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三 盛之の出兵
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さて、舅の父、つまり大舅の盛之について語ることにいたしましょう。
まず、安積家の事情を説明いたします。これを知らないと、彼がなぜ長男でありながら秋田から東京に出てほとんど帰ることがなかったかわかりにくいかと存じますので。
新右衛門が安積家で働き始めた時、安積家には娘が二人いて、長女のタネが婿を迎えておりました。婿はおとなしく真面目な男で、タネとの仲もよく、結婚して二年目に娘が生まれました。ところが、タネが産後の肥立ちが悪く出産後一か月で亡くなりました。そこで安積家の主人は次女のナエを婿の後添いにと考えました。
今はそんな結婚はないと思いますが、姉が亡くなったから妹がその後妻になるというのは、そう珍しい話でもなかったのです。
ところが、ナエは断ります。赤子の姪の面倒はみるが、義兄の後妻にはならぬと言うのです。どうも、その頃からナエは新右衛門とわりない仲になっていたようでございます。
安積家の人々はこれは大変と一度は新右衛門を安積家から追い出そうとしたそうです。ですが、新右衛門はその頃すでに安積の酒作りにはなくてはならぬ人になっておりました。
薩摩では味噌や焼酎を自宅で作っていたとかで、新右衛門は発酵食品を作る技術に長けていたらしいのです。新右衛門が仕込みをした酒はうまいと近所でも評判になっていたようで、わざわざ山一つ越えて求めに来る人もいたとか。
結局、長女の婿が家を出て行くことになりました。新右衛門は残り、ナエと結婚し婿養子となり、タネの忘れ形見のハナを養女としました。
ですが、新右衛門は家を出たタネの婿に申し訳ない、ハナに跡を継がせると安積家の人々に言っておりました。
その矢先に生まれたのが盛之です。
従って、生まれた時から盛之にはハナと結婚し跡を継ぐか、ハナが養子を迎えたら弟として家業を手伝うか、家を出るかという選択肢しかなかったのです。
そういうわけで、盛之は長男といっても複雑な立場にありました。普通なら何の屈託もなく過ごす子ども時代であるはずなのに、長男でありながら家は居心地の悪いものだったようです。
決して学校の成績も悪くはなく、県立中学校に進学したほどですが、少々気性が激しいところがありました。
師範学校の剣道部の生徒と喧嘩をしたり、それはたいそうな武勇伝があったように聞いております。
それに、ハナさんという人は一つ年上だったそうですが、なかなか気が強く、盛之のことを嫌っていたようで。
盛之のおとなしい弟とはウマが合ったとかで、後にそちらと結婚することになります。
盛之は県立中学校を出た後、家業の手伝いをしておりましたが、生来活発で、帳簿をつけたり、酒の仕込み具合をじっと見たりなどということが苦手だったようでございます。
ハナさんともそりが合わず、家に残るのは難しいだろうとその頃から思っていたようです。
一九〇四年日露戦争開戦の年、血気盛んだった盛之は兵役に志願しました。一八八五年生まれで二十になったのは一九〇五年ですから徴兵検査も受けておりませんし、長男ですからわざわざ志願してまで行く必要もないはずなのに。ロシア相手の戦争に志願するなど、私から見ても無謀としか思えません。
体格がよく剣道をやっていた盛之の志願は当然のように受け入れられました。
盛之はこうして秋田の歩兵第十七連隊に入営しました。とはいえ新兵ですからすぐに戦地に行けるわけもありません。結局、十七連隊の所属する第八師団は翌一九〇五年になって援軍として派遣されたのでございます。
ですが派遣された先というのが黒溝台という激戦の地。しかも時は一月です。大陸の一月ですから、秋田の一月どころの寒さではありません。しかもロシアは十万の兵で攻めてきたのです。
黒溝台というのはかの有名な秋山兄弟の兄秋山好古少将率いる騎兵第一旅団の活躍で有名な戦場でございます。秋山少将は再三ロシアの大攻撃の予兆ありと満州軍に警報を送り続けたそうでございますが、無視され、結局黒溝台はロシアの攻撃を受けることになったのです。その応援に向かったのが第八師団なのです。ですが秋山少将を助けるどころか、ロシアの大軍に攻撃され窮地に陥りました。やっと応援が奇襲作戦をかけロシア軍も退却しましたが、第八師団の死傷率は五割を超えていたそうでございます。ちなみにロシアは十万の兵力のうち九万は無傷だったそうです。
さて、盛之でございますが、彼の小隊もまたロシアの攻撃で大変な被害を被り、小隊長までもが敵の銃撃に倒れてしまいました。盛之自身も傷を負い、野戦病院に運ばれる身となりました。なんでも右の太ももをえぐるような傷だったそうでございます。亡くなるまで盛之は寝込むようなことはなく、介護を必要としませんでしたので、誰も我が家ではその傷を見た者がおりません。
ですが、たいそうな傷で、そこから黴菌が入ったのか、膿んで熱に苦しみ、大変な思いをしたそうでございます。実際、同じような苦しみ方をして亡くなった方々も病院には多かったそうでございます。とうとう熱にうかされ、ある夜に、秋田の家の夢を見た時には、自分でももう長くはあるまいと思ったそうです。なにしろ庭にいて自分を手招きしていたのが、先年亡くなった祖父だったのですから。
その夢から目が醒めた時、一人の若い衛生兵と目が合いました。年の頃は同じくらいだなと思ったそうです。
『自分はもう長くはあるまい』と盛之は衛生兵に言ったそうです。衛生兵はにっこり笑いました。盛之は驚いたそうです。こんな場所で笑うような人間がいるのかと。隣の寝台ではうめいている僚友もいるのです。
『心配することねえべ。おめえは長生きするだ』
秋田の訛りではありませんでした。
『くにはどこだ』と尋ねると、岩手だと答えました。
『岩手はどこだ?』
答えた地名があまりに訛りがきつくて、わからなかったそうです。それでもわかった顔でうなずくと、衛生兵は懐から印籠のようなものを出したそうです。そして、盛之の太ももの包帯をはずし、その印籠から出した恐ろしく臭い膏薬のようなものを塗りたくったそうでございます。それがまた痛かったそうで、傷の痛みよりひどく、もしかして毒でも塗られたのではないかと思ったそうです。それで楽に死ねるなら、それもよかろうとその時は思い、どうにでもなれと黙ってされるがままにしていたそうです。
『陀羅尼助だ』
そう言って、衛生兵は包帯を巻き直しました。
『おめは運が強い。戦では死なね。おらわかる」
『なすて?』
『おら、わがるんだ。おらのおとっつあんがヨダで死ぬのも分かった』
ヨダというのは津波のことでございます。恐らく、あなた様もご存じの言葉ではないかと思います。
『おらのおとっつあんは八年前のヨダで死んだだよ。その前に、陀羅尼助の作り方を教わったんだべ』
『おめえは誰だ? どこの隊だ』
『…衛生大隊の洞田貞吉二等衛生兵であります』
ウロタとは妙な名前の男だと盛之は思ったそうで、その妙な名前のおかげで後にある程度までは消息を追うことができたのです。下の貞吉という名はありふれていましたが、覚えやすい名でした。
『サダキッツァンか。自分は安積盛之二等兵だ』
名乗った後、意識を失い、それから丸一日こんこんと眠り続けた盛之でした。目が醒めると熱は下がり、傷の膿も減っていました。
その夜、また例の衛生兵が来てにっこり笑って言ったそうでございます。
『もう大丈夫だ。おめえは長生きするべ。奉天に行ったら出世する』
まだ奉天での会戦など、誰も頭にない頃でした。それなのに、この衛生兵は奉天で戦いがあると予見したようでした。
その数日のうちに盛之は寝台から起き上がれるようになり、太ももに傷などあるようには見えないほど歩けるようになったそうです。怪我をした軍人は病院船で帰国できたのですが、盛之はまだお国のために戦えると師団に残り、奉天会戦にも従軍しました。ほとんど壊滅状態だった第八師団でしたが、亡くなった小隊長やその副官の代わりに小隊を率い、功績をあげたので、戦争が終わる前には上等兵にまで昇進しました。
さて日本に引き上げる頃になって、盛之は件の洞田貞吉二等衛生兵のことが気にかかり、師団の人事に問い合わせましたが、彼は病気のため、病院船で一足先に日本に帰っておりました。衛生兵の癖に病気になるとはなんとかの不養生もいいところだと、盛之は言っておりました。
さて、戦争も終わり軍を離れてもよかったのですが、盛之は秋田に帰って酒を造るよりは軍人のほうが性に合っていると見たのか、そのまま軍に残りました。ハナと結婚するつもりもありませんでしたから、秋田に戻ってもどのみち家に居場所はないのです。
幸運なことに盛之はその矢先、陸軍の参謀総長、A大元帥と見えることができました。
何か軍の集まりだったそうで、警備を命じられて伺候していた際、大元帥の前で緊張して柱に頭をぶつけてしまったそうです。その時に『ビンテを打った』と咄嗟に出てしまったのです。大元帥は『おはんはカゴッマの出か』とお尋ねになりました。無論秋田の出ですからそう答えると『秋田でも頭をビンテと言うのか』とお尋ねになりました。そこで父親が薩摩の出で、よく頭をビンテと言っていたことを説明しました。大元帥は不思議そうにまたお尋ねになったそうです。
『ないごて、おはんの父上は薩摩を出て秋田におじゃったのか』
話せば長くなりますがと盛之は父親の新右衛門が西南の役で私学校側で戦ったこと、その後、鹿児島に帰らず秋田に行ったことを申したそうでございます。ただし黒岩某の話はしなかったそうです。大元帥のみならず陸軍には薩摩の出身者が多く、もし黒岩の家ゆかりの者の耳に入ってはまずかろうと盛之なりに考えたそうです。
大元帥はそうかそうかとうなずきました。その数日後、盛之は陸軍省に呼ばれ、参謀総長付きの伍長に任命されました。破格のことに盛之は腰を抜かしそうになったそうです。戦場で巨体のロシア兵を見ても怖気づくことはなかったのに、この時ばかりはA大元帥の威光に畏怖を覚えたそうでございます。
私が思うに、A大元帥は、ご自身が官軍として西南の役で親戚にあたる西郷様と戦ったという負い目があるために、私学校側で戦った盛之の父のことを他人事とは思えなかったのでございましょう。A大元帥もまた、鹿児島に終生帰らなかったそうでございます。
とはいえ、大元帥は贔屓ばかりはなさらない方でした。田舎者で少々荒っぽい盛之に学問をすることを勧め、昼間の仕事が終わった後、勉強するように夜間の学校に行かせたり語学を勉強させたり、たいそう鍛えられたそうでございます。大元帥の奥様は、留学生としてアメリカに渡った方でしたから、英語、フランス語に堪能で、お屋敷に伺った際に、英会話をみていただいたこともあるそうです。
おかげさまで盛之は大元帥が参謀総長を退任した後も、次の参謀総長にも重用され、大正九年に三十五歳で陸軍を辞した際は中尉にまで進みました。
まず、安積家の事情を説明いたします。これを知らないと、彼がなぜ長男でありながら秋田から東京に出てほとんど帰ることがなかったかわかりにくいかと存じますので。
新右衛門が安積家で働き始めた時、安積家には娘が二人いて、長女のタネが婿を迎えておりました。婿はおとなしく真面目な男で、タネとの仲もよく、結婚して二年目に娘が生まれました。ところが、タネが産後の肥立ちが悪く出産後一か月で亡くなりました。そこで安積家の主人は次女のナエを婿の後添いにと考えました。
今はそんな結婚はないと思いますが、姉が亡くなったから妹がその後妻になるというのは、そう珍しい話でもなかったのです。
ところが、ナエは断ります。赤子の姪の面倒はみるが、義兄の後妻にはならぬと言うのです。どうも、その頃からナエは新右衛門とわりない仲になっていたようでございます。
安積家の人々はこれは大変と一度は新右衛門を安積家から追い出そうとしたそうです。ですが、新右衛門はその頃すでに安積の酒作りにはなくてはならぬ人になっておりました。
薩摩では味噌や焼酎を自宅で作っていたとかで、新右衛門は発酵食品を作る技術に長けていたらしいのです。新右衛門が仕込みをした酒はうまいと近所でも評判になっていたようで、わざわざ山一つ越えて求めに来る人もいたとか。
結局、長女の婿が家を出て行くことになりました。新右衛門は残り、ナエと結婚し婿養子となり、タネの忘れ形見のハナを養女としました。
ですが、新右衛門は家を出たタネの婿に申し訳ない、ハナに跡を継がせると安積家の人々に言っておりました。
その矢先に生まれたのが盛之です。
従って、生まれた時から盛之にはハナと結婚し跡を継ぐか、ハナが養子を迎えたら弟として家業を手伝うか、家を出るかという選択肢しかなかったのです。
そういうわけで、盛之は長男といっても複雑な立場にありました。普通なら何の屈託もなく過ごす子ども時代であるはずなのに、長男でありながら家は居心地の悪いものだったようです。
決して学校の成績も悪くはなく、県立中学校に進学したほどですが、少々気性が激しいところがありました。
師範学校の剣道部の生徒と喧嘩をしたり、それはたいそうな武勇伝があったように聞いております。
それに、ハナさんという人は一つ年上だったそうですが、なかなか気が強く、盛之のことを嫌っていたようで。
盛之のおとなしい弟とはウマが合ったとかで、後にそちらと結婚することになります。
盛之は県立中学校を出た後、家業の手伝いをしておりましたが、生来活発で、帳簿をつけたり、酒の仕込み具合をじっと見たりなどということが苦手だったようでございます。
ハナさんともそりが合わず、家に残るのは難しいだろうとその頃から思っていたようです。
一九〇四年日露戦争開戦の年、血気盛んだった盛之は兵役に志願しました。一八八五年生まれで二十になったのは一九〇五年ですから徴兵検査も受けておりませんし、長男ですからわざわざ志願してまで行く必要もないはずなのに。ロシア相手の戦争に志願するなど、私から見ても無謀としか思えません。
体格がよく剣道をやっていた盛之の志願は当然のように受け入れられました。
盛之はこうして秋田の歩兵第十七連隊に入営しました。とはいえ新兵ですからすぐに戦地に行けるわけもありません。結局、十七連隊の所属する第八師団は翌一九〇五年になって援軍として派遣されたのでございます。
ですが派遣された先というのが黒溝台という激戦の地。しかも時は一月です。大陸の一月ですから、秋田の一月どころの寒さではありません。しかもロシアは十万の兵で攻めてきたのです。
黒溝台というのはかの有名な秋山兄弟の兄秋山好古少将率いる騎兵第一旅団の活躍で有名な戦場でございます。秋山少将は再三ロシアの大攻撃の予兆ありと満州軍に警報を送り続けたそうでございますが、無視され、結局黒溝台はロシアの攻撃を受けることになったのです。その応援に向かったのが第八師団なのです。ですが秋山少将を助けるどころか、ロシアの大軍に攻撃され窮地に陥りました。やっと応援が奇襲作戦をかけロシア軍も退却しましたが、第八師団の死傷率は五割を超えていたそうでございます。ちなみにロシアは十万の兵力のうち九万は無傷だったそうです。
さて、盛之でございますが、彼の小隊もまたロシアの攻撃で大変な被害を被り、小隊長までもが敵の銃撃に倒れてしまいました。盛之自身も傷を負い、野戦病院に運ばれる身となりました。なんでも右の太ももをえぐるような傷だったそうでございます。亡くなるまで盛之は寝込むようなことはなく、介護を必要としませんでしたので、誰も我が家ではその傷を見た者がおりません。
ですが、たいそうな傷で、そこから黴菌が入ったのか、膿んで熱に苦しみ、大変な思いをしたそうでございます。実際、同じような苦しみ方をして亡くなった方々も病院には多かったそうでございます。とうとう熱にうかされ、ある夜に、秋田の家の夢を見た時には、自分でももう長くはあるまいと思ったそうです。なにしろ庭にいて自分を手招きしていたのが、先年亡くなった祖父だったのですから。
その夢から目が醒めた時、一人の若い衛生兵と目が合いました。年の頃は同じくらいだなと思ったそうです。
『自分はもう長くはあるまい』と盛之は衛生兵に言ったそうです。衛生兵はにっこり笑いました。盛之は驚いたそうです。こんな場所で笑うような人間がいるのかと。隣の寝台ではうめいている僚友もいるのです。
『心配することねえべ。おめえは長生きするだ』
秋田の訛りではありませんでした。
『くにはどこだ』と尋ねると、岩手だと答えました。
『岩手はどこだ?』
答えた地名があまりに訛りがきつくて、わからなかったそうです。それでもわかった顔でうなずくと、衛生兵は懐から印籠のようなものを出したそうです。そして、盛之の太ももの包帯をはずし、その印籠から出した恐ろしく臭い膏薬のようなものを塗りたくったそうでございます。それがまた痛かったそうで、傷の痛みよりひどく、もしかして毒でも塗られたのではないかと思ったそうです。それで楽に死ねるなら、それもよかろうとその時は思い、どうにでもなれと黙ってされるがままにしていたそうです。
『陀羅尼助だ』
そう言って、衛生兵は包帯を巻き直しました。
『おめは運が強い。戦では死なね。おらわかる」
『なすて?』
『おら、わがるんだ。おらのおとっつあんがヨダで死ぬのも分かった』
ヨダというのは津波のことでございます。恐らく、あなた様もご存じの言葉ではないかと思います。
『おらのおとっつあんは八年前のヨダで死んだだよ。その前に、陀羅尼助の作り方を教わったんだべ』
『おめえは誰だ? どこの隊だ』
『…衛生大隊の洞田貞吉二等衛生兵であります』
ウロタとは妙な名前の男だと盛之は思ったそうで、その妙な名前のおかげで後にある程度までは消息を追うことができたのです。下の貞吉という名はありふれていましたが、覚えやすい名でした。
『サダキッツァンか。自分は安積盛之二等兵だ』
名乗った後、意識を失い、それから丸一日こんこんと眠り続けた盛之でした。目が醒めると熱は下がり、傷の膿も減っていました。
その夜、また例の衛生兵が来てにっこり笑って言ったそうでございます。
『もう大丈夫だ。おめえは長生きするべ。奉天に行ったら出世する』
まだ奉天での会戦など、誰も頭にない頃でした。それなのに、この衛生兵は奉天で戦いがあると予見したようでした。
その数日のうちに盛之は寝台から起き上がれるようになり、太ももに傷などあるようには見えないほど歩けるようになったそうです。怪我をした軍人は病院船で帰国できたのですが、盛之はまだお国のために戦えると師団に残り、奉天会戦にも従軍しました。ほとんど壊滅状態だった第八師団でしたが、亡くなった小隊長やその副官の代わりに小隊を率い、功績をあげたので、戦争が終わる前には上等兵にまで昇進しました。
さて日本に引き上げる頃になって、盛之は件の洞田貞吉二等衛生兵のことが気にかかり、師団の人事に問い合わせましたが、彼は病気のため、病院船で一足先に日本に帰っておりました。衛生兵の癖に病気になるとはなんとかの不養生もいいところだと、盛之は言っておりました。
さて、戦争も終わり軍を離れてもよかったのですが、盛之は秋田に帰って酒を造るよりは軍人のほうが性に合っていると見たのか、そのまま軍に残りました。ハナと結婚するつもりもありませんでしたから、秋田に戻ってもどのみち家に居場所はないのです。
幸運なことに盛之はその矢先、陸軍の参謀総長、A大元帥と見えることができました。
何か軍の集まりだったそうで、警備を命じられて伺候していた際、大元帥の前で緊張して柱に頭をぶつけてしまったそうです。その時に『ビンテを打った』と咄嗟に出てしまったのです。大元帥は『おはんはカゴッマの出か』とお尋ねになりました。無論秋田の出ですからそう答えると『秋田でも頭をビンテと言うのか』とお尋ねになりました。そこで父親が薩摩の出で、よく頭をビンテと言っていたことを説明しました。大元帥は不思議そうにまたお尋ねになったそうです。
『ないごて、おはんの父上は薩摩を出て秋田におじゃったのか』
話せば長くなりますがと盛之は父親の新右衛門が西南の役で私学校側で戦ったこと、その後、鹿児島に帰らず秋田に行ったことを申したそうでございます。ただし黒岩某の話はしなかったそうです。大元帥のみならず陸軍には薩摩の出身者が多く、もし黒岩の家ゆかりの者の耳に入ってはまずかろうと盛之なりに考えたそうです。
大元帥はそうかそうかとうなずきました。その数日後、盛之は陸軍省に呼ばれ、参謀総長付きの伍長に任命されました。破格のことに盛之は腰を抜かしそうになったそうです。戦場で巨体のロシア兵を見ても怖気づくことはなかったのに、この時ばかりはA大元帥の威光に畏怖を覚えたそうでございます。
私が思うに、A大元帥は、ご自身が官軍として西南の役で親戚にあたる西郷様と戦ったという負い目があるために、私学校側で戦った盛之の父のことを他人事とは思えなかったのでございましょう。A大元帥もまた、鹿児島に終生帰らなかったそうでございます。
とはいえ、大元帥は贔屓ばかりはなさらない方でした。田舎者で少々荒っぽい盛之に学問をすることを勧め、昼間の仕事が終わった後、勉強するように夜間の学校に行かせたり語学を勉強させたり、たいそう鍛えられたそうでございます。大元帥の奥様は、留学生としてアメリカに渡った方でしたから、英語、フランス語に堪能で、お屋敷に伺った際に、英会話をみていただいたこともあるそうです。
おかげさまで盛之は大元帥が参謀総長を退任した後も、次の参謀総長にも重用され、大正九年に三十五歳で陸軍を辞した際は中尉にまで進みました。
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