん縁組を決めたのはおいじゃ」
「じゃっどん、戻ってこんければ」

 武左衛門は考えた。どうすればよいのか。
 彼らの受けた郷中の教育では、穿議せんぎを仕掛けられることがあった。
 たとえば、もし親のかたきを探している時、自分に船を出して助けてくれる人がいたが、実はその人物こそが探し求めていた親の敵だったらどうするかという、判断に悩む問いが与えられ、それについてどう行動すべきか考えなければならないのである。
 この場合は、死んだはずの妹の許婚者が戻って来たが、明日は妹が別の相手と祝言を挙げることになっている、いかがすべきかという問いが武左衛門に与えられたわけである。
 妹の気持ちを考えれば、縁組を白紙に戻し治左衛門と祝言をすればよい。だが、相手の家の立場を思えば治左衛門には諦めてもらい祝言の予定を変えずに行うべきである。そうなると、妹は泣く泣く嫁ぐことになる。
 果たしてどうすべきか。妹への情と縁組相手への義理の間で武左衛門は迷っていた。
 その迷いを見透かしたのか、治左衛門は言った。

「それがしが身を引けばよか。おあき様には何も言わんでくだされ。おさらば」

 言うが早いか、治左衛門は深編笠をかぶり、背を向けると歩き始めた。

「じざ」

 門から出て呼びかけようとしてやめた。使いに出ていた下男が戻って来るところだった。
 結局、武左衛門は身を引くという治左衛門をそこで止められなかった。



 恐らく治左衛門のことだから実家にも戻らず、元来た道を引き返したに違いなかった。
 それにしても、なぜ彼が大坂で死んだことになったのか、わけがわからなかった。同じ名前の者と勘違いされたのか、あるいは似た名まえの者がいたのか。
 ふと、村川新右衛門のことを思い出した。
 なんと、可哀想なことを言ってしまったものか。
 あやつは稚児の頃から気の弱いところがあった。斬るなどと言われたら、戻ってくるはずがなかろう。治左衛門は生きていたのに、なんということを。
 己はなんと愚かなことを言ったのか。
 武左衛門はいたたまれなかった。
 どうすればいいのだ。
 治左衛門もまた新右衛門と同じようにここを出て戻って来ぬのではないか。
 己はまた同じ過ちをしたのではないか。
 そう思った途端、彼は動いていた。
 まだ間に合う。
 おあきはどこだ。治左衛門は。
 武左衛門は草鞋をつっかけ、川原家の墓所へ向かった。
 たとえ家に戻らなくとも、先祖の墓に無事生きていたことを報告するはずである。

「あら、なんごっか」
「イノシシんごたっ」

 武左衛門が駆ける様を見た人々は顔を見合わせた。




 集落のはずれの竹山の中に墓地はあった。細い道を駆け上った武左衛門は川原家の墓の手前まで来て足を止めた。
 薄暗い竹林の中、いくつも並ぶ小さな墓石の前に二つの影が寄り添っていた。
 妹のすすり泣く声が聞こえた。

「ないごて、ないごて」
「すまん、遅過ぎた」
「うんにゃ、あたいが早過ぎた」
「おいのことは忘れてくいやい」
「忘れんでよか」

 武左衛門は叫んだ。
 若い二人は驚き、声の主を見た。

「忘れたらいかん。治左衛門、おはんはここから出て行かんでよか。ここに残っておあきと祝言を挙げれ」

 竹林に響くその声には涙が混じっていたように思われたが、恐らく武左衛門はそんなことはありえんと言い切るであろう。



 その後、川原治左衛門はおあきと祝言を挙げ、幸せに暮らした。
 なぜ治左衛門が死んだことになってしまったのか、どこで手違いが起きたのかはわからなかった。
 黒岩武左衛門は村川新右衛門の行方を大阪に尋ねたが、結局わからずじまいであった。
 武左衛門が亡くなった後は治左衛門が新右衛門の行方を尋ねたが、杳として知れなかった。
 その数代後に彼らの子孫がT夫人を通じて安積家のことを知ることになるのだが、それはまた別の物語である。
 ひとまず、手紙に始まった物語はここで幕を閉じることにしたい。



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