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七 戦争と戦後
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恐慌の影響は免れたものの、戦争だけは避けられません。昭和六年に満州事変が起き、昭和十二年盧溝橋事件で日中はぶつかり合い、昭和十六年には日本軍によるハワイの真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。
昭和十二年に生まれた義姉の華子は物心ついた時から戦争の話ばかり聞かされていたと申していたものです。
さて、安積家にも戦争の波は襲いかかって参りました。とうとう昭和十九年、盛正に召集令状が来たのです。三十二歳の自分にも来るとは、と盛正は戦争の敗北を予感したそうです。ところが、その矢先、盛正は肋膜炎にかかりました。元々痩せている上に、少しずつ食糧事情が悪くなっておりましたから、それがよくなかったのでしょう。召集は免除され、それを機に仕事を辞め、一家で秋田の安積家に疎開しました。
ですが、一人盛之だけは東京に残りました。『わしは戦では死なぬ。一兵卒として陛下をお守りする。』の一点張りだったそうです。
あの洞田衛生兵の言葉がまだ盛之の記憶にあったのでしょう。結局、東京を何度も空襲が襲いましたが、盛之はその度に難を逃れ、昭和二十年八月十五日を迎えました。
戦争が終わり、盛正は先に東京に戻り、横浜で復員してきた昔の同僚と貿易会社を始めました。肋膜炎は空気のいい田舎で食糧に比較的恵まれていたおかげか、その頃にはずいぶんとよくなっておりました。
盛正の会社は当初いろいろありましたが、高度経済成長の波に乗り、順調に業績を伸ばしました。おかげさまで安積家は戦後も戦前の生活を保っていくことができたようです。
男爵家の令嬢だった姑の実家は華族制度の廃止や戦災でずいぶんと困窮していたそうで、盛正はそちらの甥や姪の面倒も見ていたそうでございます。
盛之は敗戦にさほど衝撃を受けていなかったようです。むしろ、戦争を終えるのが遅すぎたと思っていたようです。
『もっと早くに降伏しておれば』
嫁入り後に、戦没者追悼式の映像をテレビで見ている時につぶやいたのを聞いてしまいました。ただ一度だけのことでございます。
もっと言いたいことはあったのだと思いますが、盛之はあの戦争についてはほとんど家族の前で口にすることはありませんでした。
昭和三十三年の十一月には皇太子殿下のご婚約が発表されました。当時、私は小学校六年生でした。婚約者となった令嬢の写真を新聞で見て「素敵ね」と言うと、両親に畏れおおいことだと怒られたものでした。
ここで私の実家について少し書いておきたいと存じます。
私の祖父は陸軍軍人でした。昭和の初めに退役しました。父は軍には入らず、東北帝国大学を卒業後、医薬品会社に勤め招集されることなく敗戦を長野で迎えました。母と兄とともに東京に戻った一年後の昭和二十一年に私が生まれました。母方の祖父は戦前は宮内省の役人でした。というわけで、高貴な方々のことを立派とか素敵とか一般庶民が使う言葉で評価するなどもってのほかという考えがあったのです。
戦後生まれの私にしてみれば、素敵という言葉を使うのにさほど違和感はなかったのですが。
翌年の四月のご成婚の前に我が家でもテレビを購入し、ニュースの映像に見入ったのも懐かしい思い出です。
あの頃、夏休みに軽井沢の別荘に行った時などは、素敵な殿方と出会えないだろうかなどと思ったものでした。そういう出会いなどめったにあるはずもないのですが。
ところが高等科の二年の夏休みにそれがあったのです。私はテニスが不得意で、テニスクラブに足を運ぶことはほとんどありませんでした。ところが、その日、父の妹が一緒に行こうと言うので、渋々ながらクラブに参りました。
そこで出会ったのが安積盛紀だったのです。いえ出会わされたというべきか。
大学を出たばかりの盛紀さんはテニスに汗を流しておりました。私にはまばゆいばかりに見えました。
その日はクラブの中の喫茶室で叔母と一緒にオレンジジュースを飲みながら二言、三言お話をしただけでした。
翌日、盛紀さんがお母様とおいでになりうちの両親同席でお茶を飲みました。私はほとんど話をしませんでした。
別荘滞在の間にそういうことが何度かあり、帰京後、両親から正式に話があると聞きました。
私には否とは言えませんでした。この先、盛紀さん以上の方に出会えるとも思えませんでしたから。
後でうちの祖父が陸軍にいた頃に盛之の部下であったということを聞きました。恐らく祖父同士が示し合わせての話だったのでございましょう。
高等科三年の十月に東京五輪が開催されました。
その直前に東海道新幹線が開業して東京から新大阪まで「ひかり」は四時間で行くという驚異的な速度に、私どもは驚くしかありませんでした。
東京五輪もまた驚きの連続でした。女子バレーの金メダル、マラソンのアベベの力走等はご存知かと思います。大勢の外国人が都内に来るというので、両親は決して一人では外出しないようにと言っていました。そういうわけで、盛紀さんと二人で外出することが多くなりました。そういえば、盛紀さんと武道館で柔道の試合を見たことがありました。どんな試合だったかもう忘れてしまいましたが、異国の方が柔道着を着て黒帯を締めている姿というのは不思議な感じがいたしました。
翌年昭和四十年に二十五歳の盛紀に十九で嫁ぎました。高等科を卒業してすぐのことでした。この頃、日露戦争を戦った盛之はすでに八十でしたが、大変に矍鑠としておりました。
翌年には長男の盛和が生まれ、結婚の遅かった盛和から哲子が生まれたのが二〇〇七年のことでございます。
こうして安積家が続いていることを思うと本当に盛之という人はよくぞ戦いを生き抜いてくれたものと思います。
昭和十二年に生まれた義姉の華子は物心ついた時から戦争の話ばかり聞かされていたと申していたものです。
さて、安積家にも戦争の波は襲いかかって参りました。とうとう昭和十九年、盛正に召集令状が来たのです。三十二歳の自分にも来るとは、と盛正は戦争の敗北を予感したそうです。ところが、その矢先、盛正は肋膜炎にかかりました。元々痩せている上に、少しずつ食糧事情が悪くなっておりましたから、それがよくなかったのでしょう。召集は免除され、それを機に仕事を辞め、一家で秋田の安積家に疎開しました。
ですが、一人盛之だけは東京に残りました。『わしは戦では死なぬ。一兵卒として陛下をお守りする。』の一点張りだったそうです。
あの洞田衛生兵の言葉がまだ盛之の記憶にあったのでしょう。結局、東京を何度も空襲が襲いましたが、盛之はその度に難を逃れ、昭和二十年八月十五日を迎えました。
戦争が終わり、盛正は先に東京に戻り、横浜で復員してきた昔の同僚と貿易会社を始めました。肋膜炎は空気のいい田舎で食糧に比較的恵まれていたおかげか、その頃にはずいぶんとよくなっておりました。
盛正の会社は当初いろいろありましたが、高度経済成長の波に乗り、順調に業績を伸ばしました。おかげさまで安積家は戦後も戦前の生活を保っていくことができたようです。
男爵家の令嬢だった姑の実家は華族制度の廃止や戦災でずいぶんと困窮していたそうで、盛正はそちらの甥や姪の面倒も見ていたそうでございます。
盛之は敗戦にさほど衝撃を受けていなかったようです。むしろ、戦争を終えるのが遅すぎたと思っていたようです。
『もっと早くに降伏しておれば』
嫁入り後に、戦没者追悼式の映像をテレビで見ている時につぶやいたのを聞いてしまいました。ただ一度だけのことでございます。
もっと言いたいことはあったのだと思いますが、盛之はあの戦争についてはほとんど家族の前で口にすることはありませんでした。
昭和三十三年の十一月には皇太子殿下のご婚約が発表されました。当時、私は小学校六年生でした。婚約者となった令嬢の写真を新聞で見て「素敵ね」と言うと、両親に畏れおおいことだと怒られたものでした。
ここで私の実家について少し書いておきたいと存じます。
私の祖父は陸軍軍人でした。昭和の初めに退役しました。父は軍には入らず、東北帝国大学を卒業後、医薬品会社に勤め招集されることなく敗戦を長野で迎えました。母と兄とともに東京に戻った一年後の昭和二十一年に私が生まれました。母方の祖父は戦前は宮内省の役人でした。というわけで、高貴な方々のことを立派とか素敵とか一般庶民が使う言葉で評価するなどもってのほかという考えがあったのです。
戦後生まれの私にしてみれば、素敵という言葉を使うのにさほど違和感はなかったのですが。
翌年の四月のご成婚の前に我が家でもテレビを購入し、ニュースの映像に見入ったのも懐かしい思い出です。
あの頃、夏休みに軽井沢の別荘に行った時などは、素敵な殿方と出会えないだろうかなどと思ったものでした。そういう出会いなどめったにあるはずもないのですが。
ところが高等科の二年の夏休みにそれがあったのです。私はテニスが不得意で、テニスクラブに足を運ぶことはほとんどありませんでした。ところが、その日、父の妹が一緒に行こうと言うので、渋々ながらクラブに参りました。
そこで出会ったのが安積盛紀だったのです。いえ出会わされたというべきか。
大学を出たばかりの盛紀さんはテニスに汗を流しておりました。私にはまばゆいばかりに見えました。
その日はクラブの中の喫茶室で叔母と一緒にオレンジジュースを飲みながら二言、三言お話をしただけでした。
翌日、盛紀さんがお母様とおいでになりうちの両親同席でお茶を飲みました。私はほとんど話をしませんでした。
別荘滞在の間にそういうことが何度かあり、帰京後、両親から正式に話があると聞きました。
私には否とは言えませんでした。この先、盛紀さん以上の方に出会えるとも思えませんでしたから。
後でうちの祖父が陸軍にいた頃に盛之の部下であったということを聞きました。恐らく祖父同士が示し合わせての話だったのでございましょう。
高等科三年の十月に東京五輪が開催されました。
その直前に東海道新幹線が開業して東京から新大阪まで「ひかり」は四時間で行くという驚異的な速度に、私どもは驚くしかありませんでした。
東京五輪もまた驚きの連続でした。女子バレーの金メダル、マラソンのアベベの力走等はご存知かと思います。大勢の外国人が都内に来るというので、両親は決して一人では外出しないようにと言っていました。そういうわけで、盛紀さんと二人で外出することが多くなりました。そういえば、盛紀さんと武道館で柔道の試合を見たことがありました。どんな試合だったかもう忘れてしまいましたが、異国の方が柔道着を着て黒帯を締めている姿というのは不思議な感じがいたしました。
翌年昭和四十年に二十五歳の盛紀に十九で嫁ぎました。高等科を卒業してすぐのことでした。この頃、日露戦争を戦った盛之はすでに八十でしたが、大変に矍鑠としておりました。
翌年には長男の盛和が生まれ、結婚の遅かった盛和から哲子が生まれたのが二〇〇七年のことでございます。
こうして安積家が続いていることを思うと本当に盛之という人はよくぞ戦いを生き抜いてくれたものと思います。
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