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八 二十一グラムの妄想

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 運のいい一家だ。
 戦争で誰一人死んでいないとは。
 まあ、いい。
 そういう家もあるということだろう。



 うちは母方のひいじいさんが死んでる。
 南方のどこかの島で死んだらしい。しかも戦闘ではなく敗戦の五か月前に病気で。
 墓を改装した時に骨壺を確認すると骨ではなく石が入っていた。
 たぶんひいじいさんの骨は遠い南の島のどこかで朽ちているのだろう。ひいじいさん達日本兵の朽ちた身体を栄養にして熱帯の植物たちが生い茂り、島は緑に覆われているのだろう。南の島はひいじいさん達の巨大な墓標かもしれない。
 未亡人になったひいばあさんは忘れ形見の娘を育てて嫁にやった後亡くなった。写真でしか見たことののないひいばあさんは娘と一緒に笑っていてもどこか寂しそうに見えた。
 ひいじいさんとあの世で出会えて心から笑っていられるに違いない、なんていうのは生きている者の勝手な妄想かもしれない。
 死んだ者の本当の思いなど生きている者にわかるはずがないのだ。
 同じ生きている者の思いだってわからないんだから。
 いや、もしかすると、自分のことすらわかってないのかもしれない。
 自分が本当に思うこと、願うことすらわかっていないんじゃないのか。
 今自分が願うことは、実は心の底から求めているものではなく、子どもの頃から周囲にそれを願うように強いられたものかもしれないのだ。
 美しくなりたい、痩せたい、優しくなりたい、賢くなりたい、豊かになりたい、強くなりたい……。
 それは美しくならねばならない、痩せねばならない、優しくあらねばならない、賢くあらねばならない、豊かであらねばならない、強くあらねばならないという周囲の思い込みの裏返しではないのか。
 別に美しくなくても、痩せてなくても、優しくなくても、賢くなくても、豊かでなくとも、強くなくても、生きている人間は大勢いるのに。
 本当に望むモノ。心というものがあるとしたらそれが望むモノこそが本当に望むモノかもしれない。
 問題は心も脳の働きの一つだということだ。ならば、脳が活動を停止したら心も無くなる?
 それでは、魂なのか。魂が望むモノこそが、真実なのか。
 どこぞの研究者が計測したわずか二十一グラムの。
 だが、彼の実験は杜撰だった。そんなものがあてになるのか。非科学的過ぎる。
 何より、魂が果たして計測できるのか。
 魂の有無なんて、誰にも証明できないのに。



 こんなことを思うのも、生きている人間にしかできないことだろうな。
 死んだ者は何も思うことはない。脳の血流が止まれば、思考すること自体不可能なのだから。
 やがて朽ちた脳は、分子の単位に分解され南の島の熱帯雨林に姿を変える。熱帯雨林の木々や草となった死者は何を思うのか。木々や草が物を考えるとしたらの話だが。
 木々や草に魂があるとしたら?
 それも生きている者の勝手な妄想かもしれない。



 柄にもないことを考えてしまった。
 いや、考えるなどとは烏滸がましい話だ。
 感想の類でしかない。



 結局、安積家は戦争を乗り切り、高度経済成長の波に乗ったということだ。
 あの婦人もまた両親が戦争で死ぬことなく、それなりの階層に属し、その階層の中で結婚したということだ。
 もし両親が戦争で他界していたら、彼女は生まれることなく、兄は戦災孤児になり、悲惨な境遇となっていたかもしれない。
 安積盛正も肋膜炎になっていなければ、戦地でひいじいさん同様の死を遂げていたのかもしれない。
 すべては、仮定の話だが。
 現実は残酷だ。
 戦争で皆が同じように不幸になったわけじゃない。他に比べてほとんど影響を受けなかった家族もいるということだ。
 子どもをかかえ、ひいじいさんに死なれたひいばあさんの苦労なども知らずに。
 いや、俺が苦労などと言うのもおかしな話だ。俺だってばあさんから聞いた話の範囲でしか知らないのだ。
 同居していた舅の貞吉は息子の死を知った直後から体調を崩し、床に臥すようになった。働き手はひいばあさんだけだった。
 朝暗いうちに起きて港で魚を仕入れ、天秤棒を担いで魚を売りながら毎日何キロも歩いていた。売り終えて帰ったら、休む間もなく土木工事の手伝いで男に交って働いた。夕食を食べた後は、頼まれた仕立物をして、いつ寝ているのか、子どものばあさんにはわからなかったらしい。朝目覚めた時も眠る時もすでに母親は起きていたのだから。
 働いて働いて舅を送り、子どもだったばあさんを育てて嫁にやり、ひいばあさんは孫の顔を見ることなく亡くなった。まだ五十にもなっていなかった。



 非科学的だが、もし夢想することが許されるなら……。
 南の島の熱帯雨林の中の一本の大木の大きく分厚い濃い緑の葉が川に落ち流されやがて海に出る。それは流れに乗って北へ向かう。やがて小さな島国の南側を流れる海流に乗る。
 海流は黒潮だ。黒々とした流れは三ノット(約時速五・六キロメートル)の速さで北へ向かう。葉っぱは海流に乗って本州の沖を流れて行く。
 そこへ一枚の小さな木の葉が合流する。それはひいばあさんの墓の裏手に生えていた紅葉したヤマモミジが風に吹かれて小川に落ちたものだ。小川から大河、湾内から外海へと流された小さな手の形の紅の葉。
 ヤマモミジと熱帯の葉は連れ添うように北へ北へと流れてゆく。
 二十一グラムの魂を乗せて。



 柄にもない夢想だ。
 俺はヒマワリの種を口に入れた。
 ふと思う。
 あの幕末から明治にかけて活躍した人々、まるでヒマワリの種のような人々。彼らを産んだヒマワリの根元には一体誰が眠っていたのだろうかと。




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