初恋はいつ実る?

三矢由巳

文字の大きさ
上 下
25 / 42

25 兵庫様の電話

しおりを挟む
『こんばんは、津由子さん。兵庫です』

 久しぶりに聞く声だった。けれど懐かしい感じはしなかった。やはり左京様の嫌な噂を聞かねばならないからだろう。

「はい、左京の家内でございます」
『夜分に申し訳ありません。少し帰りが遅くなりましたので』
「いえ、構いません。仕事をしておりましたので」
『持ち帰りですか。小学校もお忙しいんですね』
「おかげさまで」
『あまり無理をなさらぬようにしてください』

 私の心配よりも左京様の方を心配して欲しい。早く本題に入らなければと切り出した。

「不審な噂とはいかなるものなのでしょうか」 

 少し間が空いた。

『私がどんな話をしても平静でいられますか』
「はい。覚悟はしております」

 果たして兄の聞いた噂と同じなのか、あるいはまた他の噂なのか。

『職を汚しているとの噂があるのです』

 最初に想像したこととほぼ一致していた。やはりお仕事に関係する噂だったのだ。
 けれど、左京様には職を汚す理由はない。単なる噂でしかないと私は心の中で呟いた。

「まことですか」
『ええ。彼は欧州への出張や他の地への出張に於いて、必要以上に出張費を請求しているとの噂があるのです』
「どういうことでしょうか」
『領収書の金額を水増しして請求しているということです』

 ありがちな話である。「今週の切腹」でも、カラ出張で切腹というのはわりと多い。

「確かな証拠はあるのでしょうか」
『噂ですから、具体的な証拠というのは。ただ火の無いところに煙は立たずといいます』

 火のないところに火をつけている人間がどこかにいるのだろう。

『私もあり得ないことだと思うのですが、上様の傍にいてそのような話が耳に入ってくると……』
「上様の御側でさような噂をする方がおいでなのですか」 
『……はい』

 上様の傍にいる人間は限られている。小姓、老中等の幕閣、御台所様や大奥の方々等。左京様がそんな方々の噂の種になるものであろうか。

「一介の役人である夫のことなどお城の中の噂の種にもなりますまい。一体どこからさような話が」
『左京はずいぶんと若君様に気に入られているようですので』

 兵庫様も夏休みの宿題の一件を知っているらしい。兄の言うように左京様をやっかむ者達が流した噂が兵庫様の耳にも入ってきたということなのだろう。

「兵庫様は噂を信じておいでなのですか」
『先ほども申したようにあり得ないことだと思います。ただ話の出どころが……』
「出どころとは」
『御庭番です』

 御庭番は身分は低いが、上様や老中と直接話をすることが許されているという。御庭番の話は国政を動かすほどの価値があるのだ。その御庭番が噂の出どころというのは腑に落ちない。上様と御庭番の話を誰かが盗み聞きして、他の者に話しているということではないか。ましてや、それを聞いた兵庫様が私に漏らしていいはずがない。いくら私が左京様の妻であってもだ。
 守秘義務という言葉は代用教員の私でも知っている。生徒のプライバシーに関わることは外部には漏らしてはいけない。同じことはお城に仕える方々にも言える。だから中奥や大奥ではインターネットはできない。左京様も御自分の仕事の話を家ではほとんどなさらない。欧州に行った時も、都市の話はメールに書いていたけれど誰に会ったという話は一切していない。たぶんお帰りになってもお城で若君様の夏休みの宿題の面倒をみていた話はなさらないだろう。
 それなのに、兵庫様は御庭番が出どころだという話を私にしている。少々御心がけが足りないのではなかろうか。兄が父の隠居のために学校を辞めて出仕しなければならなくなった後も時々家を訪ねてきてくれる友誼に厚い方だと思っていたけれど、仕事に関しては少し軽率なような。
 一体どういうおつもりなのか。私はもう少し話を聞いてみようと思った。

「一体、どうして御庭番が夫の話など」
『御庭番は様々なところに入り込んで、役人の行状等を調べていますから、たまたま目に触れたのでしょう。それで上様に報告したのではないでしょうか』

 ますます怪しい。御庭番が上様に報告した話を盗み聞きする人間がいるのだろうか。ましてやそれを吹聴するとは。
 兵庫様は噂を真に受けて、よかれと思って私に話しているのだろうけれど、なんだかこの噂怪しい。

「お城は恐ろしいところなのですね。上様と御庭番の話を盗み聞きするだけでなく人に言いふらしてまわる方がいるとは。兵庫様はさようなところで働いているのですね。さぞかしご苦労もおありでしょう」

 つい皮肉めいたことを言ってしまった。

『津由子さん、心配してくださってありがとうございます』
 
 兵庫様の声が急に上ずったように聞こえた。電話の回線がおかしいのだろうか。

『そんなお優しいあなたにもっと嫌な噂を伝えねばならぬとは』

 嫌な噂。たぶん浅茅様のことだろう。
 
「嫌な噂とは何でしょう。教えてください」
『それは……』
「それは?」
『やはり、この話は聞かないほうが良いかと』
「どうしてですか?」
『きっと、あなたは不愉快になる』

 だったら最初から言わねばよいだけのことなのに、妙に思わせぶりに感じられた。

「構いません。私は夫を信じていますから」
『そうおっしゃいますが……あなたは左京のことを憎むかもしれない』
「話を聞かねば憎むも憎まぬもありません。おっしゃってください。覚悟はできております」
『わかりました。申し上げましょう』

 それから数秒間の沈黙があった。

『左京が汚職に手を染めたのは、さる御中臈のためだという話も耳にしたのです』

 やっぱりそうだった。

「さる御中臈とは?」
『……浅茅という方です』

 大当たりだった。

「夫がその浅茅とかいう方と不義をしたというのですか」
『……不義ということになるでしょう』

 兄から聞いた時もあり得ない話だと理屈でわかってはいても泣いてしまった。やはり二度目に聞いても衝撃はあった。けれど、今度は泣くわけにはいかない。

「不義ならば、夫と浅茅はどうなるのでしょう」
『まだ目付の耳には届いていないようですが、もし目付に知られ調べられることになれば、浅茅は大奥を追われ親戚の家にお預かりになりましょう。左京は汚職もありますから、腹を召すことになるやもしれません』

 あり得ないと思っていても、背筋が凍るような言葉だった。

『私は友人としてそのようなことになるのは忍びないのです。なんとか左京を助けたい』

 助けたいと兵庫様は言う。あり得ない話なのに、兵庫様は信じているらしい。友人だったら、城中に広がる噂を否定してくれるほうがよほどいいのに。
 何故噂を止めてくれないのかと言おうと思ったが、もう少し兵庫様の話に乗ってみようと思った。
 私は特に勘がいいというわけではないのだが、なんとなく兵庫様の電話の意図がただの親切心だけではないように思えたのだ。

「夫を助けてくださるのですか」
『当然です。同じ小学校を出た仲間なのですから』
「なんと有難いこと」

 少々芝居がかった言い方になってしまった。

『そこで提案ですが、親戚に目付をしている者がいるのです。彼にいくばくかのまとまった金子を握らせればなんとかなるかもしれません』

 え、何それ? それって賄賂ではないか。『拙者はこれで道を誤りました』というテレビ番組の再現ドラマの中のセリフのようだった。
 兵庫様はなんと見下げ果てたことをおっしゃるのか。目付が賄賂で動くはずがない。動かぬような方々だから目付に任ぜられるというのに。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。

石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。 すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。 なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました

入海月子
恋愛
有本瑞希 仕事に燃える設計士 27歳 × 黒瀬諒 飄々として軽い一級建築士 35歳 女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。 彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。 ある日、同僚のミスが発覚して――。

処理中です...