初恋はいつ実る?

三矢由巳

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37 お帰りなさい

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 兄はやっとりんごのパイとお茶に口を付けた。

「おいしいな、これ。津由子も食べてみろ」

 私はパイの中心近くを頂いた。煮りんごのとろっとした感触とさくっとしたパイの歯ざわりが絶妙だった。

「おいしい」
「ねえ、それで左京は?」

 お茶を一口飲んで母上は尋ねた。

「左京はもうすぐ帰ってきます」
「それ、先に言って欲しかったわ。ねえ、津由子さん」

 私は何も言えなかった。胸がいっぱいだった。りんごのパイのせいではない。
 帰って来る。その一言が聞きたかった。

「いつ?」
「来月になるかと」

 来月! 私は叫びたかった。帰ってくる、左京様が。

「詳細はわかりませんが、中奥にいる中学校の時の同級生から聞きました」
「今度こそ帰って来て欲しいものだわ。十一月に帰ってくると思ってたら、あと一週間で十二月だもの。これがもし来年に延びたら、労働基準監督署に訴えてやる」

 吠えんばかりの母上に、私は何も言えなかった。

「津由子、よかったな」

 微笑んでそう言った兄は母上を見た。

「申し訳ないんですが、妹と話したいことがあるので、母君は席を外していただけませんか」
「そりゃ構わないわ。兄妹ですもの。週明け締め切りの原稿があるからちょうどよかった」

 母上はパイとお茶を持って自室に行ってしまわれた。

「話って何ですか」

 兄が母上抜きで話したいこととったら実家の家族のことだろう。もしや父の健康状態に何か問題があったのだろうか。

「津由子に謝らないといけないことがある」
「謝る?」

 さっきの微笑みとはうって変わった厳しい表情だった。謝るって一体何だろうか。私としては兄には感謝の気持ちこそあれ、恨む気持ちなど毛頭もない。

「俺は兵庫を捕まえさせるために、兵庫の恋心とおまえを利用した」
「それは仕方ないもの。不義密通と言わせて別件逮捕させるためだったのでしょ」
「だが、俺が利用したのはそれだけじゃない。兵庫を動かすために、左京も利用した」
「え?」

 左京様は城にはいないはずなのに、どうやって利用したのだろうか。

「左京についての噂を立てた」
「え?!」

 私の頭は混乱していた。左京様と浅茅様の噂、そして左京様の出張旅費の不正の噂。でも、兄は浅茅様との噂を否定していた。立てた噂を否定するってどういうこと?

「正確には、左京の出張旅費の件だ。左京と浅茅様の噂は実際に中奥や御広敷で囁かれていた。だから、それを利用して噂を立てた」
「どうやって……」 
「御庭番から上様にありもしない左京の出張旅費の不正請求の話を報告させたのだ。傍で聞いていた兵庫はこれ幸いと、津由子を手に入れる算段を始めた。不正で左京が切腹になれば後家になるから、それまで待てばよいものを。賢いようで愚かなのだな。あいつは連れ込む宿の予約までしていたのだ。これは俺の勝手な想像なのだが、あいつはおまえと二人でいる写真を撮って、左京に送るつもりだったのではないかな。下衆な想像だな。兄として恥ずかしい」

 兄の話に私はしばらく声が出せなかった。ありもしない話を上様に報告? そんなことがあるのだろうか。兵庫が宿の予約というのも信じられない。

「宿って、出合茶屋で会う約束なんかしないと兄上は」
「俺もあの時はそう思っていた。だが、取調で判明したんだ。やっぱりあいつは馬鹿だった」

 それなら、写真もあり得たかもしれない。なんて愚かな男だろう。
 ソファから跳ね上がるように下りた兄は床に端座し、頭を下げた。

「申し訳ない。妹のおまえを囮にしただけでなく、妹の夫の左京のありもしない噂を仕立て上げた。許してくれとは言わない。本当に済まなかった」
「そんなことまでしなくても」
「いやさせてくれ。兄妹だからこそ、けじめをつけたいのだ」
 
 そう言われたら許すしかない。

「頭を上げて。許すから。でも、左京様が帰って来たらちゃんと謝ってください」
「ありがとう。わかった。左京にも詫びよう」

 兄は顔を上げた。

「ところで、上様に嘘の報告をした御庭番の方は大丈夫なのでしょうか。罰せられたりは」
「その心配はないと思う。上様も嘘だと御分かりの上だったそうだから」

 上様は若君様の教育といい、少々変わった方のようである。
 でもいくらなんでも御庭番から上様にありもしない噂を報告させるとは無茶な話である。そんな無茶をする兄は一体……。
 
「あの、兄上、私、子どもの頃からずっと不思議だったのですが」
「不思議?」
「父上も兄上も母上もうちの仕事のことを何も仰せになりませんでした。ただの御家人だとしか。一体どういうお役目なのですか。父上は御先祖は八代様に従って、紀州から江戸に入ったとしか教えてくださらなかったし」

 兄はパイの最後の一切れを口に放り込んだ。

「津由子、そんなことは気にしなくていい。左京のことを考えろ」
「でも、御庭番に嘘の報告をさせるなんて」
「それは言葉の綾だ。俺が命令したわけじゃない」

 そう言うと兄は立ち上がった。

「母君によろしく伝えてくれ、それじゃ」
「待って」

 足早に出て行った兄を追って玄関のドアを開けた。だが、兄の姿はどこにもなかった。
 兄はただの暢気な兄ではないらしい。





 十二月になると学校では三者面談が始まり生徒の進路が固まってきた。梅組でも進路は女学校、商業女学校、工業女学校への進学、定時制女学校進学、商店や工場への就職、武家奉公、あるいは花嫁修業や家業継承のための家事手伝い等、様々である。
 芙二子さんの三者面談では、母親から父親の加増とそれに伴う屋敷替えが内定したことを知らされた。

「ついては奨学金の申請を取り下げたいのですが」

 奨学金を受け取る必要がなくなるほど加増されるというのは初めて聞く話だった。

「それでは手続きの書類を取り寄せます」

 傍らのパーソナルコンピューターを操作して奨学会のサイトにアクセスして申請取り下げ用紙をダウンロードし、印刷ボタンを押した。教室の隅にあるプリンターが機械音で存在を示した。

「この書類の必要な個所に自筆署名と押印してください。あと取り下げ理由は選択肢から選んでください」
「まあ、最近は早いんですね」
「そうですね。私の時は申請用紙を手に入れるのは郵送でしたから」

 用意のいい母親は印鑑を持って来ていたので書類はすぐに完成した。

「ではこれを郵送します。後は第一志望はこの進路調査と同じ友愛女学校でよろしいですね」
「はい」

 母と娘は同時に返事をした。
 少し時間があったので、どちらに引っ越すのか尋ねた。母親の答えた場所は城に近く禄高の高い旗本が多く住む町だった。

「本当に勿体ないお話で。主人は真面目だけが取り柄のような人で出世にも無縁だと思ってました。正直これからどうなるのか少々不安なのです」

 慎ましげな母親は突然の僥倖にとまどっているようだった。

「真面目な人が報われるのは当然のことです」
「当然のこと……。そのようにおっしゃってくださると勇気が湧きます」

 母親は微笑んだ。
 私は左京様のことを思い出していた。左京様が報われるのはいつのことなのだろうか。





 書類仕事の多い多忙な年末だった。気が付けば大晦日。
 兄の言ったのは嘘ではないか、仕事始めの日に母上と労働基準監督署に駆け込まなければならないかもしれないと思いながら、マキさんとお節料理を作っていると、母上の運転する車の音が聞こえた。
 私はマキさんに後を任せて玄関に向かった。もしかしたらと思ったのだ。でもたぶん今日も違うだろう。
 ドアが開いた。

「ただいまあ」

 母上の快活な声が聞こえた。そして、その後ろには……。

「それは……いかがされたのですか」

 そこにいたのは確かに左京様だった。けれど違っていた。月代がないし、何より髷がない。まるで町人のサラリーマンと呼ばれる人々の頭のようだった。着ている物だけは羽織袴だけれど。

「お帰りなさいませ」

 とりあえず三つ指突いて出迎えた。




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