初恋はいつ実る?

三矢由巳

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12 不機嫌な左京様

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 夏休みが終わる前に左京様は帰国した。
 欧州各国で上様と御台所様が視察する場所の下見をしたり、各国の首脳との面談の調整をしたりしたということだった。その際、日本橋の伯父様のリストがずいぶん役に立ったらしい。
 母上と三人で囲んだ夕食の席では、出張の間にあったことを母上があれこれと話した。私が口を挟む間もないほどだった。
 
「免許試験場の試験監督が怖い顔でね。火付盗賊改の同心みたいなのよ。それがね『決して不正行為をせぬように』なんて低い声で言うもんだから、若い子がびびってるの。もうおかしくって」
「母上、もう少し静かにしてもらえませんか」
「あら欧米じゃ食事中にも会話するんでしょ」
「会話というのは、一方的なおしゃべりとは違うと思うのですが」
「ごめんなさいね。それじゃ、あなたも会話に参加したら」
「参加するにも入り込めません。津由子さんもさっきから何も話してないでしょう」
「はいはい、わかりました。黙ってればいいんでしょ。まったく、そういうところは父親似なんだから」

 母上はそれでおとなしくなったわけではなかったが、五割ほど口数は少なくなった。
 私は免許が無事に取れたことを話した。

「よかった。おめでとう。それじゃ車を買わないとね」

 左京様は心から嬉しそうだった。

「これで我が家は全員免許取得したわけだ」
「持ってらっしゃるんですか」
「学生時代にね。でもお城勤めだと自動車通勤できないから車は買わなかったんだ。車で通勤できるのは御老中や若年寄のような方々だけだからね」

 幕閣の方々は儀式の時は駕籠で登城するけれど、普段は車で登城しているというのはニュースで見たことがあった。漆のような黒塗りの車で内部の天井や壁に狩野派の花鳥の絵が描かれていると聞いたことがある。

「そういえば、目付が城内の駐車場の枠にきれいに車を入れてないと新参の奉行を叱ったって聞いたけど本当?」

 母上は嘘かまことかわからないような噂を知っている。
 左京様のほうが驚いていた。

「そんな話があるんですか。駐車場は御庭番が管理してるはずですが」
「あら、そうなの。そうよね。目付にそんな暇ないわよね」

 食事の後、母上と皿を洗おうとしていると左京様が台所にやって来た。

「今日は手伝わせて。欧州では夫も家事や育児をやってるんだ」
「お疲れなのに」

 すると母上はすっと流しから離れた。

「邪魔者は消えるとしましょう」

 母上はリビングに行ってしまった。

「これで拭けばいいんだよね」

 左京様は布巾をとって洗い終わった皿を拭き始めた。こんなことをやらせていいものかと思ったけれど、一方では私は嬉しかった。横にいて一緒に作業をする。たったそれだけのことが今までできなかったのだから。

「お願いします」

 皿を洗った後、鍋を磨こうとすると力がいるだろうからと代わってくれた。束子たわしを握る手が頼もしく思われた。
 流し台を拭き上げて仕事を終えた時、いつになく充実感を覚えた。 

「さ、クッキー食べましょ」

 リビングではお土産のクッキーの缶を母上が開けて待っていた。
 左京様はクッキーを買った都市の話をしてくれた。決して仕事に関わる話はしなかった。
 母上はクッキーが気に入ったようだった。

「これおいしいわね。出版社の人に一缶持って行っていい?」
「どうぞ。多めに買ってますから」

 ふと私は兵庫様にきちんとお礼をしていないことを思い出した。このクッキーを持って行ったらいいんじゃないかと思った。

「兵庫様にも差し上げて構いませんか」
「兵庫?」

 左京様は不思議そうな顔になった。

「兵庫様に助けていただいたんです」

 私は免許試験合格の後のことを話した。
 話を聞く左京様の顔つきが次第に険しいものに変わっていたことに私は気付かなかった。

「それで、母上を病院に連れて行ってもらったのか」
「はい。一応、次の日にお電話でお礼を申し上げたのですけれど。やはり、何か持って行ったほうがいいのではないかと思います」
「いや、いい。私が代わりに礼を伝えよう」

 左京様の声の調子が変わったことに私は初めて気づいた。何か良くないことを言ってしまったのだろうか。もしかしたら、私達の行動が軽率だったから?

「そのほうがいいわ」

 それまで黙っていた母上は左京様に賛成のようだった。
 
「申し訳ありません。私達の振舞が軽率だったから」

 やはり左京様に謝っておくべきだと私は思った。

「あなたが謝ることじゃない」

 その口調に苛立ちが含まれているようで、私はますます申し訳なかった。

「その浪人たちが悪いのだ。それで浪人たちは捕まったのか」

 言われて初めて気づいた。電話でお礼を言った時、兵庫様は浪人のことは言わなかった。

「兵庫様は仰せになりませんでした。恐らく捕まったかと」
「恐らくか」

 左京様は胸の前で腕組みをしたまま、考え事をしているようだった。
 





 その夜、久しぶりに離れで二人になれた。
 嬉しいはずなのに、左京様が考え事をしているようなので、なんだか不安になってきた。私は何かいけないことを言ったのだろうか。
 左京様の後に風呂に入った私はそんなことを考えてしまい、のぼせそうになった。
 軽いめまいを感じて台所で水を一杯飲んでいると、左京様が後ろから声を掛けた。先ほどの苛立ちはまったく感じられなかった。

「大丈夫? ずいぶん長湯だったけれど」
「はい。水を飲めばよくなります」

 そうは言ってもエアコンの入った居間に戻ってもしばらくは身体が火照っていた。
 左京様は冷蔵庫に入れていたスポーツ飲料とコップを持って来た。

「こっちの方がいい」
「ありがとうございます」

 コップに注がれた飲料を私はごくごくと飲んでいた。はしたないと思ったけれど、身体がそれを欲していたのだと思う。
 左京様が私の喉元に視線を向けているなんて気付くゆとりもなかった。
 だいぶ落ち着いたところで左京様から明日の仕事のことを尋ねられた。午前中に職員会議があると答えた。

「それじゃ無理はいけないね」

 左京様はそう言うと私の隣に腰をおろした。そして私を抱き寄せた。
 私の身体は熱を持っていたはずなのに、浴衣を隔てた左京様の身体が熱く感じられた。
 お顔を見るとすっと近づいてきた。あ、口づけされると思っていると、本当に唇が唇に触れた。
 物欲しげな顔に見えたのかもしれないと思うと恥ずかしかった。けれど、それ以上に嬉しかった。
 いったん唇が離れた。

「少し口を開けて。舌を入れるから」
「舌ですか」

 思いもよらぬことだった。

「大丈夫だから。世の中の男女はよくやってることだから」
「こんな感じですか」

 私は少しだけ口を開けてみた。

「それでいい」

 そう言うと左京様はまた唇を近づけた。柔らかい唇の感触だけでなく、濡れた舌の感触で私の身体がほっと火がついたように熱くなった。
 口の中で舌は私の舌に触れた。
 不思議な感触だった。どんな食べ物とも違う命あるものの感触。
 もし、私が噛んだらきっと左京様は大怪我をしてしまう。
 きっとこれは左京様の信頼の証なのだ。私なら絶対に舌を噛むはずはないと信じてくださっている。そこまで私は信頼されている。これが夫婦の証なのかもしれない。
 嬉しい。なんと私は幸せな女なのだろう。
 やがて左京様の舌は私の口から離れた。

「今日はこのくらいにしておこう」

 さっき、無理はいけないと言っていた。この口づけは無理なことではないのだろう。
 その夜は隣同士の布団でそれぞれ眠った。  
 私は穏やかな気持ちで眠りに落ちていった。
 たぶん、左京様も疲れてすぐに寝入ってしまったに違いない。





 翌朝、左京様に見送られて私は仕事に向かった。
 今度は帰国後一週間の休みがあるということで帰宅しても左京様がおいでになると思うと、なんだか気持ちが浮つきそうだった。私は気を引き締めて仕事にかかった。
 午前中の勤務を終え帰宅した。が、離れに左京様はいなかった。母上は雑誌の編集部の方との打ち合わせで外出している。
 おかしいと思って携帯端末でメールをチェックすると、左京様からのものがあった。

 急に仕事が入った。
 千代田のお城の携帯の電波が入らない場所に行くので、しばらく連絡できない。
 でも、心配いらない。

 しばらく、心配いらない、嫌な言葉だった。
 私が心配するほど長く連絡できないということではないか。





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