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一 拝啓
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先日は失礼いたしました。哲子の祖母の安積英子と申します。
少々長い手紙になりそうなので、お時間のある時にでもお読みくだされば幸いです。
すぐに書き始めようと思ったものの、今まで聞いた話を時間を追ってまとめておりましたら、なかなか書き出すことができません。
ほんの少しの話しか聞いていないと思ったのですが、往時の日記を読み返すと意外とたくさんの話を聞いておりまして、自分でも忘れている話が多いのには驚きました。
今読み返したら、時候の挨拶すら書いておりませんでした。
今は六月、紫陽花の季節です。
この手紙が届く日は雨が降っているかもしれませんね。
あなた様の心だけでも晴れてくださればと願い、この手紙をしたためます。
まず、私のことから簡単に書きます。
私が安積家に参りましたのは昭和四十年十九歳の時のことでございます。
某学院の女子高等科を卒業して間もなくのことでした。
今のお嬢様たちは高等学校を卒業してすぐ結婚などということは考えもしないことかもしれませんが、私の両親は古風な考え方で、在学中であっても良い方がおいでならすぐにでもと思っていたようです。
さすがに安積家の方々はちゃんと高等学校卒業の資格を取ってからでいいとおっしゃってくださり、婚約から一年半後に、私は安積盛紀に嫁いだのでございます。
その頃は夫の祖父盛之も健在で、これから語るのはその盛之にまつわる不思議な因縁の話でございます。
話してくれたのは夫の祖父盛之、それから、舅の盛正、舅の妹吉子さんです。多少は時間の経過で記憶が薄れたり、記憶の食い違いがありますが、大筋のところでは話が一致しております。年寄りの思い出話ゆえ少々の寄り道もありますが、気楽にお読みください。
さて、当家のことを書き起こしたいと存じます。当家の祖ともいえる方々のことから書かなければ、現代に生きる貴方様にはピンとこないのではないかと思われるからです。
話は明治十年から始まります。一八七七年といいますから、百五十年近くも前のことになるのですね。ですが、この話を語った盛之にとっては自分が生まれるわずか八年前のことだったのでございます。歴史の教科書にも載っている西南の役というのがございます。ここから、安積家の歴史が始まりました。
盛之の父は元々は薩摩の国の出でございました。ですが薩摩のどこの生まれか、家族に生涯一切語りませんでした。盛之の語るところによると、陸軍の中には薩摩の出身者も多く、彼らの語る言葉と父親の語る言葉を突き合わせてみると、恐らくは薩摩の某地方の出身ではないかと申しておりました。
今となっては真偽の確かめようもない話なのでございますが。
その盛之の父の元々の名は村川新右衛門と申しました。私学校に学び、その挙兵に参加し、鹿児島から熊本、宮崎と軍勢に参加し戦ったとのことでございました。しかしながら戦いは次第に劣勢となり、宮崎の北部で負傷し官軍の捕虜となり、大阪で取り調べを受けることとなりました。
その詮議の際、村川は若輩者ゆえ御慈悲を賜りたいと同じ村の出の若者川原治左衛門が訴えたとのこと。実際、新右衛門と言う人は小柄で年齢よりも若く見えたそうで、新政府の役人もならばということで、九月二十四日の戦の終結後、早いうちに鹿児島に帰されたそうでございます。
ところが、鹿児島の港から、故郷の村へ向かう道すがら、恐ろしい話を新右衛門は耳にします。なんと大阪で自分をかばってくれた川原治左衛門が病死し、治左衛門の許嫁であった黒岩家の娘の兄という人が村川新右衛門が帰って来たら仇をとるなどと申しているというのです。
その黒岩某は示現流の遣い手で、幕末には京都で藩の要人の警護などもしていた由にございます。新右衛門はさすがにこれはまずいと思い、港に引き返し大阪へ行く商船に乗って鹿児島を去って、とうとう二度と戻ることはありませんでした。
すでに明治も十年を過ぎたというのに、示現流の遣い手の言いがかりのような敵討ちをどうして恐れるのか、ご不審の念もあるかと存じます。
ですが、明治六年に敵討禁止令が出たとはいえ、明治十三年に、幕末に殺された家族の仇を討った若者がいたとか、世間もそれを半ば美談ととらえていたということからすると、まだまだ江戸の世の気風が世間には強かったのでありましょう。
ことに薩摩は尚武の気風に富んでおりましたそうで、若者たち(にせ、と呼ばれていたそうです)の気性はなかなか激しかったと盛之も話しておりました。
なんでも、藩の重罪人を死刑に処した後、その生き胆を若者たちが競い合って奪ったとか。その生き胆を若者たちが食べたという話もあるそうですが、果たしてまことのことでしょうか。盛之の父親の新右衛門はあくまでも伝え聞いた話として語っていたようですが。
さて、大阪で幾年か働いた新右衛門は商売も覚え、東北地方へ移住しました。やがて秋田へ参り、そこで結婚し、妻の家の名、安積を名乗りました。安積家は豪農というほどではありませんが、米作りをなりわいとし、酒も小規模ながら造っている家でした。新右衛門は自らの商才を生かし、安積家で商売を大きくしていきました。今も毎年新米と新酒が秋田の安積本家から送られてきます。
さて、そこで生まれたのが語り手の盛之でございます。明治十八年一八八五年の生まれということになります。名前でお気づきかと思いますが、「盛」の字は西郷隆盛からいただいたものでございます。新右衛門は戦に敗れても、西郷様の遺徳をしのび、この名をわが子に付けたのでございます。それは今も安積家に代々受け継がれております。
ただ数年ほど前ですが、本当は西郷様のお名前は隆永で隆盛は父上の名だという話を聞きました。だとしたら、盛之ではなく本当は永之でなければおかしいのですが。当時は本名を名乗るという機会が少なかったのでございましょうか。
西郷様に関しては写真もないので本当の顔もわからないとか。
まこと不思議な方ですが、紛れもなく新右衛門を始めとする当時の薩摩の若者には多大な影響を与えた方のようでございます。
少々長い手紙になりそうなので、お時間のある時にでもお読みくだされば幸いです。
すぐに書き始めようと思ったものの、今まで聞いた話を時間を追ってまとめておりましたら、なかなか書き出すことができません。
ほんの少しの話しか聞いていないと思ったのですが、往時の日記を読み返すと意外とたくさんの話を聞いておりまして、自分でも忘れている話が多いのには驚きました。
今読み返したら、時候の挨拶すら書いておりませんでした。
今は六月、紫陽花の季節です。
この手紙が届く日は雨が降っているかもしれませんね。
あなた様の心だけでも晴れてくださればと願い、この手紙をしたためます。
まず、私のことから簡単に書きます。
私が安積家に参りましたのは昭和四十年十九歳の時のことでございます。
某学院の女子高等科を卒業して間もなくのことでした。
今のお嬢様たちは高等学校を卒業してすぐ結婚などということは考えもしないことかもしれませんが、私の両親は古風な考え方で、在学中であっても良い方がおいでならすぐにでもと思っていたようです。
さすがに安積家の方々はちゃんと高等学校卒業の資格を取ってからでいいとおっしゃってくださり、婚約から一年半後に、私は安積盛紀に嫁いだのでございます。
その頃は夫の祖父盛之も健在で、これから語るのはその盛之にまつわる不思議な因縁の話でございます。
話してくれたのは夫の祖父盛之、それから、舅の盛正、舅の妹吉子さんです。多少は時間の経過で記憶が薄れたり、記憶の食い違いがありますが、大筋のところでは話が一致しております。年寄りの思い出話ゆえ少々の寄り道もありますが、気楽にお読みください。
さて、当家のことを書き起こしたいと存じます。当家の祖ともいえる方々のことから書かなければ、現代に生きる貴方様にはピンとこないのではないかと思われるからです。
話は明治十年から始まります。一八七七年といいますから、百五十年近くも前のことになるのですね。ですが、この話を語った盛之にとっては自分が生まれるわずか八年前のことだったのでございます。歴史の教科書にも載っている西南の役というのがございます。ここから、安積家の歴史が始まりました。
盛之の父は元々は薩摩の国の出でございました。ですが薩摩のどこの生まれか、家族に生涯一切語りませんでした。盛之の語るところによると、陸軍の中には薩摩の出身者も多く、彼らの語る言葉と父親の語る言葉を突き合わせてみると、恐らくは薩摩の某地方の出身ではないかと申しておりました。
今となっては真偽の確かめようもない話なのでございますが。
その盛之の父の元々の名は村川新右衛門と申しました。私学校に学び、その挙兵に参加し、鹿児島から熊本、宮崎と軍勢に参加し戦ったとのことでございました。しかしながら戦いは次第に劣勢となり、宮崎の北部で負傷し官軍の捕虜となり、大阪で取り調べを受けることとなりました。
その詮議の際、村川は若輩者ゆえ御慈悲を賜りたいと同じ村の出の若者川原治左衛門が訴えたとのこと。実際、新右衛門と言う人は小柄で年齢よりも若く見えたそうで、新政府の役人もならばということで、九月二十四日の戦の終結後、早いうちに鹿児島に帰されたそうでございます。
ところが、鹿児島の港から、故郷の村へ向かう道すがら、恐ろしい話を新右衛門は耳にします。なんと大阪で自分をかばってくれた川原治左衛門が病死し、治左衛門の許嫁であった黒岩家の娘の兄という人が村川新右衛門が帰って来たら仇をとるなどと申しているというのです。
その黒岩某は示現流の遣い手で、幕末には京都で藩の要人の警護などもしていた由にございます。新右衛門はさすがにこれはまずいと思い、港に引き返し大阪へ行く商船に乗って鹿児島を去って、とうとう二度と戻ることはありませんでした。
すでに明治も十年を過ぎたというのに、示現流の遣い手の言いがかりのような敵討ちをどうして恐れるのか、ご不審の念もあるかと存じます。
ですが、明治六年に敵討禁止令が出たとはいえ、明治十三年に、幕末に殺された家族の仇を討った若者がいたとか、世間もそれを半ば美談ととらえていたということからすると、まだまだ江戸の世の気風が世間には強かったのでありましょう。
ことに薩摩は尚武の気風に富んでおりましたそうで、若者たち(にせ、と呼ばれていたそうです)の気性はなかなか激しかったと盛之も話しておりました。
なんでも、藩の重罪人を死刑に処した後、その生き胆を若者たちが競い合って奪ったとか。その生き胆を若者たちが食べたという話もあるそうですが、果たしてまことのことでしょうか。盛之の父親の新右衛門はあくまでも伝え聞いた話として語っていたようですが。
さて、大阪で幾年か働いた新右衛門は商売も覚え、東北地方へ移住しました。やがて秋田へ参り、そこで結婚し、妻の家の名、安積を名乗りました。安積家は豪農というほどではありませんが、米作りをなりわいとし、酒も小規模ながら造っている家でした。新右衛門は自らの商才を生かし、安積家で商売を大きくしていきました。今も毎年新米と新酒が秋田の安積本家から送られてきます。
さて、そこで生まれたのが語り手の盛之でございます。明治十八年一八八五年の生まれということになります。名前でお気づきかと思いますが、「盛」の字は西郷隆盛からいただいたものでございます。新右衛門は戦に敗れても、西郷様の遺徳をしのび、この名をわが子に付けたのでございます。それは今も安積家に代々受け継がれております。
ただ数年ほど前ですが、本当は西郷様のお名前は隆永で隆盛は父上の名だという話を聞きました。だとしたら、盛之ではなく本当は永之でなければおかしいのですが。当時は本名を名乗るという機会が少なかったのでございましょうか。
西郷様に関しては写真もないので本当の顔もわからないとか。
まこと不思議な方ですが、紛れもなく新右衛門を始めとする当時の薩摩の若者には多大な影響を与えた方のようでございます。
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