初恋はいつ実る?

三矢由巳

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29 カフェノアロー

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 その店は御家人の住まいの多い町に隣接する町人地の一角にあった。
 周辺はこじゃれた店が多いと評判で、洒落者の町人の若者だけでなく武家の若者にも人気のスポットだった。「淑女スタイル」でも特集されたことがあり、紹介された店には大勢の客が連日訪れていた。
 そんな中、大きな看板を出さず、まるで仕舞屋しもたやのように見える喫茶店があった。名を「カフェノアロー」という。知る人ぞ知る、コーヒーの名店である。産地の特徴を生かした焙煎は通を唸らせた。
 店内で流れる西洋古典音楽の調べを聞きながらコーヒーの味と香りを楽しむ至福を人々にもたらすマスターは欧州で修行したという。髪は総髪、紺色の筒袖の単衣、銀鼠ぎんねず色の野袴姿でカウンターの中で客の注文に応じている姿はマスターというよりはあたかも修行者のようであった。口数の少なさが一層、マスターに神秘性を与えていた。
 そんな店に来るのはコーヒーの味にうるさい少数の通である。
 要するにマスターに愛想がないのでコーヒーが美味いのに客があまり来ない店、それがカフェノアローだった。





 そんな店に私は向かっていた。
 昨夜遅く、兵庫様から午後5時に「カフェノアロー」に来てくれとだけ電話があったのだ。
 店は家からは500メートルほどしか離れていない。賑やかな通りを抜けた先の路地に入ると小さな看板があった。ひっそりとしたたたずまいと言うと聞こえはいいけれど、閑古鳥が鳴いているような雰囲気だった。
 店のドアを開けるとドアベルがカランコロンと鳴った。さっと見渡すと、土曜日の夕方だというのに、店には客の姿がなかった。よく見ると奥のボックス席に髷の頭が見えた。兵庫様らしい。
 読んでいた新聞から顔を上げた壮年のマスターがいらっしゃいませと言った。低いがよく通る声だった。
 BGMはサティのジムノペディ。悪くない選曲だと思った。なんとなく気分が落ち着く。なにしろ、私はこれから一世一代の演技をしなければならないのだから。
 カウンターの横を通った時、マスターから何にするか尋ねられた。コーヒー専門店らしいけれど、なんとなくコーヒーの気分ではなかった。

「ココアありますか」

 マスターは片頬をわずかに動かした。たぶん、これでも笑っているつもりだろう。

「ドミニカのカカオを使ったココアがあります」

 よかった。なんとなくコーヒー以外を注文したら怒られそうな雰囲気があったので心配だった。でも、産地によって味が違うものだろうか。まあいい。このマスターならコーヒーだけでなくココアも美味しそうな気がする。
 私は深呼吸して奥へ向かった。
 予期していた通り、奥の席には兵庫様が座っていた。

「こんにちは。昨夜は電話ありがとうございました」

 私はそう言って兵庫様の向かい側の壁際の席に座った。

「こちらこそ、夜分遅くにすみませんでした。お忙しいところ来ていただいてありがとうございます」

 兄のところに訪ねて来た頃と変わらぬ兵庫様だった。きちんと剃られた月代、高そうな鬢付け油の匂い、清潔な御召し物。そして目の前にはコーヒーカップ。

「お待たせしてしまったのではありませんか」

 コーヒーカップの中身は半分ほどに減っていた。

「いえ、それほどは。学校はどうですか」
「来週の木曜日学習発表会です。生徒は皆張り切ってます。私の組は演劇をするんです。『大岡裁き‐安東屋万里‐』といってマリー・アントワネットの話をモチーフにしたものです」
「マリー何ですか」
「マリー・アントワネット、フランスのルイ16世の王妃で、革命によって断頭台の露に消えたのです」
「ああ、そういえばそういう名前の王妃がいましたね」

 意外だった。兵庫様がマリー・アントワネットをあまり御存知ないとは。それとも奥ゆかしく知らないふりをされているのかもしれない。知ったかぶりして話をしたら、かえって恥をかくかもしれない。劇の中身やマリー・アントワネットの話はしないほうがいいと思った。

「生徒たちは衣装や背景を作るのに一生懸命で。家庭科の授業では教えていない肩衣を作ってくれた子もいるんです。肩衣をピンと張るのが大変だったんですよ」
「肩衣をですか」
「ええ。私も勉強になりました。昌平黌ではこういうのないんですか」
「学習発表会という形はないですね」

 そろそろココアが来ないかとカウンターの方を見たけれど、香りすらしなかった。

「ところで、左京からは相変わらず連絡はありませんか」
「ええ、ありません」
「まったく、あいつは何を考えているんでしょうね。あなたが心配しているというのに」

 ここから開始だと私は気を引き締めた。

「本当に。母上も心配しているというのに」
「あのモデルの」
「モデルだけではなくコラムを雑誌に書いてるんです。本当に立派な方です」
「あなたにいい影響を与えるとは思えませんが」
「そうでしょうか。おかげさまで車の免許も取れましたし」
「あの雑誌のですか。あんなふうに顔を出すのは少々軽率かと」

 真面目な兵庫様。昔とちっとも変わらない。

「まあ、軽率なのは否定いたしません」
「そうでしょう。私だったら、あなたを働かせたり、雑誌に顔を出させたりしない。ましてや車の運転など。運転は自分でするものではないでしょ」

 運転したことのない人には車の運転で得られる自由がわからないなと思った。でもそれを表情に出すわけにはいかない。
 
「兵庫様の家には車があるのですか」
「実家にあります。出勤に使うわけにはいきませんけれどね」
「車種は」

 兵庫様は国産の高級車の名を答えた。

「それでは運転手もいるのですね」
「勿論です」

 自慢げな顔がさもしく思われた。兵庫様のことを兄は馬鹿だと言った。なんとなくわかったような気がした。
 BGMがサティから一変した。シューマンのピアノ協奏曲イ短調の劇的なピアノソロが店内に響いた。

「ですから、目付への金を用立てる代わりに、津由子さん、あなたを頂きたい」

 ですから。助動詞「です」に助詞「から」が付いて接続詞となったもの。前の事柄を受け、その結果として後の事柄が起きることを示す。この場合は、実家に高級車があって運転手もいるから、目付の金を用立てる代わりに私を頂くということ。
 なんだかおかしい。私を頂くのは実家が車を所有し運転手もいるほど裕福だからということ? この理屈はどう考えてもおかしい。
 私との縁談が嬉しかったと言って、言葉を尽くして結婚を申し込んだ左京様は率直だった。
 兵庫様の言葉には率直さがなかった。

「いただくとは?」
「私の物になって欲しいのです」
「私は左京様の妻ですが」
「あなたは左京と運命をともにするのですか。大奥の御中臈と不義を働き出張費の不正をしているのですよ」
「あなたは目付に金を握らせてなかったことにしてくださるのでしょう」
「目付は誤魔化せても、あなたはそれでいいんですか。不実な男の妻で居続けたいんですか」
「夫を愛しているから、助けて欲しいのです。なんとも思っていなければ、ここへは参りません」

 兵庫様の口の端が少し上がった。

「それならば、私の物になるしかないでしょう」
「でも、夫が……」

 私は俯いた。まるでドラマの女優のように。

「それでは、左京と別れずに、私の物になればいい」
「え?」

 私は顔を上げ、驚きの表情を見せた。

「どういう意味ですか?」
「どうって、そのままの意味です」
「それって、まさか不義密通……」

 私はあたりを憚るように小声で言った。誰もいないけれど。

「ええ。そうです。世間ではそのように言いますね。不義密通と」

 兵庫様は不敵に笑った。ああ、これがこの人の本性だったのだ。兄の言っていたことは間違いではなかった。

「いけません、不義密通なんて!」

 私は立ち上がり叫んだ。
 同時にドアベルがけたたましく鳴った。


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