初恋はいつ実る?

三矢由巳

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11 運転免許

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 ローマのコロッセオの写真付きのメールが届いた七月半ば、学校は夏休みに入った。
 勿論、生徒は休みでも教員には仕事がある。それでも時間の融通はできた。校長の許可を得て、午前中出勤し午後自動車教習所に行けることになった。
 電車やバスの路線網が比較的発達している江戸でわざわざ自動車教習所に行く人は多くない。行くのは車好きの商家の若旦那、馬に代わって車を使うようになった上流武家の運転手の子弟、バスやタクシー、配送トラックの運転手志望者、仕事で必要になった商人・職人等で、私達のような女性二人組は珍しかった。
 教習所入校の数日前、母上と雑誌社の方と打ち合わせをした。母上同様に、私にもスタイリストが付くので、教習所では洋服を着て欲しいとのことだった。しかも発売されるのが秋なので撮影の際は秋物でということだった。
 打ち合わせの翌日には同席していたスタイリストが早速私の体形に似合う物を見繕って家に持って来た。慣れない洋服だったが、ブランド物と言われるだけあって、生地も縫製も一流で着ている間不快な感じがしなかった。
 というわけで、勤務が終わると自宅で下着も含めて洋服に着替え、靴を履いて母上と雑誌社差し回しの車で教習所に行く生活が続いた。
 撮影のある日はカメラマンと編集者も同行した。二人とも女性だった。こういう仕事をしている同性がいるとは思いも寄らなかった。彼女達は溌剌と動きまわっていた。おかげで私も気持ちよく教習に臨めた。
 撮影のない日も私は洋服を着て行った。実技教習に和服は不便だった。車のドアの開閉のたびに袴や袖を挟んでいないか気になって仕方なかったのだ。教習所の先生も和服より洋服が安全だと言っていた。実際、ほとんどの教習生が洋服を着ていた。最初和服を着ていた武家の御隠居も仮免許を取る頃には洋服姿になっていた。
 ちなみにこの御隠居は、これまで運転手付きの車に乗っていたものの、自分でもどうしても運転したくなり息子たちの反対を押し切って教習所に来たということだった。まだ五十にもなっていないのに年寄り扱いされたと怒っていた。
 母上が言うには御隠居のように自動車教習所をきっかけに洋服を着るようになる人がいるので、編集者がコーディネートの提案を企画したとのことだった。姑と嫁、二世代の着こなしというのも他にはない斬新な企画らしい。
 それはともかく、私達の教習は順調だった。左京様の出張による不在の寂しさや不安がすべて紛れるわけではないけれど、教習のおかげで少しだけ気持ちが上向きになった。
 仮免の試験は私が一回目で、母上が二回目で合格した。路上教習、卒業検定も問題なく通過し、最後は運転免許試験場。節目節目には雑誌の撮影が行われた。
 合格が判明した後、試験場の近くのホテルでインタビューを受けて取材は終わった。
 母上が近くにおいしい料理屋があるからお祝いに一緒に食事をと編集者を誘ったけれど、この後別の取材があるということで、私達二人で行くことになった。
 繁華街の裏通りにあるこじんまりした料理屋は料亭とはまた違った味わいのある店だった。家庭の台所でも作れそうな料理が多く、母上もこの店の味や盛り付けを参考にしていると言った。
 店を出るとすっかり暗くなっていた。私は久しぶりに晴れ晴れとした気分になっていた。駅のある通りまで歩くことにしたのは少しお酒が入っていたせいかもしれない。
 駅まであと数分というところで、嫌な気配を感じ私と母上は振り返った。数人の浪人らしい男達がこちらへ向かって歩いていた。

「この辺りにはいないタイプね」

 そう母上が呟いた時だった。先頭を歩いていたトウモロコシの髭のような色の髪を総髪にした男が大声を上げた。

「おっ、洒落た格好してるじゃねえか」

 こういう場合、勝てる自信がなければ逃げるしかない。店に戻れば店に迷惑をかける。

「表通りまで走りましょう」
「了解」

 私と母上は走り出した。

「おい、待てよお」

 バラバラと男達の足音が近づく。幸い、私達はパンツスーツだった。着物に草履よりずっと走りやすかった。
 だが、男達の足も速かった。一人が私達を追い抜き立ちはだかった。

「逃げるのかよ」

 今度は坊主頭である。僧侶か医者崩れであろうか。

「あんたたちに構ってる暇はないの」

 母上は叫んだ。

「けっ! 若作りの大年増が何ほざいてんだよ」

 追いついた男が低い声で凄んだ。まずい。取り囲まれた。
 私はトートバッグの中に忍ばせた懐剣を出そうとしたが、トウモロコシ色の髪の男に腕をつかまれた。

「無礼者!」
「無礼だと? 笑わせるな。異国の女の恰好などして、何が無礼者だ!」

 洋服を着た女性に対して侮蔑の言葉を投げる輩がいるとは聞いていたけれど、浪人にもかような者がいたとは。
 怒りがこみあげてきたが、腕をつかんだ男はもう一方の腕で身体を引き寄せた。

「やめよ!」
「ちょっとやめなさい! 代わりに私を」
「うるせえ、ババア!」

 私に駆け寄ろうとした母上は坊主頭の男に足を引っかけられ、その場に転んだ。

「母上!」
「ケケケ、よく見りゃいい女じゃねえか」

 男が顔を近づけてきた。私は顔を背けた。私の唇は左京様のもの、こんな輩に渡せない。






 その時だった。不意に一味の一人がぐえっと人の声とは思えぬ声を出して、どさりと倒れた。
 そちらに目をやると刀を手にした男性達がいた。

「やべえ!」

 男達は一斉にその場から逃げ出した。数名の男性がその後を追った。
 男の手が離れ、私は母上に駆け寄った。

「大丈夫よ、これくらい、何ともないから」

 そう言うけれど、パンツの膝の辺りに血がにじんでいた。
 
「大丈夫ですか」

 男性の一人が近づいて来た。

「ありがとうございます」

 顔を上げると見知った顔だった。

「兵庫様?」
「あ、あなたは津由子さん……。ではこちらは左京の母御か?」

 地獄で仏とはこのことだった。兵庫様にここで助けられるとは。

「はい。母は足を打っています。病院まで行きたいのですが」
「わかりました。お連れしましょう」

 兵庫様は一緒にいた方に後は頼むと言って、タクシーを拾って私達を夜間診療のある病院にまで連れて行ってくださった。

「今日は朋輩と近くの店で食事をしていたのです。店を出たら、男どもが走っていたのでおかしいと思って追って来たのです。今頃、男達は捕まって奉行所にしょっ引かれていますよ」

 タクシーの中で兵庫様はそう語った。
 病院での診察で母上は軽傷ということだった。傷の手当を終えると兵庫様は家まで送ってくださった。

「何かお困りのことがあったらいつでも連絡してください」

 タクシーを降りた後、兵庫様はそう言って連絡先を書いた名刺をくださった。

 



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