あなたへの手紙(アルファポリス版)

三矢由巳

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十六 穴

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 無関係なのに、遠くに住んでいるのに、なぜ自分を責めるのだろう。
 自分だって、大変な状況にあったはずなのに。
 俺にはわからない。
 確かに、人は同じ人が苦しんでいるのを見れば苦しさを感じる。だが、何もしてやれないことやそこから逃れようとした自分を責めることはないと思う。苦しんでいる当人にとって自分を見ている人が苦しい思いをするのを見るほうがつらい。
 今、そう思えるようになったのは、少しだけ気持ちにゆとりが出てきたせいかもしれない。
 その日からしばらくは自分が苦しいのか怒っているのかそれすらわからなかった。たぶん生きるので精いっぱいだったのだろう。
 心にぽっかり開いた穴に落ち込んだ瞬間からただ落ちていくしかなかった。もがきながら、叫びながら。
 当たり前に存在していた人々がいなくなった。俺の未来図にその人達はいないと思っていたはずだった。だが、思いもかけぬ時に突然いなくなったことで、俺の未来図には本当は母以外の家族も背景にいたのだと気づいた。
 父も祖父母も兄弟姉妹も未来にはいないことにしていた俺はなんと浅はかな子どもだったことか。



『おまえの親父が生きていれば』

 その日の後、一体何度この言葉を聞いただろう。
 生きていれば、土地のことでもめることもなかった。
 生きていれば、うまく話がまとまった。
 生きていれば、皆が一つにまとまった。
 様々な人が父の存在を頼りにしていたことを知った。
 俺にとっては飲んだくれで、母を束縛し、兄や姉の嫌がらせを止めもしない人だったのに。
 だが、父は裏切った母の夫であることも俺の父であることもやめなかった。
 それが愛なのか、それとも執着なのか、あるいは己が裏切られたことを認めたくなかったのか、わからない。
 父はただ黙って俺を息子として育てた。
 養育費を飲み代に使うずるい男ではあったが、父はとてつもなく大きかった。
 兄や姉もそうだった。
 生きていれば、俺たちをまとめてくれた。
 生きていれば、嫌な男達を追い払ってくれた。
 同級生たちは口々に言っていた。
 祖父母も妹も弟もそうだった。
 俺と母を束縛し苦しめていた人々は、町にとってはなくてはならぬ人だった。
 そして母も。
 なくてはならない人を失ったのは俺だけではない。町もそうだった。
 それに気付いた時、またも穴は深くなった。



 失ったものの大きさは日に日に大きくなった。その存在が小さくなることなどなかった。
 俺の中で大きな黒い穴が日ごとに深くなってゆく。
 日々は過ぎてゆく。様々な手続き、儀式。終わったからといって穴は埋まらない。ますます深くなっていった。
 それでも生きていた。
 どんなに苦しくても泣いても腹は減るし、眠くもなるのだ。
 本能は心の都合などお構いなしに、生きることを身体に強いた。



 半年ほどたった頃、下宿先の先生の家に、男が来た。
 謝りたい、君を引き取りたいと言って。
 一目見て、あの流れ者の男だとわかった。
 もっと早く来たかったが、つとめがあったので来ることができなかったと言っていた。つとめが何を意味するかは見当がついた。男もまた父と同じならず者の匂いを漂わせていた。
 子どもの頃、会いたいと思っていた本当の父だった。
 だが、不思議と父という気がしなかった。父は死んだ父だけだとその時初めて思った。
 遅過ぎたのだ、この人は。
 母と出会うのが遅過ぎただけではなく、俺を迎えに来るのも。
 俺は断った。
 それが父を父とも思っていなかった俺にできる唯一のことだった。
 男はそう言われると思っていたと言った。
 男はこの先の俺の暮らしに不自由がないようにと、弁護士を頼んだ。弁護士は田舎にそのままになっていた土地や家屋などの不動産、預貯金、債権・債務等を調査・清算し、祖父母や両親が加入していた生命保険があることも突き止めた。
 弁護士は今までと同じように暮らしていれば大学卒業までの学費や生活費はこれで賄えると言った。
 おかげで俺は下宿先の先生の家の居候にならずに済んだ。先生は受け取れないと言ったが、仕送りがなくなって以降の下宿代をすべて払った。たぶん父が生きていたらそうするはずだった。
 俺は男に礼を言いたかった。だが、男は二度と俺の前に姿を現さなかった。唯一の窓口である弁護士に手紙を一度だけ託した。返事はなかった。男は自分の属する世界に俺を近づけたくなかったのだろう。



 経済的な問題は解決しても、俺の中の穴はふさがらなかった。
 学校へは行っていた。勉強している間だけは何も考えずに済んだ。けれど、友人達との会話の端々にふとひっかかるといけなかった。俺はたぶん相当不安定な精神状態だったんだと思う。
 担任と病院に行ったこともある。
 友人に真夜中に延々と電話したこともある。
 迷惑な奴だったに違いない。友人だって担任だって無傷ではないのに。
 だが、皆、そんな俺を静かに見守ってくれた。
 部活で気心の知れた友人ができたことも俺にとっては救いだった。
 ありがたかったのは学校の先生達や友人達だけではなく、それまで会ったこともない病院の人達だった。 
 職業上の義務を果たしただけだと彼らは言うだろう。けれど、その義務を完璧に果たしてくれたからこそ、俺は穴の中に落ち込んでも生きていられたんだと思う。
 たとえば守秘義務。職務上知り得た個人情報を第三者に洩らしてはならないという義務を徹底して守ってくれたおかげで俺の境遇は必要最小限の人にしか知られなかった。
 どんなに立派な御託を並べる医療人であろうと、患者の情報を一言でも洩らすのは、はっきり言って碌なもんじゃないのだ。それによって信頼関係はいとも簡単に崩れるのだから。
 看護師はナイチンゲール誓詞というのを暗誦させられるらしい。本当はナイチンゲールが作ったんじゃないと病院の看護師が言ってたが、そうだとしても、その言葉の意味は重い。
 こんな一節がある。

 わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
 わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。

 私事のすべて、内事のすべてを洩らさないという誓いは何も看護師に限ったものじゃないけど、これを厳守してくれた人々に感謝したい。
 友人達もそうだ。教員や医者、看護師は法律や就業規則があるが、高校生にそんなものはない。ないけれど、俺の境遇を外部の誰にも洩らさなかった。ネットもある世の中なのに。
 俺は本当に人に恵まれたのだと思う。
 心の穴は簡単にはふさがらないが、穴の外へ出て行く時間は次第に増えていった。



 大きな存在を失うと人は心に大きな穴を抱えるのかもしれないと俺は今思う。
 大きなものと意識していなかったのに、これほど父やきょうだいのことが大きいとは思わなかったのだ。
 もう一度、手紙の初めの部分を読んだ。
 西南の役の後、村川新右衛門は黒岩から逃げるためだけに鹿児島を離れたのだろうか。
 彼もまた心に大きな穴を抱えていたのではないか。その穴を埋めるように商いの道に入り酒屋の仕事に励み、我が子に盛の字を付けたのではないか。
 いや彼だけではない。故郷に戻らなかったA大元帥も。同じ三方限に生まれ育った男達も。
 それほどまでに、西郷隆盛という人は大きかったのかもしれない。
 その大きな穴を抱えながら、明治という国家もまた近代化に向かって走っていったのではないか。
 走って走って走った先が今だとしたら……。
 西郷のいなくなった後に開いたこの国の大きな穴は果たして埋まったのだろうか。
 身内を失った俺の心の穴から連想するなど、烏滸がましい話であるが。


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