初恋はいつ実る?

三矢由巳

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35 初恋の行方

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 芙二子さんの相談事はいじめではなかった。こんな言い方をしてはいけないかもしれないが、いじめの方がかえって気楽だったかもしれない。いじめた生徒の組の担任や生活指導の先生と協力すれば解決するのだから。たいていの旗本の場合、子女がいじめをしたと知れば卑怯な振舞は許さぬと学校の指導以上の対応をしてくれる。ベテランの先生の話では、二昔前くらいにはいじめをした息子を座敷牢に入れて三か月登校させなかった親がいたらしい。少々やり過ぎだが、それくらいの教育をしなければ家を存続させることはできないと考えてのことだろう。
 閑話休題、芙二子さんの相談の話に戻ろう。

「実は文通をしている友達がいるのですが」

 運動会の時に芙二子さんに会いに来た川村竹之助少年のことを思い出した。あの少年が運動会に来たことも校門前で襲われたことも、芙二子さんのおじいさんは芙二子さんには語っていないはずである。

「少年科学に去年の秋に金魚のレポートが掲載されて、読んだ同じ学年の子から編集部に手紙があって私のところに転送されたきたのです。それがきっかけで互いの研究について文通し合うようになりました」

 私はうなずいた。とにかく黙って話を聞くしかない。

「慶明小学校の六年で川村竹之助君といいます。昆虫、特に甲虫の研究をしていて、標本の写真を送ってもらったことがあります」

 文通相手に甲虫の標本の写真を送る男子。送られた女子の困惑等考えていないに違いない。

「珍しい外国の甲虫があるので、どうやって手に入れたか訊いたら、親戚のおじさんが外交官をしていて手に入ったと。だから、きっと旗本の方だろうと思っていました」

 さすが芙二子さんである。生き物全般に興味があるから甲虫の生息地も知っているのだ。旗本の子息なら、ちょっとした御家騒動で命を狙われることもあろう。だが、芙二子さんのおじいさんは庭者と言っていた。となると、将軍家と関係のある旗本だろうか。

「でも、違ったのです。私達は写真の交換をしていないので互いの顔を知りませんでした。でも、今日、わかりました。文通していた川村竹之助君が、若君様だったのです」

 私はしばし声が出せなかった。
 どこかで見た顔だと思ったのは、そういうことだったのか。
 運動会の時、頭は慶明の制帽で隠されていて髷があるとは気づかなかった。

「顔を知らないのに、どうしてわかったの」
「花束を渡した後、土佐錦を見に来てくださいと言われたのです」
「とさきん?」
「金魚です。数が少なくて飼育が難しいのです。この前手紙で好きな金魚を訊かれて、土佐錦と書いたのです。手紙の中身を知らなければそんなこと言えないはずです。だけど、まさか、竹之助君が若君様だったなんて。先生、どうすればいんでしょうか」

 どうすればいいんでしょうかと言われても、私には即答できなかった。
 母上が言っていた「将来の戦力」という言葉を思い出した。あれは大奥の奥女中を束ねる、いわば官僚としての戦力という意味だろう。若君様の文通相手の芙二子さんは「将来の戦力」どころではない存在として若君様にロックオンされているのではないか。
 でなければ、暗殺されそうになった現場近くの小学校の学習発表会なぞ見に来るわけがない。たぶん花束贈呈も名指しだったに違いない。

「芙二子さんは今、どんな気持ちなのかしら。言葉にできないなら話さなくていいから」
「騙されたと言う気持ちが少しあります。でも、身分の高い人は本当の名前を名乗るわけにはいかないこともあるんだろうなとは想像できます。だから仕方ないかも。ただ、どうしていいかわからなくて」
「文通はどうしたいの?」
「それは……続けられたらと思います。甲虫について知らなかったことも教えてもらえたし、金魚のことを質問したら教えてくれたこともあったし。あ、きっと御台所様の金魚のお世話係の方から聞いたのでしょうね。土佐錦も係の方が育てているのでしょうね。手間のかかる金魚だから仕事が増えて大変かも。やっぱり文通はしないほうがいいですね。かえって奥の皆様にもご迷惑をかけそうで」

 芙二子さんが大奥の人々のことまで考えてしまうのは小学校六年生らしからぬことだった。たぶん大奥見学の影響だろう。

「他の人のことを考えるのも大切かもしれないけれど、一番は芙二子さんの気持ちだと思う」

 大奥の人々を憚って行動するなんて、この年頃の子どもには酷な話だった。今をのびのびと生きて欲しかった。
 ロックオンしているかもしれないといっても、夏休みの宿題を後回しにするような若君様である。真面目な芙二子さんが女学校に行き、やがて大学で生物の研究をするようになったら相手にされなくなるかもしれない。若君様自身も大納言に任官したら、将軍の補佐としての公務がある。甲虫の研究をしている暇もなかろう。
 それに将軍家の方々は公表されていないだけで、高貴な血筋の許婚いいなずけが小学校に入る年齢くらいには決まっているらしい。側室を持たない上様が若君様が側に別の女性を置くことを許すとは思えない。
 何より芙二子さんは生き物という共通の話題を語り合う文通友達としか思っていない。
 かわいそうだけれど、若君様の初恋は実らないだろう。

「芙二子さんが続けたいなら、これまで通り川村竹之助君として文通を続けたらいいのではないかしら。土佐錦のこともあるから今日のことは家の方と相談したほうがいいと思う。友達といっても、お宅がお宅だから」

 芙二子さんの顔がいくらか明るくなった。

「友達でいいんですよね」
「そうね。少し広い屋敷に住んでいて親戚に外交官のおじさんがいる友達」

 芙二子さんは笑った。
 とはいえ、家で両親が娘の話に驚くのは想像できた。芙二子さんが教室を出た後、私は芙二子さんの家に電話を入れた。出て来たのはおじい様だった。川村竹之助少年に会ったことがあるので話は早かった。
 
「とにかく芙二子さんが一番動揺していますので、話は最後まで聞いてください」 
『したが文通友達だけで済むものかの』
「若君様はいずれ将軍になられる方。私情だけで動くことは許されますまい。それに芙二子さんの幸せを思ったら」
『やはり野に置け蓮華草……か』

 孫がお手付きになることを望んでいた人物の発言とはとても思えないけれど、孫の幸せを願う気持ちだけは変わらないようだった。





 母上と夕食を終えて茶を飲んでいると、兄が訪ねて来た。手土産は百貨店の地階で買ったリンゴのパイだった。兄嫁が先日のクッキーの礼として持って行くように勧めたのだと言う。
 ありがたくいただき、八分の一ずつ切って三つの皿に載せテーブルに運んだ。
 兄はこの前と同じく、お茶にもパイにもすぐには手を付けなかった。

「兵庫達の取調が終わったよ」

 先週の土曜に捕まって木曜日の今日に取調が終わるのは、早いのか、それとも遅いのか。
 私以上に母上が興奮していた。

「で、お裁きはどうなるのかしら」

 兄がそこまで知るわけがなかった。が、兄は言った。

「たぶん兵庫は死罪にはならないでしょう」

 兵庫は。ということはそれ以外の誰かがということではないか。一体、誰が死罪になるというのか。そもそも死罪になるような事件とは一体何なのか。
 
「兵庫は取調でおまえが初恋だと言った」

 唐突な一言に私は虚を突かれた。





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